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1-21話:平穏に戻ったと思う瞬間ほど、だいたい冷蔵庫の中身が人の重さを突きつけてくる

 部屋に戻ってしばらくしてから、コハルはようやく息を吐いた。

 玄関の扉は閉まっている。

 鍵もかけた。

 カーテンも閉めた。

 スマホは手の届く場所にある。

 とりあえず、今この瞬間に何かが起きる気配はない。


「……はあ」


 もう何度目か分からないため息が、またこぼれる。

 横腹のあたりが、じん、と鈍く痛んだ。

 さっきまで気が張っていたせいで後回しになっていたが、一人になった途端、そこばかり気になる。

 服の裾をそっと持ち上げて確認すると、傷自体は思っていたより浅かった。血も、もうほとんど止まっている。

 とはいえ、浅いから大丈夫、と気軽に済ませられる見た目でもない。


「うわ……」


 顔をしかめる。

 これ、病院に行ったほうがいいのだろうか。

 スマホを手に取り、近くの休日診療や救急対応をざっと調べる。

 日曜日でも診てくれる病院は、一応あった。歩いて行けない距離でもない。

 でも。


「……いや」


 検索結果を見つめたまま、コハルは止まった。

 病院に行けば、当然聞かれる。

 どうして怪我したのか。

 いつ、どこで、何があったのか。

 転んだのか、事故か、刃物か、誰かと揉めたのか。


「どうして怪我したんですか? ――異世界帰還者に影の刃で切られました」


 自分で口にして、自分で笑いそうになる。


「……無理でしょ」


 即答だった。

 そんな説明が通るわけがない。通ったら逆にその病院が怖い。

 かといって、適当な嘘をつくのも下手だ。

 料理中に切った、では場所が変だ。

 転んだ、でも切り傷として妙な気がする。

 野良猫に引っかかれた、も無理がある。

 冷静に考えるほど、全部苦しかった。


「何でこういう時に限って、普通の説明が成立しないの……」


 ソファに座り込み、スマホを持ったまま天井を見る。

 じん、とまた痛みが走った。

 病院に行かないのも不安だ。

 でも行ったところで説明が詰む。

 詰む未来が見えている場所へ、自分から歩いていく元気も、今はあまりない。


「……うん。今日はもう、これ以上“よく分からないこと”増やしたくない……」


 そう結論づけて、病院の検索画面を閉じる。

 その代わり、せめて自分でできる範囲の手当てだけはしようと思った。

 そこで、ふと視線が部屋の隅に向く。

 ドラッグストアのロゴが入った袋が、置いたままになっていた。


「……あ」


 マナトが今日持ってきたやつだ。

 袋を引き寄せて中を覗き込む。

 消毒液。

 絆創膏。

 ガーゼ。

 軟膏。

 テープ。

 体温計。

 ついでみたいに、のど飴。


「……何でのど飴まで入ってるの」


 ありがたい。ありがたいのだが、ラインナップの生活感がすごい。

 “たまたま寄ったついで”でこうはならない。

 明らかに、“必要そうなものを順番に考えて詰めた人の買い方”だった。

 コハルはしばらく袋を見つめてから、消毒液と絆創膏を取り出した。


「……じゃあ、これで何とかするか」


 洗面所へ行き、傷の周囲を軽く洗う。

 しみる。


「っ……!」


 普通に痛い。

 浅いとか言ったのは誰だ、とさっきの自分に言いたくなった。

 涙目になりながら、どうにか消毒して、ガーゼを当てて、上から固定する。

 鏡越しに見れば、とりあえずだいぶましにはなっていた。

 応急処置としては悪くない。

 そう思いたい。思わせてほしい。


「……うん。たぶん、大丈夫。たぶん」


 そう呟いてから、はっとする。

 さっき電話で、「たぶんで言わないでください」と怒られたばかりだった。


「……やばい、ちょっと真似してるみたいで嫌だな」


 誰も聞いていないのに、妙な気まずさがこみあげる。

 コハルはため息をついて、洗面所を出た。

 それにしても、と改めて部屋を見回して、ようやく日常の輪郭が戻ってくる。

 部屋はいつものままだ。

 クッションも、ローテーブルも、積み上がった漫画も、見慣れたままそこにある。

 なのに今日は、部屋の中の“生活感”だけが少し違って見えた。

 その理由に気づいて、コハルは冷蔵庫の前に立つ。

 扉を開ける。


「……うわあ」


 声が漏れた。

 久しぶりに、冷蔵庫の中がちゃんと充実していた。

 卵、豆腐、カット野菜、納豆、ヨーグルト、冷凍うどん、ウインナー、牛乳、麦茶、ゼリー飲料、適当な惣菜、レトルトのおかゆ、プリン、スポーツドリンクまである。

 何か一つが高級というわけではない。

 むしろ内容は、かなり実用的だ。

 体調が悪くても食べられそうなもの。

 料理しなくてもどうにかなりそうなもの。

 栄養が偏りすぎないもの。

 そういうものが、妙にちゃんと揃っていた。

 しかも、自分で入れる時より整っていて、変に見やすい。


「いつの間に……」


 言ってから、すぐに分かる。

 マナトだ。絶対にマナトだ。

 あの人、自分がゼリーだの消毒液だの出している間に、たぶんこっちも勝手にやっていた。


「……几帳面なんだろうなあ」


 どうでもいいところで、改めてそう思う。


「……これ、絶対一万円以上買い込んでるんだよなあ……」


 冷蔵庫の扉を押さえたまま、コハルは小さく呟く。

 正確な金額は分からない。

 でも、安くはない。全然安くない。

 しかもマナトの性格を考えると、こういう時はたぶんほぼ確実に言う。


『自分が勝手に買ってきただけなので』

『気にしなくていいです』

『必要だと思ったので』


 そして受け取らない。

 たぶん、絶対に受け取らない。


「……受け取らないんだろうなあ」


 容易に想像できた。

 想像できすぎて、少し腹が立つくらいだ。

 ありがたい。

 ありがたいのだが、そのありがたさを全部“善意だけで押し切られる”のも何か違う。

 しかも、あの人はたぶんそれを本気で自然なことだと思っている。

 コハルは冷蔵庫を閉め、スマホを手に取った。

 しばらく画面を見つめる。

 送るか、送らないか。

 迷う。


「……いや」


 でも、迷う必要はない気がした。

 言い争いになるのは目に見えている。

 だったら、先にやってしまった方がいい。

 コハルはキャッシュレス決済アプリを開く。

 金額を入力する。

 10,000円。

 指が一瞬止まる。

 でも、そのまま送金した。


「……よし」


 送ったあと、少しすっきりした。

 いや、きっと文句は言われる。かなりの確率で言われる。


『勝手に送らないでください』とか『そういうつもりじゃないです』とか、たぶんそんな感じだ。


 でも、押し返されるよりはましだった。


「……これで、少なくとも“全部もらいっぱなし”ではないし」


 誰に向けるでもなくそう言ってから、コハルはソファに座り直す。

 横腹が少し突っ張るが、さっきよりは落ち着いていた。

 スマホが震えた。


「うわっ」


 びくっとする。

 反射で画面を見る。

 マナトからだった。


『送りました?』


「早っ」


 既読がつくのも、反応が返ってくるのも、何もかも早い。

 どうしようか一瞬迷ってから、コハルは素直に打ち込む。


『送りました』

『食材代です』


 数秒。

 間が空く。

 その数秒が妙に長い。

 やがて返信が来た。


『いらないです』


「でしょうね!」


 声が出た。

 予想通りすぎる。


『いや、いるんです』

『絶対一万円以上買ってますよね?』


 送る。

 すぐ返ってくる。


『勝手に買ってきただけなので』


「やっぱりそれ言う……!」


 コハルはクッションを抱えた。

 なんとなくこうなる気はしていたが、やはりこうなった。


『勝手に買ってきたのはそっちですけど、勝手に食べるのは私なんで』

『だから受け取ってください』


 送る。

 また少し間が空く。


『……怪我してる時にこういうことで粘らないでください』


 その文面を見て、コハルは目を丸くした。

 怒っているというより、困っている。

 しかも、心配が前面に出ている困り方だった。

 だから、今度はこちらも少し強く出ることにした。


『怪我してるからこそです』

『ちゃんと受け取ってもらわないと、次から気軽に助けてもらえなくなります』


 送信した瞬間、言いすぎたかと思った。

 だが、返信はしばらく来なかった。

 数十秒後、ようやく届く。


『それは困ります』


「……え」


 画面を見つめる。

 予想外に、まっすぐだった。

 そのあとすぐ、もう一件届く。


『……分かりました』

『今回は受け取ります』

『でも、次からは先に言ってください』


 コハルはふっと息を吐いた。

 何だろう。

 勝ったような、負けたような、妙な気分だった。


『分かりました』

『でも先に言ったら受け取らないですよね?』


 そう送ると、返事は少し遅れてきた。


『その可能性はあります』


「正直か」


 小さく笑ってしまう。

 横腹が痛んで、すぐに顔をしかめたが、それでもさっきまでみたいな重たい息苦しさではなかった。


『傷、手当てしましたか』


 次に来たメッセージは、また急にそこへ戻った。


『しました』

『袋の中に消毒液と絆創膏あったので』


『入れておいてよかったです』


 それだけの文面なのに、妙に引っかかった。

 “入っていて助かった”ではなく、“入れておいてよかった”。

 最初から、こういうことまで想定していたみたいな言い方だ。


「……いや、重いな……」


 呟いてから、口元が緩む。

 重い。

 でも、嫌ではない。

 そこがもう、ちょっとまずい。

 その時だった。

 視界の端に、もう一つ紙袋が見えた。

 ドラッグストアの袋とは別の、厚みのある、上品なロゴ入りの紙袋。


「……あ」


 レンマが来た時に、さらっと置いていったやつだ。

 あの時は、そのままハンバーグだの賞金首だのに流されて、完全に後回しになっていた。


「そういえば、これ何……」


 ソファから身を乗り出し、紙袋を引き寄せる。

 持ち上げた瞬間、少し重い。

 嫌な予感がした。

 そっと中を覗き込み、固まる。


「……え?」


 高級食パン。

 小瓶のジャム。

 それから、いくつかのデニッシュ。

 しかも、ただのパンではない。

 袋のロゴに見覚えがある。

 というか、前に誰かが会社で「朝イチで並ばないと買えない」と騒いでいた、あの日曜限定のパン屋のやつだった。


「え!!? なんでこんないいものを……」


 普通に声が出た。

 食パンを持ち上げる。

 ずっしりしている。

 ジャムも、どう見てもちゃんとおいしいやつだ。

 デニッシュもつやつやしている。つやつやしている時点でもう強い。


「……たまたま家にあった、では済まないでしょこれ」


 コハルは慌ててスマホを持ち直した。

 今度はレンマのトーク画面を開く。


『紙袋の中、見ました』

『なんでこんなに良いパン入ってるんですか!?』


 送る。

 すぐに既読がついた。

 やはり、こっちも早い。

 数秒もしないうちに返事が来る。


『いいんだよ〜!』

『コハルちゃんが早く元気になれば嬉しいな』


 軽い。

 軽いのに、ちゃんと気遣っている。

 さらに、もう一件。


『たまたま運良く買えただけだから、気にしないでね』


「……たまたま買えただなんて、絶対嘘……」


 即座にそう思った。

 運良く買えたとして、その貴重なパンを自分にそのまま渡すだろうか。

 普通は渡さない。

 でも、あの人は普通に渡しそうでもある。

 そこが余計に厄介だった。

 コハルは紙袋を見下ろしたまま、しばらく固まる。


 マナトは重い。

 冷蔵庫の中身みたいに、生活そのものへ入り込んでくる。

 先回りして、必要なものを揃えて、何も言わずに整えてしまう。


 レンマは軽い。

 軽いのに、ふっとこういうものを置いていく。

 気づけば印象だけきっちり残していく。


「……何なのほんとに」


 同じ言葉が、また口から出た。

 スマホにさらにメッセージが届く。


『甘いの苦手じゃなかったら、デニッシュ明日の朝にでも食べてね』

『食パンもそのままで結構おいしいよ!』


「情報が具体的なんだよなあ……」


 やっぱり自分で食べる気あったやつでは。

 と一瞬思う。

 だが、それを考え始めるとまた変な方向へ行きそうだったのでやめた。


『ありがとうございます』

『ちゃんと食べます』


 そう返すと、すぐに。


『えらい!』

『いっぱい寝て、早く元気になってね〜』


 軽い。

 でも、その軽さに救われる自分もいた。

 コハルはスマホを置き、テーブルの上の紙袋と、冷蔵庫のある方を交互に見た。


 冷蔵庫いっぱいの実用的な食材。

 テーブルの上の高級食パンとジャム。

 洗面所の消毒液。

 短くて重い文面。

 軽いのにちゃんと沁みる文面。


 部屋の中に、“人に気にかけられた痕跡”が多すぎる。


「……ほんと、静かに休ませてくれないなあ……」


 誰に向けるでもなく言ってから、コハルは笑った。

 笑った瞬間、横腹が痛んで、すぐに顔をしかめる。


「痛っ……」


 やっぱり今日は最悪だ。

 怪我は痛むし、病院には行きづらいし、怖すぎる事実も知ってしまったし、落ち着いたと思ったら今度は高級パンが出てくる。

 なのに。

 その最悪な一日の終わりに残っているのが、怖さだけじゃないのが、余計に厄介だった。


 真面目な顔で「たぶんで言わないでください」と言うマナト。

 軽く笑いながら「いっぱい寝てね」と送ってくるレンマ。


 マナトの真剣な顔と、レンマの屈託のない笑顔が、交互に浮かぶ。


「……だから、何で今それ思い出すの……」


 コハルはまた、ぶんぶんと頭を振った。

 本気で振った。

 犬かというくらい振った。


 考えるな。

 今日はもう考えるな。

 怪我人は休め。


 そう自分に言い聞かせる。

 だが、目を閉じても、冷蔵庫の中身と紙袋の存在感は消えなかった。


 静かな日曜日は、たぶんもう前みたいには戻ってこない。

 代わりに、こういう変な落ち着かなさが、少しずつ日常になっていくのかもしれない。


 それは面倒だ。

 かなり面倒だ。


 でも。

 ほんの少しだけ、嫌ではなかった。

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