↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
78/80

行政庁の夜

死霊たちは街を走った。

屋台の布をめくり、馬車の車輪を撫で、閉じかけた扉を押し開ける。人々の足元をすり抜け、背中を冷たく撫で、耳元で声にならない声を囁いた。

「きゃあっ!」

「影が走ってる!」

「誰か、兵士を呼べ!」

ヴァルディアの夜が、一気に騒ぎ出す。

何人かの冒険者が、剣を抜いて通りへ飛び出した。

「魔物か?」

「死霊だ!死霊が湧いてるぞ!」

炎魔法が放たれる。黒い影の一つが焼けて弾けた。

だが、次の瞬間、その背後から三つの影が飛び出す。冒険者の足首に絡み、膝を崩し、背中から冷気を流し込んだ。

「ぐっ……!」

冒険者は地面に倒れ、意識を失った。


別の通りでは、盾を構えた男が死霊の群れへ突っ込んだ。盾が黒い影を押し潰す。だが、足元の排水溝から別の影が伸び、男の首筋にまとわりついた。

「く、そ……」

男は剣を振る前に膝をついた。

屋根の上から弓を構えた女冒険者もいた。彼女は死霊に矢を放つが、矢は影を貫くだけで止まらない。背後の煙突から小さな骨鳥が飛び出し、彼女の視界を黒く覆った。

女は悲鳴を上げ、屋根に座り込む。

リリィは、そのすべてを見ていた。

「邪魔なら寝てて。殺しはしないよ」

フィエルが横目で見る。

「殺していないのね」

「レンと約束してるから。部外者は殺さない。敵でも、まだ話を聞けそうなら殺さない」

リリィは少し不満そうに続けた。

「でも、邪魔するなら寝ててもらう」


通りの向こうで、炎魔法を撃った男たちが逃げていた。銀杯商会を外から焼いた魔術師たちだ。彼らは三手に分かれ、薬務局方面、水路沿い、そして行政区へ向かう大通りへ散っていく。

死霊が追う。

一人の魔術師が振り返り、火球を放った。三体の死霊が焼ける。だが、路地の壁からさらに十体が染み出した。

「何体いるんだよ!」

男が絶叫する。

遠く離れたリリィが、小さく首を傾げた。

「何体いるんだろうね」

死霊たちは男を囲む。前から、後ろから、上から、足元から。詠唱の途中で喉に冷気を流し込み、手首を押さえ、目の前に焼け死んだ誰かの影を見せた。

男の顔から血の気が引く。

「やめろ、来るな、来るな!」

次の瞬間、影が男を飲み込んだ。

殺しはしない。

ただ、意識を刈り取る。

通りの端で、それを見ていた冒険者の一人が震える声で呟いた。

「この規模……ネクロマンサーだろ……」

その言葉は、夜の中を走るように広がっていった。

「ネクロマンサーがいるぞ!」

「なんでネクロマンサーが攻めてきているんだ!」

「知るか!なんとかしないと!」

「俺達でどうすんだよ!」


リリィの眉が少し動く。

「そのまんまじゃん。もうちょっと可愛い呼び方ないの?」

「今、それを気にするの?」

フィエルが言うと、リリィは唇を尖らせた。

「気にするよ。名前は大事」

その時、リリィの足元の影が一斉に同じ方角を向いた。

行政区。

白い石畳が続く、ヴァルディアの中枢。

薬務局、商務局、警備局、そして各局を束ねる行政庁本庁がある場所。

リリィの声が低くなる。

「いた」

「どこ?」

「行政庁本庁。薬務局じゃない。本庁の方」

フィエルの目が細くなった。

「トップがいる庁舎ね」

「そう。逃げ込むには、ずいぶん偉い場所だね」

二人は走った。

死霊が先行し、通りを荒らし、邪魔な者を眠らせていく。馬車が急停止し、兵士たちが慌てて道を開ける。何人かはフィエルたちを止めようとしたが、リリィの死霊がその足元を絡め取り、声を上げる前に意識を落とした。

行政庁本庁は、白い壁に囲まれた巨大な庁舎だった。

高い鉄門。

ヴァルディアの紋章。

夜でも消えない青白い魔灯。

奥には行政長官や各局の長が使う上層区画がある。


門前には、夜間警備隊が展開していた。

隊長らしき男が剣を抜く。銀の肩章。硬い表情。彼は混乱していたが、職務を捨ててはいなかった。

「止まれ!ここはヴァルディア行政庁本庁だ。抜剣したまま近づけば、襲撃と見なす!」

フィエルは足を止めなかった。

「銀杯商会を燃やした女が中に逃げ込んだわ。出して」

「何の話だ。ここにそのような者は――」

「いるよ」

リリィが言った。

彼女の死霊が門の下、排水溝、壁の影、馬車置き場、裏庭へ流れ込もうとする。しかし、本庁を囲む結界がそれを弾いた。黒い影がいくつも焼けるように消える。

リリィが舌打ちする。

「防御が厳しい。さすが本庁」

警備隊長が叫ぶ。

「貴様ら、これ以上近づけば拘束する!」

フィエルが静かに剣を構えた。

「邪魔」

警備隊が動く。

前衛の盾持ちが三人、同時に踏み込む。後衛では拘束魔法の術式が組まれ、屋根の上では弓兵が矢を番えた。

次の瞬間、全員が地面にいた。

フィエルの剣は、誰にも見えなかった。


盾持ちの重心が崩れ、膝裏を打たれ、盾ごと倒れる。魔術師の杖先が斬り落とされ、術式が霧散する。屋根の弓兵は足元の瓦を裂かれ、尻餅をついた。警備隊長の手首から剣が弾かれ、首筋にフィエルの刃が添えられる。

一呼吸。

それだけだった。

フィエルは、警備隊長の首筋から刃を離した。


「動かないで」


その一言だけで、警備隊長は動けなくなった。

「……何者だ」

フィエルは答えない。

リリィが横から言った。

「聞かない方がいいよ。寝てた方が長生きできる」

警備隊長は奥歯を噛んだ。

「本庁を襲えば、ただでは済まないぞ」

「襲っているのは、そちらの中に逃げた女よ」

フィエルの声は冷たい。

「中にいる敵を見誤らないことね」

その時、リリィの目が上を向いた。


本庁上層。

行政長官の執務区画があるあたり。

青白い魔灯の奥、窓辺に黒い影が立っていた。

オルガだった。

遠すぎて声は届かない。だが、リリィの死霊の視界が、その口元を拾った。

リリィが呟く。

「……今、“遅い”って言った」

フィエルの表情が消えた。

怒りすら見えない。

ただ、静かになった。

次の瞬間、彼女は剣を振った。

誰も止められなかった。

剣閃が夜空を走る。目に見える刃ではない。だが、空気が裂け、魔灯の光が歪み、行政庁本庁の上層へ一直線に届いた。

音は遅れて来た。

白い壁が斜めにずれる。

窓が弾け、柱が断たれ、上層の一角がまとめて吹き飛んだ。青白い魔灯が砕け、石材が夜空へ舞い、結界の光が破れた布のように散る。

轟音が、ヴァルディアの夜を叩いた。


門前にいた兵士も、冒険者も、街人も、言葉を失った。

警備隊長は、首筋に剣を添えられたまま、唇を震わせる。

「本庁を……」

リリィは少しだけ笑った。

「派手にやったねー」

瓦礫が落ちる。

本庁上層に大きな裂け目が生まれた。

だが、そこにオルガはいなかった。

残っていたのは、砕けた黒い輪の魔道具の破片と、焦げた外套の切れ端だけだった。

リリィの死霊が瓦礫へ殺到する。だが、残響は途中で途切れている。

「逃げた」

フィエルは剣を下ろさない。

「どこへ」

リリィは目を細める。死霊たちが上層の裂け目、裏庭、排水溝、地下通路へ雪崩れ込む。結界が弾き、死霊が消え、また新しい死霊が押し寄せる。

「外じゃない。中の下」

「地下?」

「うん。本庁の地下。どうせお偉いさんの避難場所があるんでしょ」

フィエルは瓦礫の降る上層を見上げた。

「なら、下へ行くわ」


警備隊長が声を絞り出す。

「待て……これ以上は……」

フィエルは彼を見た。

「次に止めるなら、手加減はしない」

殺すとは言わなかった。だが、その言葉だけで、警備隊長は動けなくなった。

リリィが両手を広げる。

本庁を取り囲む黒い影が、さらに濃くなる。

門の下。

排水口。

馬車置き場。

裏庭。

屋根の影。

地下へ続く水路。

割れた上層の隙間。

ありとあらゆる場所へ、死霊が押し寄せる。

部外者は殺さない。

レンとの約束だから。

だが、逃がさない。

衛兵たちは次々と膝をつき、冒険者たちは息を呑み、街人は扉を閉ざした。誰かがまた、震える声で呟く。

「ネクロマンサー……」

リリィは少しだけ眉をひそめた。

「だから、もう少し可愛い呼び方ないの?」

だが、誰も答えなかった。

行政庁本庁は、すでに黒い死霊の海に囲まれていた。

フィエルはリリィに尋ねる。

「強そうな奴はいる?」

リリィの足元で、黒い影がさらに広がる。

「いないね。ただ、逃げ道は多い」


「なら、全部塞ぐわ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。