燃える銀杯
「外か……」
若い冒険者は、そう呟いて目を閉じた。
焦点の合わない瞳。乾いた唇。力の入らない腕。だが、胸はかすかに上下している。死んではいない。
フィエルは剣を下ろさず、周囲を見た。
銀杯商会の地下。表向きは薬草や滋養粉を扱う倉庫のはずだった。だが実際には、石造りの地下室に水袋、空の薬瓶、測定具のような銀板、布袋、札の束が散らばっている。
リリィがふいに顔を上げた。
「奥で誰かが火を入れた。何も残ってなさそう」
ガドルが低く唸った。
「ふざけやがって」
フィエルは若い冒険者を見た。
「ガドル。この人を守って」
「俺がか?」
「あなたが一番、壊れない」
「それは褒めてんのか?」
「当たり前でしょ」
ガドルは少しだけ不満そうな顔をしたが、すぐに若い冒険者を抱え上げた。片腕で支えるには軽すぎる身体だった。冒険者というより、長く陽の当たらない場所に置かれていた荷物のようだった。
その軽さが、ガドルをさらに不機嫌にした。
「おい、聞こえるか。お前、どこから来た」
若い冒険者の唇が、わずかに動く。
「みず……」
「水?」
「飲んだ……強く、なれるって……」
アデルの顔色が変わる。
フィエルは奥の通路を睨んだ。
「続きは後。まず出るわよ」
だが、その瞬間だった。
轟音が、上から落ちてきた。
地下そのものが揺れた。天井の石が震え、細かな粉塵が降る。次いで、横の通路から炎が噴き込んだ。
一発ではない。
上から。
横から。
さらに奥の別通路から。
複数の火炎魔法が、同時に銀杯商会へ叩き込まれていた。
「伏せて!」
アデルが叫ぶ。
ガドルは若い冒険者を抱えたまま、背中を丸めた。炎が彼の肩を舐める。ガドルは歯を食いしばり、壁際へ踏み込んだ。
「熱っ……てめえら、味方もいるんじゃねえのか!」
その声に答える者はいない。
上階から悲鳴が落ちてきた。商会の人員らしき足音が、炎に追われて地下へ逃げ込もうとする。しかし別の通路から飛んできた火球が、その逃げ道を塞いだ。
フィエルは剣を抜いた。
炎が横へ流れる。次の瞬間、彼女の剣閃が炎の筋を斬り割った。火そのものを消したわけではない。だが、ほんの一瞬だけ、通れる隙間ができる。
「ガドル、下がって!」
「もう下がってる!」
リリィは舌打ちした。
「あー、最悪。熱い。うるさい。みんなの声まで焼けてる」
彼女の足元から黒い影が立ち上がる。死霊たちが壁のように広がり、吹き込む炎を受け止めた。だが、炎に触れた影は端から崩れていく。
リリィの顔から、いつもの薄い笑みが消えた。
「可哀想」
アデルが震える声で言った。
「これは、商会の中からではありません。外から撃ち込んでいる……複数人です」
「なら、商会ごと消す気ね」
フィエルの声は冷たかった。
炎の奥で、人影が動いた。
オルガだった。
特殊兵を率いていた女。無駄のない立ち姿。熱と煙の中でも、彼女だけが崩れていない。周囲の者が逃げ惑う中、オルガはただ淡々と首元の魔道具に手をかけていた。
近くの男が叫ぶ。
「まだ中に人員がいます!」
オルガは振り返らない。
「だから燃やす」
「何を――」
「ここで終わり。残すものはない」
その言葉に、フィエルの目が細くなった。
「あなた」
フィエルが踏み込む。
炎の壁が再び落ちた。フィエルはそれを斬る。刃が熱を裂き、火花が散った。リリィの影がその隙間を広げる。
だが、オルガはすでに逃げる準備を終えていた。
首元の黒い輪が砕ける。
魔道具だった。
床に落ちた破片から、影のようなものが湧き上がる。水ではない。煙でもない。黒い布を広げるように、オルガの足元から影が伸びた。
フィエルがさらに一歩踏み込む。
間に合わない。
オルガの身体が影に沈む。顔だけが最後に残り、フィエルを見る。その表情に恐怖はない。焦りもない。ただ、予定より早く持ち場を捨てることへの不快感だけがあった。
「次は、もう少し静かな場所で会いましょう」
影が閉じた。
そこには焦げた床と、砕けた黒い輪の破片だけが残った。
リリィが低く言う。
「逃げた」
「追える?」
フィエルが聞く。
リリィは目を細める。黒い影が足元で波打つ。
「探し方はある、任せて」
アデルが叫んだ。
「待ってください!今動けば、この人が――」
「だからガドルが残る」
フィエルは即答した。
ガドルが目を剥く。
「おい、俺も行くぞ」
「駄目」
「なんでだよ!」
リリィが振り返らずに言った。
「ガドルが残らないと、その人死ぬよ。あとまだ生き残りはいるかもしれない。うちの子も万能じゃないからね」
ガドルは言葉に詰まった。
腕の中の若い冒険者は、熱にうなされながら小さく息をしている。軽い。あまりに軽い。情報源は確保しなければならないし、複数情報源がいる方が良いのは間違いない。
ガドルは歯を食いしばった。
「……分かった」
「向こうも情報源は消しに来るはず。頼んだわ」
フィエルは短く言った。
その声に、からかいはない。信頼だけがあった。
ガドルは冒険者を抱え直し、崩れかけた壁際へ身を寄せた。
「おい、起きろ。少しでいい。聞こえるか」
ガドルは冒険者に声をかける。
若い冒険者の瞼が、かすかに震えた。
「……ああ」
「おお、良かった。今覚えていることがあれば教えて欲しいんだ。他の奴らを助けたい」
「……あおい」
「何だ?」
「あおい……いかり……」
ガドルは眉を寄せる。
「青い錨?」
冒険者は、ほとんど息だけで続けた。
「飲んだ……そこで……強く、なれるって……」
「青い錨で飲んだのが最後か?」
冒険者は、ほんのわずかに頷いた。
その動きは小さかった。だが、ガドルには十分だった。
「そうか」
ガドルの声が低くなる。
「そこからこいつを運んできたわけだな。意識がなくなったと」
アデルは黙っていた。顔色は悪い。銀杯商会の地下に王国の冒険者がいるだけでも異常だった。そこへ外部からの一斉炎魔法。証拠隠滅。味方ごとの焼却。
「連邦軍ってのはここまでやるのか?」
ガドルが隣に佇むアデルに聞く。
アデルは燃える通路を見た。
「ここまで大規模な火力を、軍が独自に動かせるはずがない。少なくとも、ヴァルディアの中に、これを見逃した者がいる」
「見逃した?」
ガドルは唸る。
「違うだろ。やらせたやつがいるんだ」
アデルは何も言えなかった。
その間にも、炎は広がる。上階が崩れ、木材が落ちる。ガドルは冒険者を抱えたまま、肩で梁を受けた。
「ぐっ……!」
筋肉が軋む。だが、倒れない。
「こいつは死なせねえって言ったからな。ただ、地下をすぐ見に行かねえと、全部なくなっちまうな」
アデルは燃える通路を見た。
「記録も設備も、人員も……すべて消すつもりです」
「上等じゃねえな」
ガドルは若い冒険者を抱え直しながら、奥歯を噛んだ。
「燃やせば終わりだと思ってるやつら、全員ぶん殴りてえ」
だが、今は動けない。
この若い冒険者を離せば、彼は確実に死ぬ。
結界の外で、フィエルとリリィはすでに動き出していた。
炎を抜け、崩れた通路を越え、商会の裏手へ出る。夜気が熱を冷ますはずだった。だが、二人の周囲にはまだ焦げた匂いがまとわりついている。
リリィは不機嫌そのものだった。
「いろいろ最悪なんだけど」
フィエルは剣を握り直す。
「ええ。情報を消すのが上手いわ。ただ、あなたならまだ拾えるでしょう?」
「まあね」
リリィは立ち止まった。
足元の影が、ゆっくりと広がる。最初は水たまりのようだった。それが路地の石畳に染み込み、壁を這い、排水溝へ流れ、屋根の影へ跳ねた。
次の瞬間、無数の黒い影が街へ散った。
小さな鳥の骨。路地裏に染みついた古い死臭。井戸端に残る鼠の霊。焼け跡から逃げ損ねた声。古い墓地から迷い込んだ薄い影。
それらが、ヴァルディアの夜へ一斉に放たれていく。
ただし、今夜のリリィは隠す気がなかった。
死霊たちは通行人の足元をすり抜け、荷車の車輪をかすめ、閉じかけた扉を叩き、屋台の布を揺らした。寝静まっていた家の窓が震え、路地裏の猫が毛を逆立てる。
「な、なんだ今の!」
「影が通ったぞ!」
「子どもを中へ入れろ!」
通りの人々が悲鳴を上げ、商人が荷を抱え、酔客が腰を抜かす。死霊そのものがはっきり見える者は少ない。だが、冷たいものが足首を撫で、耳元で囁き、背中を押す感覚は隠せない。
街そのものが、リリィの目になった。
商会の地下でも、その異変は分かった。
燃える階段の向こうから、黒い影がいくつも駆け抜けていく。天井の隙間から染み出した影が、ガドルの足元をすり抜け、若い冒険者の顔を覗き込むように揺れた。
アデルが息を呑む。
「これほどの数を……街中に?」
ガドルは顔をしかめた。
「気味が悪くて仕方がねえな。やっぱり、あいつは怒らせない方がいい」
「止めなくていいのですか?」
「止まると思うか?」
ガドルは燃える上階を見上げた。
「今のリリィは、裏でこそこそ探す気分じゃねえんだろ。町中騒ぎになるぞ。そこは……まあ、お前の方で何とかしてくれ」
「私が、ですか」
「Sランクだろ。後始末は頼んだ」
アデルは何か言い返そうとしたが、すぐに口を閉じた。
今は、それどころではない。
商会の外では、死霊たちが街を走っていた。
屋根の上。
裏路地。
排水口。
商会の表通り。
薬務局へ続く大通り。
人気のない水路沿い。
閉じた倉庫の裏手。
炎魔法を放った者たちが逃げ込んだ路地。
リリィは目を閉じたまま、わずかに首を傾ける。
「探して。オルガを」
フィエルが短く言う。
「もう探してる」
リリィの影が、足元で波打った。
「いくら魔道具と言っても、遠くにはいけないはず。この街には絶対にいる」
人々の悲鳴。扉の閉まる音。石畳を走る靴音。死霊たちが触れた者たちの恐怖。逃げる魔術師の荒い息。
それらが、断片となってリリィへ流れ込んでくる。
フィエルは何も言わずに待った。
数分が、妙に長く感じられた。
やがて、リリィの眉が動く。
「……いた」
「どっち?」
「薬務局の方角」
フィエルの表情が冷えた。
「そう」
リリィはさらに指を鳴らした。
街へ散った死霊たちが、一斉に進路を変える。人混みの足元を抜け、露店を揺らし、閉じた門の隙間から入り込み、煙突から屋根へ上がる。いくつかは薬務局へ続く道を追い、いくつかは脇道へ分かれ、いくつかは銀杯商会を焼いた魔術師たちの逃げ道へまとわりつく。
通りの人々はますます混乱した。
「また来た!」
「影が、影が走ってる!」
「薬務局の方へ行ったぞ!」
「誰か警備兵を呼べ!」
リリィは舌打ちした。
「火を撃った連中も散ってる。全員同じ方向じゃない。何人かは商会の外周から離脱。何人かは薬務局方面。何人かは水路へ逃げた」
「オルガは?」
「薬務局方面。たぶん、そっちが本命」
フィエルは剣を下ろさず、夜の通りを見た。
「フィエル、怒ってる?」
「ええ」
短い返事だった。
リリィは少しだけ笑った。だが、その目は笑っていない。
「私も。熱かったし」
「それだけ?」
「情報を燃やされた。死んだ子の声も消された。あと、髪が焦げた」
「十分ね」
背後では、銀杯商会が炎に沈んでいく。
ガドルは若い冒険者を抱え、崩れ落ちる梁の下に立っている。
「青い錨で飲んだのが最後」
その言葉だけが、炎の音の中でやけにはっきり残った。
リリィの足元で、死霊たちの影が一斉に薬務局を目指す。
フィエルは剣を構え直した。
「狩るわよ」
その声は、炎より冷たかった。




