氷の魔女、来訪
行政庁本庁の上層は、夜空に向かって裂けていた。
白い壁は斜めに断たれ、青白い魔灯は砕け、行政長官の執務区画があるはずの階は、まるで巨大な刃で削り取られたように崩れている。
門前にいた夜間警備隊は、誰も声を出せなかった。
フィエルは剣を下ろしていない。
リリィの足元では、黒い影がざわざわと広がり続けている。
「外じゃない。中の下」
リリィが言った。
「オルガは本庁の地下に逃げた。まあ、普通の職員が使う場所じゃないだろうね」
フィエルは本庁の白い壁を見上げた。
「なら、下へ行くわ」
その時、リリィの死霊が一斉に動きを変えた。
本庁を囲んでいた黒い影のうち、いくつかが裏手の馬車置き場へ流れていく。石畳の隙間に入り込み、排水溝を這い、古びた車止めの下へ潜る。
だが、そこで弾かれた。
ぱちり、と黒い影が焦げる。
リリィが目を細める。
「見つけた」
「入口?」
「たぶん。死霊が嫌がられてる。地面の下に、隠し扉がある」
フィエルは振り返る。
行政庁本庁の裏手。
馬車置き場に見える一角。
そこに、死霊たちが集まり、黒い水たまりのように渦を巻いていた。
「開けられる?」
「死霊だと無理。中から弾かれる」
リリィは少しだけ笑った。
「でも、あなたなら開けられるでしょ」
フィエルは答えなかった。
剣を持つ手に、わずかに力が入る。
その瞬間、行政庁本庁の奥門が開いた。
出てきたのは、行政官ではなかった。
銀灰色の軍服。肩には軍部の紋章。護衛ではなく、明らかに戦闘を想定した兵たちが列を組んでいる。剣士、槍兵、魔術兵。夜間警備隊よりもずっと統制された動きだった。
その先頭に立つ男が、硬い声で告げた。
「そこまでだ」
年は四十ほど。整えられた口髭に、冷たい目。
彼は本庁上層の崩れた壁を一瞥し、フィエルとリリィへ視線を戻した。
「ヴァルディア軍務副長官、ラグナス・ヴェイルだ。王国の冒険者が、我が国の行政庁本庁を破壊した。これは明確な越境行為であり、犯罪行為でもある」
フィエルは静かに返す。
「銀杯商会を燃やした女が、ここに逃げ込んだわ」
「証拠は?」
リリィが鼻で笑った。
「上にいたじゃん。今逃げたけど」
「そのような者は確認されていない」
「確認する気がないだけでしょ」
ラグナスの眉がわずかに動いた。
だが、彼の後ろに並ぶ兵士たちは、彼ほど落ち着いていなかった。
「白の剣……」
誰かが呟いた。
別の兵士が、リリィの足元に広がる黒い影を見て喉を鳴らす。
「隣は、ネクロマンサーか」
「本当に二人だけなのか?」
「二人だけで済んでるなら、まだましだろ……」
ラグナスが振り向かずに言った。
「黙れ」
兵士たちは口を閉ざす。
だが、怯えは消えない。
それは当然だった。
白の剣フィエル。
死霊を街中に放ち、ヴァルディアの冒険者たちを次々と眠らせたネクロマンサー、リリィ。
そして、どちらも人外と称される王国のSランク。
その二人が、行政庁本庁の前に立っている。
そこへ、さらに別の騒ぎが重なった。
背後の大通りから、武装した冒険者たちが押し寄せてくる。
死霊の海を抜けてきた者たちだ。
先頭にいるのは、ヴァルディアでも名の知れたAランクパーティーだった。盾役の男は肩で息をし、魔術師は浄化魔法を使いすぎたのか顔色が悪い。斥候らしき女は、耳元で何かを囁かれ続けたように青ざめていた。
それでも、彼らは突破してきた。
リーダー格の槍使いが、フィエルとリリィを見て顔をしかめる。
「死霊の海を抜けたと思ったら、白の剣とネクロマンサーかよ。割に合わねえな」
リリィは振り返った。
「その呼び方、流行らせないでくれる?」
槍使いは苦笑する。
「悪いな。もう遅いと思うぞ」
行政庁本庁前の広場は、軍と冒険者に挟まれた。
前には軍務副長官と軍隊。
後ろにはAランクを筆頭とする冒険者たち。
普通なら、完全包囲だった。
リリィが小さく言う。
「囲まれたね」
フィエルは剣を下ろさない。
「これで?」
リリィは楽しそうに目を細めた。
「一応相手はいっぱいいるからね」
ラグナスが一歩前へ出た。
「武器を捨てろ。死霊を引け。これ以上抵抗するなら、軍は貴様らを敵性戦力として排除する」
背後のAランク冒険者も槍を構える。
「こっちも街を守る仕事だ。悪いが、おとなしくしてくれ」
フィエルは黙っていた。
リリィが、堪えきれないように笑った。
「排除だって」
フィエルが少しだけ首を傾げる。
「誰が排除するのかしら?」
「あいつらじゃないかな」
フィエルはほんのわずかに笑った。
「面白い冗談ね」
ラグナスの顔が険しくなる。
「笑うな」
リリィは肩をすくめた。
「どうやって排除するか教えて欲しいもん」
軍の魔術兵が一斉に魔法陣を展開した。
冒険者たちも構える。
死霊たちがざわりと広がる。
広場の空気が、刃物のように張り詰めた。
「白の剣とネクロマンサーを同時に相手にする気かよ」
背後の冒険者の一人が小さく呟く。
「命令ならな」
「命令で死ぬのは嫌だな……」
リリィの足元から、黒い影が一歩分だけ前に出る。
軍の前列が、わずかに後ずさった。
その時だった。
空気が冷えた。
はじめは、夜風が変わっただけのように思えた。
だが、次の瞬間、行政庁本庁前の石畳に白い霜が走った。
死霊の影すら、一瞬だけ動きを止める。
リリィが顔を上げる。
「あ、来た」
フィエルは剣を構えたまま、少しだけ表情を緩めた。
「演出が上手ね」
リリィの死霊は、街中だけでなく、王国側に通じる合図にもなっていた。
あれだけ派手に暴れれば、気づく者は気づく。
氷の結晶が、空中で円を描いた。
その中心が割れるように開き、冷たい光が広場に落ちる。
そこから、一人の女が現れた。
長い髪。白い肌。静かな眼差し。
氷を従えるように立つその姿を見た瞬間、軍の列が大きく揺れた。
セリーナ。
氷の魔女。
彼女はフィエルとリリィの間に立ち、周囲を一度だけ見渡した。
崩れた行政庁本庁の上層。
倒れた夜間警備隊。
広場を囲む死霊。
軍隊。冒険者。怯える兵士。
そして、剣を抜いたままのフィエル。
セリーナは静かに息を吐いた。
「少し目を離すと、なぜ行政庁本庁が半壊しているのかしら」
リリィが即答する。
「フィエルが斬った」
フィエルも淡々と返す。
「挑発されたの」
セリーナは目を閉じた。
「でしょうね」
そのやりとりだけで、場の空気が変わった。
軍の中から、かすれた声が漏れる。
「氷の魔女……」
背後のAランク冒険者のリーダーも、槍を構えたまま顔を引きつらせた。
「白の剣、ネクロマンサー、氷の魔女。これ、街を守る仕事じゃねえ。災害対応だろ」
ラグナスは、それでも前へ出た。
「王国のSランクが三名、我が国の行政庁本庁を襲撃するとは――」
「言葉を選びなさい」
セリーナの声は静かだった。
だが、その一言で、地面の霜が軍の足元まで走った。
兵士たちの靴底が白く凍りつく。
「私たちは、貴国の行政庁本庁へ逃げ込んだ犯罪者を追っています。銀杯商会の焼却、王国冒険者の拉致、活性水の違法運用。そして、証拠隠滅のために味方ごと焼き払った軍用火力」
セリーナはラグナスを見た。
「説明を求める立場はこちらです」
ラグナスは口を開いたが、言葉が出なかった。
セリーナは続ける。
「今この場で私たちと戦うなら、それは貴国が犯罪者を守る意思表示と見なします」
「脅すつもりか」
「確認です」
氷が、さらに薄く広がる。
リリィが小さく笑う。
「セリーナ、やっぱり怖いね」
セリーナは視線を向けずに返した。
「あなたの死霊よりは礼儀正しいつもりよ」
「そうかな」
「そうです」
フィエルが隠し扉の方を見る。
「下にいる」
セリーナは即座に状況を飲み込んだ。
「入口は?」
リリィが指差す。
「馬車置き場の下。死霊が見つけた。結界付き」
「なら、フィエル、リリィ。地下へ」
フィエルが聞く。
「ここは?」
セリーナは軍と冒険者たちを見た。
「任せてください」
リリィがにんまり笑う。
「お話し合い?」
セリーナは淡く微笑んだ。
「まさか。ここにいる全員に、動かないでいただくだけです」
その言葉と同時に、広場の霜が一段濃くなった。
軍は動けない。
冒険者たちも、剣を抜いたまま一歩も踏み出せない。
死霊の海は黒く本庁を囲み、白い氷はその外側を覆っている。
セリーナはラグナスに向き直った。
「では、通してもらいますね」
誰も答えなかった。
フィエルは剣を握り直し、リリィは死霊を隠し扉へ流し込む。黒い影が石畳の隙間に沈み、内部の結界へ群がっていく。
地上では、氷の魔女が軍と冒険者を止める。
地下では、白の剣とネクロマンサーが獲物を追う。
狩りは、地上の包囲から地下の追跡へ移った。




