1-17話:会計ひとつで妙な張り合いが始まるのは、だいたい当人たちだけが真剣である
ハンバーグを食べ終えた頃には、コハルの胃もようやく落ち着きを取り戻していた。
「……ごちそうさまでした」
ぽつりと呟いて、水をひと口飲む。
おいしかった。
普通においしかった。
問題は味ではなく、食事中ずっと左右と正面から発生していた妙な圧である。
(何だったんだろう、今の時間……)
振り返れば、向かいからは軽口。
隣からは無言の牽制。
そして自分は、ひたすら胃に悪かった。
だが、とりあえず食事は終わった。
ここからは会計を済ませて、帰るだけだ。
そう思った、その時だった。
「じゃ、俺払うね」
レンマがあっさり伝票を取った。
「あ、いや、それはさすがに――」
「いいよいいよ。昨日のやつで稼いだから」
「いやでも」
「コハルちゃんは怪我人」
「それでも」
「マナトの分も出すし」
「それは自分で払います」
食い気味だった。
マナトが即座に伝票へ手を伸ばす。
「え」
「いや俺が」
「いやいや、今日誘ったの俺だし」
「でも俺も来てるんで」
「世話役だから?」
「そうです」
「その設定、便利だねえ」
レンマが楽しそうに笑う。
コハルは二人の間で視線を泳がせた。
「えっと……割り勘じゃ駄目ですか」
「駄目です」
「ダメ」
「声揃うんだ……」
そこだけ妙に息が合っているのが腹立たしい。
レンマが伝票を持ったまま立ち上がる。
すると、マナトも立ち上がった。
「俺が払います」
「いいって」
「よくないです」
「なんで?」
「なんでって……」
マナトが言い淀む。
その間にも、レンマはにこにことしたままだ。
「コハルさんに借りを作らせたくないので」
「えっ」
コハルが固まる。
「……借り?」
「違いますか」
「いや、違わないかもですけど、そんな言い方されると急に重くないですか!?」
レンマは一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「はは。マナト、意外とそういうとこあるんだ」
「ありますけど」
「認めるんだ」
マナトは真顔のままレンマを見る。
「レンマさんこそ、軽いノリで人の分まで払おうとしないでください」
「できるからするだけだよ」
「それが困るんです」
「何が?」
そこで数秒、沈黙が落ちた。
コハルは嫌な予感しかしなかった。
この沈黙のあと、だいたいろくなことが起きない。
そして案の定だった。
「……コハルさんが気を遣うので」
「うわあ」
思わず声が出た。
「そこ言うんだ」と、レンマ。
「言います」と、マナト。
「いや私、まだ何も言ってないんですけど!?」
「顔に出てます」
「マナトさんまで!?」
「出てるよ」
「二対一だ……」
ひどい。
コハルは額を押さえた。
もう本当に、会計だけして帰りたい。
「じゃあこうしよう」
レンマが、妙に楽しそうな声で言った。
「今日は俺が払う。次はマナトが払う」
「次?」と、コハル。
「何で次がある前提なんですか」と、マナト。
「え、またご飯行くでしょ?」
あまりにも自然に言われて、コハルは言葉に詰まった。
マナトの眉がぴくっと動く。
「……その予定は聞いてません」
「今言ったから」
「雑」
「いや、ちょっと待ってください!」
コハルが慌てて割って入る。
「次とかまだ決まってないですし!」
「じゃあ今決める?」
「何でそんな軽いんですか!?」
「軽くないと生きづらいから」
「人生観が急に出てきた……」
マナトは小さくため息をつき、結局、自分の財布を出しかけた手を止めた。
「……今日は譲ります」
「お、偉い」
「別に褒められたくてやってません」
「知ってる」
レンマがひらひらと片手を振り、そのままレジへ向かう。
背中がやたら気楽そうで、見ているだけでこっちは落ち着かない。
「……すみません」
コハルが小声で言うと、隣のマナトが首を振った。
「コハルさんが謝ることじゃないです」
「でも」
「でもじゃないです」
「はい……」
やっぱり、ちょっと怒られている感じになる。
だが声は昨日ほど強くなくて、むしろどこか諦めに近かった。
「……レンマさん、ああいう人なんですね」
「いや、俺の知ってるあの人は、あんな感じじゃなかったんですよ」
「え? そうなんですか?」
「レンマさんって、いつもすごくドライで……付き合いが悪いことで有名なんです」
「そうなんですね……」
「はい」
「マナトさん、ちょっと疲れてません?」
「正直少し……」
「ですよね」
思わず少し笑うと、マナトもわずかに口元を緩めた。
◇
「ごちそうさまでした」
「いいんだよ。付き合ってくれてありがとうね!」
店を出ると、外は思ったより暖かかった。
日差しは柔らかく、風も強くない。
春の午後、という感じがする。
「じゃあ、ちょっと歩く?」
会計を済ませたレンマが、当然のようにそう言った。
「歩かないです」
マナトが即答した。
「コハルさん、痛むんで」
「え、でも食後に歩くの、体にいいよ?」
「怪我人に適用しないでください」
「そういうもの?」
「たぶん今ここで一番体に悪いの、会話なんですけど」
コハルがぼそっと言うと、二人ともこちらを見た。
「な、何ですか」
「いや」
レンマが笑う。
「ほんと反応いいなあと思って」
「それ、褒め言葉のつもりですか?」
「もちろん!」
「……」
レンマの爽やかな笑顔。
反応に困る。
そこで、マナトがコハルの横顔を覗き込むように見た。
「本当に大丈夫ですか?」
「え」
「顔、少し疲れてます」
「そんなすぐ分かります?」
「分かります」
「怖い……」
だが、実際疲れているのは事実だった。
痛みは食事前よりマシだが、ゼロではない。
コハルは正直に言う。
「……ちょっとだけ、痛いです」
「じゃあ帰りましょう」
マナトは即断した。
だが、レンマは「んー」と顎に手を当てる。
「この近く、ベンチのある公園があるよ。座るだけなら大丈夫じゃない?」
「何で公園に行く流れになるんですか」
「天気いいから」
「理由が軽い」
「でも嫌いじゃないでしょ、こういう日」
そう言われて、コハルは少しだけ言葉に詰まった。
たしかに、天気はいい。
風も気持ちいい。
静かに散歩をするなら、少しだけ悪くないかもしれない。
――この二人がいなければ。
「……静かな人となら、です」
「ひどい」
「自覚あったんですね」と、マナトがぼそっと言う。
レンマは肩をすくめて笑った。
「じゃあこうしよう。三分だけ」
「三分?」
「ベンチ座って、水飲んで、コハルちゃんが疲れたら解散」
「タイムアタックみたいに言わないでください」
「じゃあ二分?」
「短くしても誠実さは増えません」
そのやり取りに、マナトはこめかみを押さえた。
「……コハルさん」
「はい」
「行きたいですか」
「えっ」
聞かれると思っていなかった。
レンマも口を閉じて、こちらを見る。
二人に見られるの、やめてほしい。
心拍数が上がるから。
「……少し座るだけなら」
「はい」
「本当に少しだけですよ」
「分かりました」
「やった」
レンマだけが素直に喜んだ。
◇
公園はファミレスから歩いてすぐのところにあった。
小さな遊具と、木製のベンチがいくつかあるだけの、ごく普通の場所だ。
日曜の午後らしく、離れたところで子どもが走り回っている。
土曜日に続いて、二度目のお散歩。
そういえば最近、毎日のようにマナトと一緒にいるな、とコハルはぼんやり思った。
(マナトさんは私をどんな風に思ってるんだろ……)
そうちらっと考えたが、深く考えないように軽く頭を振る。
「平和ですね……」
話題を捻り出せず、コハルがぼそりと呟く。
「さっきも言ってたね」と、レンマ。
「言いたくもなりますよ」
「昨日との差が激しいから?」
「激しすぎます」
ベンチに座ると、さっきまで立っていたぶんだけ楽になる。
コハルはこっそり息を吐いた。
その両側に、当然のように男二人が立っているのはちょっとどうかと思った。
「何で座らないんですか」
「え?」
レンマが首を傾げる。
「座っていいの?」
「聞くんだ……」
「マナトが怒りそうだから」
「どうして俺が怒るんですか」
「でも顔はちょっと怒ってるよ」
「気のせいです」
「気のせいかなあ」
結局、レンマはコハルの右隣に、マナトは左隣に座った。
「狭い」
「ベンチですから」
「物理の話じゃないです!」
コハルが半泣きで訴えると、レンマが吹き出す。
マナトは真顔のままだが、口元が少しだけ緩んでいた。
「楽しそうですね、二人とも」
「コハルちゃんが面白いから」
「違います。楽しいのはマナトさんのほうじゃないですか」
「俺ですか?」
「ちょっと笑ってました」
「気のせいです」
「いや絶対」
「証拠は」
「顔」
「曖昧ですね」
「詰め方が強い」
そこで、ふいに風が吹き、ベンチ横の木がさわさわと鳴った。
沈黙が落ちる。
その静けさの中で、コハルは思った。
(……こういうの、なんか変だな)
怪我をした翌日に、昨日知り合った強い人と、怒ったくせに世話を焼いてくる人に挟まれて、日曜の公園で風に当たっている。
意味が分からない。
でも、悪くない。
そう思った瞬間。
「そうだ」
レンマが、ふと思い出したように言った。
「マナト、コハルちゃんに言ってないの?」
空気が変わった。
コハルがきょとんと二人を見比べる。
マナトは少しだけ眉を寄せた。
「……何をですか?」
「勇者の血のことだよ」
「……」
マナトは答えない。
その沈黙だけで、コハルの背筋に嫌なものが走った。
「やっぱり」
レンマが小さく言う。
「え!? 何のことですか!?」
「ちゃんと言っておいたほうがいいよ」
「その話は、まだ早いと思ってました」
マナトが低く答えた。
「コハルさんを、いたずらに怖がらせるだけだと」
「でも、実際襲われてるんだから、言わないとだよね」
「……」
「え……」
コハルは二人の顔を交互に見た。
「シリアスな話ですか?」
「うん」
レンマが頷く。
「まあ、さらっと言うとね」
そこで珍しく、ほんの少しだけ言いにくそうに目を逸らした。
「勇者は、途中帰還者と違って、女神の加護が桁違いに強いんだよ」
「え、そうなんですね」
「だから、その身体にも隅々まで魔力が宿るんだよ。血にも、肉にも」
「……」
コハルの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
レンマは声を落としすぎず、けれど軽すぎもしない調子で続けた。
「人魚の血と肉を摂取すると不老不死になれる、みたいなおとぎ話、聞いたことない?」
「……ありますけど」
「それに近い」
「……なんか、嫌な流れ……」
嫌な予感が、きれいに正解へ向かっていく。
「つまりね、勇者の身体の血や肉を食べると、魔力が増えるんだよ」
「やっぱりそういう流れですよね!? めっちゃ怖い!!」
「まあ、生きたパワーアップ系アイテムなわけ」
「言い方!!」
悲鳴じみた声が出た。
「いや待ってください」
コハルは思わず自分の腕を押さえた。
「それ、待ってください」
「うん」
「全然待ってくれてる感じしないんですけど!?」
レンマが小さく吹き出す。
だが、隣のマナトは笑わなかった。
「……だから、昨日襲われた可能性があります」
マナトが静かに言う。
コハルはそちらを見た。
「え」
「コハルさんはまだ力の扱いに慣れていないし、気配も隠せていない」
「……」
「分かる相手には分かります」
「……」
昨日の帰還者の目を思い出す。
あれは偶然ではなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、胃のあたりがひやりとした。
「……なんか」
コハルは乾いた笑いを漏らした。
「嫌すぎません?」
「うん」
レンマが即答する。
「かなり嫌」
「即答しないでください!」
「でもほんとに嫌な話だから」
レンマが肩をすくめる。
その軽さが救いでもあった。
完全に深刻な顔で言われていたら、たぶんもっと怖かった。
マナトがわずかに視線を落とす。
「……すみません」
「え?」
「もっと早く話すべきでした」
「いや」
コハルは慌てて首を振った。
「怖いですけど」
「……」
「でも、知らないままよりはマシです」
「……」
「今、聞けてよかったです。たぶん」
マナトはしばらく黙って、これから小さく頷いた。
「今後は、できるだけ一人で動かないでください」
「そこに戻るんだ」
「戻ります」
「はい……」
もう逆らえる気がしなかった。
レンマがコハルの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないです」
「だよね」
「自分の血と肉がパワーアップアイテム扱いされてるって聞いて、大丈夫な人いると思いますか!?」
「まあ、いないか」
「いません!」
コハルは勢いよく言ってから、深く息を吐いた。
「……でも」
「うん?」
「昨日のこと、ちゃんと理由があったんだなって思うと」
「うん」
「なんか……逆に納得はしました」
「それはよかった」
「よくはないです」
「そうだね」
レンマがあっさり引く。
その引き際の良さに、コハルは肩の力を抜いた。
また風が吹いた。
さっきまでと同じ春の風なのに、今は違って感じる。
平和な公園も、柔らかい日差しもそのままなのに、自分がいる世界の輪郭だけが少し変わってしまったみたいだった。
「……じゃあ私、今後」
コハルはぽつりと言った。
「本当に気をつけないといけないんですね」
「はい」と、マナト。
「うん」と、レンマ。
二人とも、今度は同じくらい真面目な顔をしていた。
コハルはその顔を順番に見て、少しだけ苦く笑う。
「何か、急にすごい話になりましたね」
「最初からすごい話だよ」
レンマが言う。
「男の子になれる時点で」
「それを今さら言うんだ」
「今さら言う」
「雑談のノリでまとめないでください」
そこで、マナトが困ったように笑った。
「……でも」
「はい?」
「一人で抱え込まないでください」
「え」
「怖いなら怖いで、ちゃんと言ってください」
「……」
「無理はしないでください」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐで。
コハルは一瞬だけ言葉に詰まった。
怖い話を聞いたはずなのに、なぜか別の意味で心臓がうるさい。
「……はい」
ようやくそう返すと、レンマが横でくすっと笑った。
「マナト、今のちょっとかっこよかったよ」
「茶化さないでください」
「いや、ほんとに」
「レンマさん」
「はいはい」
軽く手を上げるレンマ。
その隣でコハルは、何となく顔を上げられずにいた。
平和な日曜の公園で、自分は思っていたよりずっと危ない立場にいて、でも、そのことを一緒に考えてくれる人が二人いる。
静かではない。
全然ない。
けれど、少なくともさっきまで感じていた漠然とした不安は、少しだけ輪郭を持って、そのぶん向き合いやすくなった気がした。




