行政庁の夜
死霊たちは街を走った。
屋台の布をめくり、馬車の車輪を撫で、閉じかけた扉を押し開ける。人々の足元をすり抜け、背中を冷たく撫で、耳元で声にならない声を囁いた。
「きゃあっ!」
「影が走ってる!」
「誰か、兵士を呼べ!」
ヴァルディアの夜が、一気に騒ぎ出す。
何人かの冒険者が、剣を抜いて通りへ飛び出した。
「魔物か?」
「死霊だ!死霊が湧いてるぞ!」
炎魔法が放たれる。黒い影の一つが焼けて弾けた。
だが、次の瞬間、その背後から三つの影が飛び出す。冒険者の足首に絡み、膝を崩し、背中から冷気を流し込んだ。
「ぐっ……!」
冒険者は地面に倒れ、意識を失った。
別の通りでは、盾を構えた男が死霊の群れへ突っ込んだ。盾が黒い影を押し潰す。だが、足元の排水溝から別の影が伸び、男の首筋にまとわりついた。
「く、そ……」
男は剣を振る前に膝をついた。
屋根の上から弓を構えた女冒険者もいた。彼女は死霊に矢を放つが、矢は影を貫くだけで止まらない。背後の煙突から小さな骨鳥が飛び出し、彼女の視界を黒く覆った。
女は悲鳴を上げ、屋根に座り込む。
リリィは、そのすべてを見ていた。
「邪魔なら寝てて。殺しはしないよ」
フィエルが横目で見る。
「殺していないのね」
「レンと約束してるから。部外者は殺さない。敵でも、まだ話を聞けそうなら殺さない」
リリィは少し不満そうに続けた。
「でも、邪魔するなら寝ててもらう」
通りの向こうで、炎魔法を撃った男たちが逃げていた。銀杯商会を外から焼いた魔術師たちだ。彼らは三手に分かれ、薬務局方面、水路沿い、そして行政区へ向かう大通りへ散っていく。
死霊が追う。
一人の魔術師が振り返り、火球を放った。三体の死霊が焼ける。だが、路地の壁からさらに十体が染み出した。
「何体いるんだよ!」
男が絶叫する。
遠く離れたリリィが、小さく首を傾げた。
「何体いるんだろうね」
死霊たちは男を囲む。前から、後ろから、上から、足元から。詠唱の途中で喉に冷気を流し込み、手首を押さえ、目の前に焼け死んだ誰かの影を見せた。
男の顔から血の気が引く。
「やめろ、来るな、来るな!」
次の瞬間、影が男を飲み込んだ。
殺しはしない。
ただ、意識を刈り取る。
通りの端で、それを見ていた冒険者の一人が震える声で呟いた。
「この規模……ネクロマンサーだろ……」
その言葉は、夜の中を走るように広がっていった。
「ネクロマンサーがいるぞ!」
「なんでネクロマンサーが攻めてきているんだ!」
「知るか!なんとかしないと!」
「俺達でどうすんだよ!」
リリィの眉が少し動く。
「そのまんまじゃん。もうちょっと可愛い呼び方ないの?」
「今、それを気にするの?」
フィエルが言うと、リリィは唇を尖らせた。
「気にするよ。名前は大事」
その時、リリィの足元の影が一斉に同じ方角を向いた。
行政区。
白い石畳が続く、ヴァルディアの中枢。
薬務局、商務局、警備局、そして各局を束ねる行政庁本庁がある場所。
リリィの声が低くなる。
「いた」
「どこ?」
「行政庁本庁。薬務局じゃない。本庁の方」
フィエルの目が細くなった。
「トップがいる庁舎ね」
「そう。逃げ込むには、ずいぶん偉い場所だね」
二人は走った。
死霊が先行し、通りを荒らし、邪魔な者を眠らせていく。馬車が急停止し、兵士たちが慌てて道を開ける。何人かはフィエルたちを止めようとしたが、リリィの死霊がその足元を絡め取り、声を上げる前に意識を落とした。
行政庁本庁は、白い壁に囲まれた巨大な庁舎だった。
高い鉄門。
ヴァルディアの紋章。
夜でも消えない青白い魔灯。
奥には行政長官や各局の長が使う上層区画がある。
門前には、夜間警備隊が展開していた。
隊長らしき男が剣を抜く。銀の肩章。硬い表情。彼は混乱していたが、職務を捨ててはいなかった。
「止まれ!ここはヴァルディア行政庁本庁だ。抜剣したまま近づけば、襲撃と見なす!」
フィエルは足を止めなかった。
「銀杯商会を燃やした女が中に逃げ込んだわ。出して」
「何の話だ。ここにそのような者は――」
「いるよ」
リリィが言った。
彼女の死霊が門の下、排水溝、壁の影、馬車置き場、裏庭へ流れ込もうとする。しかし、本庁を囲む結界がそれを弾いた。黒い影がいくつも焼けるように消える。
リリィが舌打ちする。
「防御が厳しい。さすが本庁」
警備隊長が叫ぶ。
「貴様ら、これ以上近づけば拘束する!」
フィエルが静かに剣を構えた。
「邪魔」
警備隊が動く。
前衛の盾持ちが三人、同時に踏み込む。後衛では拘束魔法の術式が組まれ、屋根の上では弓兵が矢を番えた。
次の瞬間、全員が地面にいた。
フィエルの剣は、誰にも見えなかった。
盾持ちの重心が崩れ、膝裏を打たれ、盾ごと倒れる。魔術師の杖先が斬り落とされ、術式が霧散する。屋根の弓兵は足元の瓦を裂かれ、尻餅をついた。警備隊長の手首から剣が弾かれ、首筋にフィエルの刃が添えられる。
一呼吸。
それだけだった。
フィエルは、警備隊長の首筋から刃を離した。
「動かないで」
その一言だけで、警備隊長は動けなくなった。
「……何者だ」
フィエルは答えない。
リリィが横から言った。
「聞かない方がいいよ。寝てた方が長生きできる」
警備隊長は奥歯を噛んだ。
「本庁を襲えば、ただでは済まないぞ」
「襲っているのは、そちらの中に逃げた女よ」
フィエルの声は冷たい。
「中にいる敵を見誤らないことね」
その時、リリィの目が上を向いた。
本庁上層。
行政長官の執務区画があるあたり。
青白い魔灯の奥、窓辺に黒い影が立っていた。
オルガだった。
遠すぎて声は届かない。だが、リリィの死霊の視界が、その口元を拾った。
リリィが呟く。
「……今、“遅い”って言った」
フィエルの表情が消えた。
怒りすら見えない。
ただ、静かになった。
次の瞬間、彼女は剣を振った。
誰も止められなかった。
剣閃が夜空を走る。目に見える刃ではない。だが、空気が裂け、魔灯の光が歪み、行政庁本庁の上層へ一直線に届いた。
音は遅れて来た。
白い壁が斜めにずれる。
窓が弾け、柱が断たれ、上層の一角がまとめて吹き飛んだ。青白い魔灯が砕け、石材が夜空へ舞い、結界の光が破れた布のように散る。
轟音が、ヴァルディアの夜を叩いた。
門前にいた兵士も、冒険者も、街人も、言葉を失った。
警備隊長は、首筋に剣を添えられたまま、唇を震わせる。
「本庁を……」
リリィは少しだけ笑った。
「派手にやったねー」
瓦礫が落ちる。
本庁上層に大きな裂け目が生まれた。
だが、そこにオルガはいなかった。
残っていたのは、砕けた黒い輪の魔道具の破片と、焦げた外套の切れ端だけだった。
リリィの死霊が瓦礫へ殺到する。だが、残響は途中で途切れている。
「逃げた」
フィエルは剣を下ろさない。
「どこへ」
リリィは目を細める。死霊たちが上層の裂け目、裏庭、排水溝、地下通路へ雪崩れ込む。結界が弾き、死霊が消え、また新しい死霊が押し寄せる。
「外じゃない。中の下」
「地下?」
「うん。本庁の地下。どうせお偉いさんの避難場所があるんでしょ」
フィエルは瓦礫の降る上層を見上げた。
「なら、下へ行くわ」
警備隊長が声を絞り出す。
「待て……これ以上は……」
フィエルは彼を見た。
「次に止めるなら、手加減はしない」
殺すとは言わなかった。だが、その言葉だけで、警備隊長は動けなくなった。
リリィが両手を広げる。
本庁を取り囲む黒い影が、さらに濃くなる。
門の下。
排水口。
馬車置き場。
裏庭。
屋根の影。
地下へ続く水路。
割れた上層の隙間。
ありとあらゆる場所へ、死霊が押し寄せる。
部外者は殺さない。
レンとの約束だから。
だが、逃がさない。
衛兵たちは次々と膝をつき、冒険者たちは息を呑み、街人は扉を閉ざした。誰かがまた、震える声で呟く。
「ネクロマンサー……」
リリィは少しだけ眉をひそめた。
「だから、もう少し可愛い呼び方ないの?」
だが、誰も答えなかった。
行政庁本庁は、すでに黒い死霊の海に囲まれていた。
フィエルはリリィに尋ねる。
「強そうな奴はいる?」
リリィの足元で、黒い影がさらに広がる。
「いないね。ただ、逃げ道は多い」
「なら、全部塞ぐわ」




