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1-20話:見るだけで済むつもりの時ほど、だいたい人はもう半分くらい決めている

 店員から渡された物件資料は、思っていたより分厚かった。


 駅徒歩八分、築三年、1K。

 駅徒歩十二分、オートロック付き、1LDK。

 住宅街寄り、南向き、二階以上、独立洗面台あり。


 条件をそこまで細かく口にした覚えはないのに、それなりに整った候補が並んでいる。

 マナトはカウンター席に座ったまま、資料を一枚ずつめくった。


「この辺りだと、1Kが一番多いですね。お仕事帰りのことを考えると、駅からそこまで遠くない方が人気です」


「……はあ」


「二階以上で探されます?」


「できれば」


「防犯面ですか?」


「まあ、それもあります」


 自分が防犯面を気にする側の顔で座っているのが、少しだけおかしかった。

 いや、おかしいどころではない。

 だが、ここまで来た以上、今さら「やっぱり帰ります」と言うのも妙に気まずい。


 資料の地図を見る。


 コハルのアパートから、徒歩三分。

 徒歩五分。

 徒歩七分。


「……近いな」


「この辺り、よろしいですか?」


「いえ、独り言です」


 店員は営業用の愛想のいい笑みを崩さず、「何でも聞いてくださいね」と言った。


 何でも、というのはだいぶ困る。

 聞きたいことはある。

 だが、素直に口へ出せる内容ではない。

 夜中に女性一人が襲われた時、すぐ駆けつけられる距離がいい。


 ただし、本人に引かれない範囲で。

 できれば偶然を装える近さで。

 でも近すぎると余計に終わっている。

 考えれば考えるほど、終わっていた。


「お客様、通勤先ってどちらですか?」


「今の職場は、少し離れます」


「じゃあ、お引っ越しされると通勤は不便になる感じですか?」


「多少は」


「それでもこのエリアがいい、と」


 店員の言い方に悪意はなかった。

 純粋な確認だ。

 純粋であるがゆえに、少し答えづらい。


「……知人の都合で」


 できるだけ短く返す。


「なるほど」


 店員はやはり深くは突っ込まなかった。

 助かる。

 かなり助かる。

 これで妙に察しのいい人だったら、たぶん帰っていた。


 マナトは次の資料を見る。

 築浅、二階、角部屋。

 間取り図は悪くない。キッチンも最低限ある。風呂とトイレも別だ。

 条件としては、十分すぎるくらい十分だった。

 だが、条件として見ている時点で、もうだいぶ本気である。

 まだ決めたわけじゃない。

 そう思う一方で、検討していること自体は否定できなかった。

 資料の住所を見る。

 見覚えのある通り名が入っている。

 その瞬間、頭の中に勝手な情景が浮かんだ。


 仕事帰り。

 夜。

 スマホが鳴る。


 コハルから「ちょっとだけ困ってるんですけど」とメッセージが来る。

 今より近い距離なら、すぐ行ける。

 数分で着く。

 昨日みたいに、間に合うかどうかを祈る必要もない。


 そこで、思考が少し先に滑った。


 たとえば帰り道にコンビニで何か買っていって、ついでみたいな顔で渡す。

 体調が悪そうならゼリーを持っていく。

 困っていたら階段の下で呼ばれる。

 何かあった時だけでなく、何もない日にも、たまに顔を見ることがあるかもしれない。


「……」


 マナトは無言で資料から目を離した。


 今、何を想像した。


 緊急対応の延長だ、と自分に言い聞かせかけて、すぐにやめる。

 途中から明らかに違った。


「お客様?」


「……すみません」


「気になる物件ありました?」


「いえ、少し考えていました」


 それは本当だった。

 かなり考えていた。

 しかも、だいぶ駄目な方向に。


 店員は別の資料を差し出してきた。


「こちら、少し広めなんですけど人気ありますよ。静かですし」


「……1LDK」


「在宅が多い方とか、荷物が多い方には好評ですね」


 荷物は多くない。

 現場仕事なので在宅でもない。

 必要性はほぼない。


 なのに、その間取り図に目が止まった。


 寝室と、リビング。

 ソファを置いても余裕がある広さ。

 ダイニングテーブルも小さめなら入る。

 キッチンも1Kよりはまともだ。


 そこから先は、ほとんど事故みたいなものだった。


 帰還者絡みで何かあって、コハルがひどく怯えた顔をしている。


 自分はそのまま部屋に上げるしかなくて、とりあえず麦茶を出す。


 ソファに座ったコハルは、普段みたいに強がる余裕もなく、ブランケットに包まれたまま俯いている。


「……すみません」


 小さな声。

 いつもなら絶対に先に「大丈夫です」と言うくせに、その日はそれも言えない。


「一人だと、ちょっと無理かもで」


 そんなふうに言われたら、たぶん自分は「分かりました」としか返せない。


 平静な顔をして、鍵を確認して、窓まで見る。

 何かあってもすぐ動けるようにして、寝る気もないまま起きている。


 しばらくして。


 静かになった部屋の中で、コハルが遠慮がちにこちらを見る。


「……今夜は、一緒にいてくれないですか?」


 潤んだ上目遣い。


「…………」


 マナトは資料を持つ手に力を込めた。


 いや、待て。


 何を想像している。


 コハルがそんな小悪魔みたいなことを言うわけがない。

 むしろ逆だ。

 あの人はこういう時ほど変な遠慮をする。

 限界まで一人で抱えて、それでも駄目になってから、ようやく助けを求めるタイプだ。


 今の想像は、自分に都合がよすぎる。

 だいぶ駄目だ。

 かなり質が悪い。


「……最悪だな」


「お客様?」


「……いえ」


 無表情のまま答えたが、内心はだいぶ終わっていた。

 店員はさらに続ける。


「こちら、お一人だと少し贅沢かもしれませんけど、住み心地はいいと思いますよ」


「そうですか」


「ご見学もできます」


「……今日はいいです」


「かしこまりました」


 見学。

 それは駄目だ。

 今日はまだ駄目だ。

 見学まで行ったら、さすがに一線を越える気がする。

 いや、もう越えている可能性もある。


 だが、自覚のある越境と、なし崩しの越境は違う。

 違う、と思いたい。


 マナトは別の1Kを見る。

 駅からは少し遠いが、その分、静かそうだった。

 コハルの家からは徒歩四分。

 通勤には少し不便。

 だが、夜に何かあったらすぐ動ける。

 四分。

 近い。

 でも近すぎもしない。


 偶然を装える範囲――と考えたところで、また自分が終わっていることに気づいた。


 資料の備考欄に「即入居可」とある。

 その四文字が妙に現実味を帯びて見えた。

 今週中にも住める。

 その気になれば、すぐだ。

 そう思った瞬間、喉の奥が渇いた。


 何を焦っているんだろう、と他人事みたいに思う。

 先日知り合ったばかりだ。


 なのに、自分の思考だけが妙に先へ行く。

 だが、その“先”が必ずしも甘い想像だけではないのが厄介だった。


 狙われる現実。

 不安定なスキル。

 危険な事情。

 昨夜もう襲われていること。

 それらを並べると、近くに住むという発想自体は、間違っていない。

 間違っていない、はずだ。


 ただ、その判断の中に、自分の個人的な感情がかなり混ざっているだけで。


「……最悪だな」


「何かおっしゃいました?」


「いえ。独り言です」


 店員は微笑みながら、さらに数枚の資料を広げてくれる。


 ありがたい。

 ありがたいが、今の自分には親切すぎる。


「ちなみに、長く住まれるご予定ですか?」


「まだ分かりません」


「でしたら、初期費用抑えめの物件から見るのもありですね」


「……そうですね」


 長く住む予定。

 その言葉に、また妙な想像が生まれかける。

 ここに住んだとして、数か月後。

 コハルはこの距離に慣れるのか。

 ある日「近いですね」と笑うのか。


 それとも普通に引くのか。

 いや、引く可能性の方が高い気もする。


 理由を説明すれば――いや、それも重い。

 では黙っておくのか――もっと駄目だ。


 完全に詰んでいる。


 なのに、やめる気がないのが一番駄目だった。

 観念したように、マナトは一枚の資料を脇に寄せた。

 駅徒歩十一分、1K、二階、住宅街寄り。


 コハルの家から近い。

 家賃も現実的。

 広すぎず、言い訳もできる範囲。

 店員がすぐ気づく。


「こちら気になりますか?」


「……条件としては」


「良いですよね。バランスいいと思います」


「そうですね」


「周辺も静かですし」


「……はい」


 バランスがいい。

 たしかにそうだ。

 だからこそ危ない。

 あまりにも“住めそう”だった。

 現実味がありすぎる。

 冗談でも暴走でもなく、普通に候補になってしまう。


「もしよければ、仮押さえもできますよ」


「……仮押さえ」


「はい。もちろん、まだ決定じゃなくて大丈夫です」


「……」


「人気エリアなので、動きは早いんです」


 その一言に、焦りが混じった自分がいて、マナトは内心でまた嫌になる。


 焦るな。

 そう思うのに、埋まったら惜しいと思っている。

 条件がいいからだ。

 たぶん、それだけではない。

 マナトは資料から目を上げた。

 店員は営業スマイルのまま待っている。

 店の外では、春の午後の明るさがガラスに反射していた。


 ここで仮押さえまでしたら、たぶんもう後戻りしづらい。

 だが、しない理由も少しずつ削れていっている。


 守りたい。

 近くにいたい。


 その二つのうち、どちらがより強いのかは、もう考えない方がいい気がした。

 考えたところで、ろくな答えにならない。


「……」


 数秒迷ってから、マナトは静かに口を開く。


「一応、その物件」


「はい」


「詳細だけ、もう少し見せてもらえますか」


「もちろんです」


 店員がぱっと表情を明るくして、追加の資料を取りに立ち上がる。

 マナトはその背中を見送りながら、深く息を吐いた。

 完全にやめるつもりだった。

 見るだけのつもりでもあった。

 なのに今、自分は“もう少し詳しく”を選んでいる。


「……だめだろ、これ」


 小さく呟く。

 だが、それでも席を立つ気にはなれなかった。

 コハルに引かれたくはない。

 でも、守れる距離にはいたい。


 その面倒な二つを両方抱えたまま、マナトは差し出された追加資料を受け取る。


 間取り。

 初期費用。

 周辺環境。

 最寄りのコンビニ。

 夜道の明るさ。

 駅からの経路。


 そんな情報を見ているふりをしながら、頭の奥にはずっと別のものが残っていた。


 玄関先で「できれば、先に俺に」と言った時の、自分の声。


 それを聞いて笑ったコハルの顔。

 そして、守れる距離にいたいと、とうとう言い訳できなくなった自分の感情。

 それが物件情報なんかよりずっと現実的な重さで、胸の内側に座り込んでいた。

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