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1-19話:送ると言った人ほど、だいたい帰り道の静けさで余計なことまで引き受けはじめる

 公園を出ると、昼過ぎの光が住宅街の道にやわらかく落ちていた。

 時刻は十四時を少し回ったくらいだろう。真昼の鋭さは和らぎ、空気だけが妙にのどかだった。

 ベランダの洗濯物が揺れている。

 遠くで子どもの笑い声がする。

 自転車に乗った中学生らしい男子が、コンビニの袋をぶら下げて横を通り過ぎていく。

 どう見ても、ただの日曜日の午後だった。


(……血とか肉とか、そんな話をした直後に、この景色なの、温度差おかしくない?)


 コハルは息を吐いた。

 怖い話は聞いた。

 自分が狙われる理由も、嫌になるくらい理解した。

 それなのに街はいつも通りで、その平穏の中をマナトと並んで歩いている。

 その状況だけが、妙に現実感を狂わせていた。


「どうしました?」


「っ、何でもないです」


「今日は“何でもない”が多いですね」


「そっちがいちいち拾うからです」


 言い返すと、マナトの口元がわずかに緩んだ。


「……今、笑いましたよね」


「気のせいです」


「便利ですね、その返し」


「便利です」


「認めるんだ……」


 コハルは呆れながら前を向いた。

 歩幅は自然と揃っている。

 それがまた、妙に落ち着かない。


(レンマさんとの連絡先交換の時の、マナトさんの顔……やっぱり、ちょっと嫌だったのかな)


 さっきの場面が頭に浮かぶ。

 レンマに連絡先を見せられた時、自分は少し戸惑った。

 でも、冷静に考えれば断る理由は薄い。

 マナトが来られない時の保険になるし、相手は強い。昨日も今日も助けられている。

 それなのに、あの時だけ妙に空気が引っかかった。

 コハルはちらりと隣を見る。


「……マナトさん」


「はい」


「さっきの」


「どれですか?」


「連絡先のやつです」


 マナトは少しだけ視線を動かした。

 答えるまで、一拍置く。


「何ですか」


「いや……そんなに嫌だったんですか?」


「嫌、というか」


「というか?」


「……レンマさん、距離感が急なので」


「それはそうですけど」


「コハルさん、疲れていましたし」


「それもそうですけど」


「それに」


 そこでマナトは言葉を探した。


「……あの人、機嫌がいい時ほど他人のペースを崩すので」


「それ、悪口ですか?」


「事実です」


「今日ずっとそれ言いますね」


「今日は特に事実が多いので」


「そんな日あるんだ……」


 思わず笑う。

 マナトも困ったように笑った。

 それで会話は終わった。

 終わったのだが、コハルの中では微妙に終わりきらなかった。

 疲れるから。

 距離感が急だから。

 たしかに、それはその通りだ。

 でも、たぶんそれだけではない。

 そこまで考えてから、コハルはぶんぶんと頭を振った。


「どうしました?」


「だから、その台詞多いですって!」


「分かりやすいので」


「嫌な評価だなあ……」


 住宅街の角を曲がる。

 すると、見慣れたアパートの外壁が見えた。


「……着いた」


「はい」


「本当に最後まで送るんだ……」


「最初からそう言っています」


 そりゃそうか、とコハルは笑った。

 階段の前で立ち止まる。

 昼の静かな空気。

 数時間前なら、ただの自宅前だった場所が、今は少し違って見える。


「じゃあ、ここで大丈夫です」


「階段、上がれますか」


「上がれます」


「本当に?」


「本当にです」


「無理そうなら肩を貸します」


「そこまでは大丈夫です!」


 即答すると、マナトが視線を落とした。


「……今、ちょっと残念そうにしました?」


「していません」


「しましたよね?」


「気のせいです」


「うわ、また出た」


 コハルは苦笑して、それから少し真面目な声になる。


「……今日は、ありがとうございました」


「いえ」


「説明もですし、送ってくれたのもですし、その……守るって言ってくれたのも」


 言った瞬間、自分で少し言いすぎた気がした。

 顔が熱い。

 けれど、マナトは笑わなかった。


「言った以上、守ります」


 静かに、当たり前みたいに言う。

「だから、一人で無茶しないでください」


「……はい」


「それと」


「まだあります?」


「あります」


「多いなあ……」


「今日聞いた話、忘れないでください」


「忘れませんよ」


「ならいいです」


 沈黙が落ちる。

 コハルは鍵を握ったまま、その場から動きづらかった。

 すると、マナトが先に口を開く。


「コハルさん」


「はい」


「何かあったら、ちゃんと連絡してください」


「レンマさんに?」


「……できれば、先に俺に」


 言い方はいつも通りだった。

 抑揚も少ない。

 でも、そこだけ少し固い。

 コハルは目をぱちぱちさせ、それから笑った。


「へえ」


「何ですか」


「やっぱりちょっと面白いなと思って」


「面白がらないでください」


「でも、ちょっとだけです」


「その“ちょっとだけ”便利ですね」


「うつってきました」


 言いながら、ようやくドアを開ける。

 玄関に入って振り返る。


「……じゃあ、本当にありがとうございました」


「はい」


「マナトさんも、ちゃんと帰ってくださいね」


「帰ります」


「寄り道しないで」


「しません」


「変なこと考えないで」


 その瞬間、マナトがほんのわずかに止まった。


「……」


「今、何か引っかかりましたよね?」


「気のせいです」


「絶対違う!」


 けれど、それ以上追及する前に、マナトは小さく一礼した。


「休んでください」


「そっちもです」


 そして、コハルが中に入るのを見届けるように、その場に立ったまま動かない。

 やっぱり少し重い。

 でも、その重さが嫌ではない自分もいる。

 ドアを閉め、鍵をかける。

 そのまま玄関に寄りかかって、コハルは大きく息を吐いた。


「……もうだいぶ、まずいかも」


 怖い話は増えた。

 面倒な世界のことも知った。

 静かな日曜日は、たぶんもう戻ってこない。


 ◇


 コハルの部屋の電気がついたのを確認してから、マナトはようやく踵を返した。

 住宅街は静かだった。

 春の午後。

 風は穏やかで、どこも平和で、数十分前まで勇者の血肉がどうとか話していたのが嘘みたいだった。

 だが、嘘ではない。

 コハルは狙われる。

 しかも新入りで、気配も隠せず、スキルも不安定だ。

 実際、昨日も襲われている。

 放っておく理由が、どう考えてもなかった。

 レンマがコハルを守ってくれるなら、メリットしかない。

 理屈では分かっている。

 レンマは強い。

 信頼もできる。

 あの人がコハルに害を与える心配はない。

 むしろ守る側だ。

 それなら、連絡手段が増えるのはどう考えてもプラスだった。

 なのに、歓迎したくなかった。

 理由は分かっている。

 分かっているが、認めたくないだけだ。


「……面倒だな」


 ぽつりと呟く。

 自分の感情が、である。

 数秒考えて、それからごく自然に別の結論へ思考が滑った。

 コハルの家の近くに物件を構えよう。

 あまりにも自然にそう考えて、次の瞬間、足が止まった。


「……いや、待て」


 何を考えた、今。

 引っ越す。

 コハルの家の近くに。

 理屈はある。

 何かあった時に駆けつけやすい。

 夜でも対応しやすい。

 今後の安全面を考えるなら、合理性は高い。

 かなり高い。

 だが、冷静に考えるとだいぶ危ない。

 世話役なので近所に引っ越しました、は説明としてかなり終わっている。

 普通に引かれる。

 マナトは少し空を見上げた。

 青い。

 どうでもいいくらい青い。


「……いや、でも、まだ決めたわけじゃない」


 口に出してみる。


「見るだけなら別におかしくない」


 おかしくはある。


「いや、おかしくないだろ。安全確保のための住環境見直しだ」


 言い換えたところで中身は同じだった。

 自分で自分に言い訳している。

 その自覚が遅れてやってくる。

 だが、ここでやめる理由もない気がした。

 いや、ある。

 かなりある。

 だが、ない気もする。

 実際、近い方がいいのは事実だった。

 夜に何かあった時、今の距離だと少し遅れるかもしれない。

 昨日も今日も、たまたま間に合っただけだ。

 だから、住む場所を調整するのは合理的。

 合理的だから問題ない。


「……本当に?」


 自分で言って、自分で詰まった。

 気づけば、足は駅前の方へ向いていた。


「……いや」


 立ち止まる。


「行くな」


 自分で言う。


「今日のところはやめておけ」


 にもかかわらず、足は一歩進んだ。


「何をやってるんだ……」


 小さく呟く。

 やめるべきだ。

 今ならまだ引き返せる。

 少なくとも、今日動く必要はない。

 だが、頭のどこかは妙に冷静だった。

 何かあってからでは遅い。

 近くに住めば守りやすい。

 それは事実だ。

 問題なのは、それを自分がやろうとしていることだけである。


「……詰んでるな」


 小さくため息を吐く。

 駅前が近づくにつれ、人の気配が増えていく。

 買い物袋を提げた家族連れ。

 カフェの前で立ち止まる大学生らしい二人組。

 ドラッグストアの前で安売りの飲み物を見ている高校生たち。

 日常の音があふれている。

 その中を、マナトはいつも通りの顔で歩いていく。

 表情は変わらない。

 歩く速度も一定だ。

 だが頭の中だけは、かなり騒がしかった。

 駅前の角を曲がると、不動産屋の青い看板が見えた。

 ガラス張りの店頭には、間取り図つきの物件情報が並んでいる。

 ワンルーム。

 1K。

 1LDK。

 築浅。

 駅徒歩十分。

 即入居可。

 マナトは店の前を通り過ぎた。

 そのまま五歩ほど歩いたところで止まる。


「……」


 振り返る。


「……いや」


 また前を向く。

 だが、二歩進んでまた止まった。

 完全に不審者の動きだった。

 通行人に怪しまれていないか少し気になって、マナトは咳払いを一つした。

 誤魔化せている気はしなかった。

 その時、コハルの顔が浮かんだ。

 玄関の前で、少し赤くなりながら「ありがとうございました」と言った顔。

 それから、「できれば、先に俺に」と返した時の、自分でもよく分からない硬さ。

 最後にドアの向こうへ消える前、安心したみたいに笑った顔。


「……」


 マナトは目を伏せた。

 守れる距離にいたい。

 その感情だけは、もうごまかしようがなかった。


「……見るだけだ」


 誰にともなく言う。


「本当に見るだけ」


 言いながら、自分で信用していなかった。

 それでも結局。

 マナトは踵を返し、不動産屋の前まで戻った。

 ガラス越しに店内を見る。

 カウンター。

 観葉植物。

 壁に貼られた路線図。

 奥で、スーツ姿の店員がパソコンを見ていた。

 今ならまだ引き返せる。

 外から見ているだけなら、ぎりぎりセーフだ。

 だが次の瞬間には、自分でも驚くほど自然な動きでドアを開けていた。

 からん、と軽い音が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店員の明るい声が飛んでくる。

 マナトは一瞬だけ本気で帰りたくなった。

 だが、もう遅い。


「お部屋探しですか?」


「……はい」


 答えた瞬間、自分が何をしているのか改めて理解して、少し遠い目になった。

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