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倉庫

旧薬草倉庫跡は、ザヴィル旧東区の外れにあった。

表の看板は半分腐り、薬草を干すための棚は崩れ、窓には古い板が打ちつけられている。十年以上前に閉じられた倉庫。そう聞かされれば、誰も疑わないだろう。

だが、そこには人の気配があった。

湿った夜風に、乾いた薬草の匂いが混じっている。さらにその奥に、灰樽亭や青銅の錨で嗅いだ、甘く苦い白い水の匂いがあった。

屋根の上で、ヤタが低く鳴く。

シオンはその声を聞き、目を細めた。

「まだ中にいる。けど、荷は動き始めてる」

ザンガは一度だけ頷き、背負っていた戦斧に手をかけた。

「配置につけ。逃がすくらいなら殺せ。一人は生きて確保するぞ」

その一言で、《赤き戦斧》は散った。

フェイが音もなく屋根へ上がる。サイラスは双剣に手を添えたまま、倉庫裏の水路側へ回った。イリスは杖を掲げ、薄い光の糸を地面すれすれに走らせる。火種と煙幕を押さえるための術式だ。


テオはザンガの横についた。

本当は中へ飛び込みたい。黒幕らしき連中を見つけたのだ。剣を抜き、真っ先に斬り込みたい衝動があった。

だが、ザンガに任されたのは正面口の封鎖だった。

逃がさないこと。

飛び込まないこと。

任された場所を守ること。

それが、今の役目だった。

レンは倉庫の脇へ回った。フェイが示した地図にはない、崩れた排水溝の近く。湿った風が細く漏れている。

シオンが小さく言う。

「そこ、ヤタが気にしてる。地図にない抜け口かも」

「分かった」

レンは短く答えた。

中では、黒服の女が指示を出していた。

「紙は燃やせ。水は流すな。中和してから捨てろ。粉は持てるだけ持つ。残りは濡らして潰せ」

灰色外套の男が、焦った声を返す。

「まだ候補は残っています」

「候補を抱えて死ぬ気か。ザヴィルはもう終わりだ」

「ですが、上は成果を――」

「成果を持ち帰りたいなら、生きて戻りなさい」

その声には焦りがあった。だが、崩れてはいない。港でセリーナの氷をかわし、空へ逃げた女。あの時も、彼女は追い詰められながら逃げ切った。


「火」

シオンが呟く。

イリスが動いた。

倉庫の割れた窓から、薄い光の糸が滑り込む。火をつけられかけた紙束の上で、光が静かに広がり、火種だけを包み込んだ。

次の瞬間、黒服の女が顔を上げる。

「来た」

同時に、正面扉が吹き飛んだ。

ザンガが踏み込む。

「赤き戦斧だ。武器を捨てろ」

倉庫の中が一気に動いた。

敵は正面から戦おうとはしなかった。木箱が倒され、白い粉袋が裂かれ、煙幕瓶が床へ投げつけられる。細かい粉と白煙が混じり、視界が一瞬で鈍る。

だが、イリスの光糸が煙を押し流した。

「火は見てるわ。証拠も、できるだけ残す」

ザンガの戦斧が床を叩く。逃げようとした男が、その衝撃だけで足を止めた。

「テオ!」

「はい!」

テオは飛び出さない。正面口に踏みとどまり、逃げ込んできた男の腕を鞘で打ち、足を払う。

斬る必要はない。

ここは逃げ道を塞ぐ場所だ。

「逃がさねえ。ここを任されたんだ」

その横を、サイラスが影のように抜けた。


灰色外套の男が、小さな箱を抱えて地下への扉へ向かっていた。袖から針が飛ぶ。サイラスは双剣の片方でそれを弾き、もう片方で男の足元を払う。

「逃げるには、少し遅かったね」

灰色外套の男は低く呻き、煙幕瓶を割った。

白煙の中、金属音が三度響く。

サイラスは斬り殺すつもりはなかった。捕らえるつもりだった。だが、男が追い詰められた瞬間、胸元の札が光る。

「やりやがった……」

それが最後の言葉だった。

黒い光が札から広がる。男の喉が引きつり、目から力が抜けた。サイラスは踏み込んだが、間に合わない。

男は、床に崩れ落ちた。

サイラスは膝をつき、首筋に指を当てる。

「死んだ。いや、殺されたな。自分の組織に」


一方、倉庫の脇では、レンが黒服の女と向き合っていた。

女は荷物の大半を捨て、細い地下口へ向かおうとしていた。レンがその前に立つ。

女は足を止め、笑った。

「またあなた」

「こっちの台詞だ」

女は一歩近づく。周囲は煙と粉でざわついている。ザンガたちは別の敵を押さえている。彼女の声は、レンにだけ届くほど低かった。

「王国のSランクが、こんなところに?運が悪いなんてもんじゃないわ」

レンの目がわずかに細くなる。

「何の話だ」

「隠せているつもり?氷の魔女セリーナを連れて、港を凍らせた。念のため照合させたわ。あの隣に立てる男なんて、一人しかいない」

女は薄く笑う。

「宵闇の極光。王国最強。あなたが本気を出せば、この倉庫ごと消せるのでしょう?」

レンは動かない。

ヴォイド・ゼロは使えない。

刹那の天刻も使えない。

腕輪も外せない。

ここには《赤き戦斧》がいる。ザンガがいる。イリスがいる。サイラスもフェイも、目がいい。ここで力を使えば、もう新人ではいられない。

女はそれを見抜いていた。

「使わないのね」

「必要ない」

「違うわ。見せたくないのよね。潜入任務でもしているのかしら」

女の手が袖の中へ沈む。

レンは踏み込んだ。

普通の冒険者としては速い。だが、今のレンに許される速度の範囲だった。

女はその限界を読んでいた。煙幕瓶が割れ、細い糸がレンの足元をかすめる。レンは糸を避け、さらに一歩踏み込む。指先が女の外套に届いた。

その瞬間、女の腕輪に埋め込まれた小さな風の魔道具が起動する。

レンは短剣の柄でそれを叩き割った。

女の身体が大きく傾く。だが、完全には止まらない。壊れた魔道具の残り風を使い、彼女は地下口へ落ちるように身を投げた。


逃げられる。

本気を出せば止められた。

だが、本気を出せなかった。

女は落ちる直前、振り返って笑った。

「まだ私にも運があるみたい」

「お前たちは、何をしている」

レンは低く聞いた。

「酒場の裏稼業じゃない。マフィアの小遣い稼ぎでもない」

女の声が、地下から響く。

「国が水を動かす時、人は荷になるのよ」

「どこの国だ」

女は答えなかった。

代わりに、最後の一言だけを残した。

「知りたければ、国境の向こうを探しなさい」

黒服の女の気配が、湿った地下水路の奥へ消えた。


ヤタが追おうと翼を広げる。だが、地下口から濃い香り消しの煙が吹き上がった。シオンが舌打ちする。

「匂いを切られた。手慣れてる」

倉庫内の戦闘は長くは続かなかった。

《赤き戦斧》は強かった。ザンガが正面を押さえ、テオが逃げ道を塞ぎ、イリスが煙と火を封じる。フェイは屋根裏から逃げようとした男を落とし、サイラスは地下側を封鎖した。

敵の何人かは捕まった。

何人かは倒れた。

だが、黒服の女は逃げた。

そして、灰色外套は死んだ。

残った証拠は、ほとんどなかった。


紙束は半分以上燃え、粉袋は濡らされ、白い水は中和剤と混ぜられたうえで床に流されていた。木箱の中身も、肝心なものは持ち去られている。

テオが歯噛みする。

「くそ。これだけやって、何も残ってないのかよ」

「何も、ではないわ」

イリスがしゃがみ込んだ。

彼女は床にこぼれた薬液を見ている。白濁した水と、何か別の薬剤が混ざり、薄い青紫色に変色していた。

ザンガが近づく。

「分かるのか」

「この中和の仕方、見覚えがある」

イリスは指先に薄い光を灯し、床の液体に近づけた。青紫の色が、一瞬だけ濃くなる。


「薬品を安全に廃棄するための配合よ。市井の薬売りや黒鈴会が使うものじゃない」

フェイが眉をひそめる。

「どこの手順だ」

イリスは少し迷った。

「断定はできないわ。似せているだけかもしれない。でも……」

彼女は顔を上げる。

「連邦軍で使われる薬剤処理の手順に近い」

空気が重くなった。

「……軍か」

テオが呟く。

シオンは床の青紫を見下ろし、軽く肩をすくめた。

「本物か、偽装かは分からない。でも、普通のマフィアが偶然使う手順じゃないね」

レンは、地下口の方を見た。

黒服の女の言葉が、耳に残っている。

国が水を動かす時、人は荷になる。


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