黒羽の追跡
「特殊な香りをつけた。相棒が探してくれるよ」
シオンはそう言って、路地の奥を見た。
《青銅の錨》の中では、まだ客たちのざわめきが続いている。突然の騒ぎに酔客たちは店の外へ押し出され、何が起きたのか分からないまま顔を見合わせていた。
ロウは床に押さえつけられ、腕を後ろで縛られている。レンはその横で、淡々と周囲を見ていた。
テオは入口に立ち、出てくる客を外へ誘導している。ソフィアはニコのそばに膝をつき、念のために脈と呼吸を確かめていた。
「相棒?」
テオが振り返る。
シオンは答えず、短く口笛を吹いた。
しばらくして、屋根の縁に黒い影が降りた。
カラスに似ている。だが、ただのカラスではない。羽の先にはかすかに銀色の筋が入り、暗い場所でも目だけが妙に冴えて見える。
鳥は首を傾げ、シオンを見下ろした。
「ヤタ」
シオンが指を差し出す。
その指先には、先ほど灰色外套の人物につけた香りの粉が、わずかに残っていた。
「灰色の外套。さっきの匂い」
ヤタはふわりと舞い降り、シオンの指先にくちばしを近づけた。ついばむでもなく、ただ匂いを確かめるように小さく息を吸う。そして一度だけ、低く鳴いた。
「人間の鼻じゃ分からない。でも、この子なら拾える。地下に逃げても、換気穴や排水口から匂いは漏れるからね」
「だったら、俺たちも行くぞ」
テオが言う。
だが、シオンは首を横に振った。
「やめた方がいい。地下水路に逃げた相手を、人間が正面から追うのは一番危ない。向こうは道を知ってる。こっちは知らない」
「でも、逃げられるだろ」
「追ったら、もっと逃げられる。分岐もあるし、毒煙も仕掛けもあるかもしれない。こっちが慌てて飛び込む方が、相手の思う壺だよ」
レンは頷いた。
「先に逃げ先を知る。追うのはそれからだ」
「そういうこと」
シオンは壁にもたれ、ヤタの頭に軽く指を置いた。
その瞬間、シオンの片目から光が消えた。代わりに、黒い羽の影が瞳の奥を横切る。
「《黒羽同調》」
シオンの声が、少し遠くなった。
「しばらく、私の目はあっちに行く。こっちの護衛よろしく」
ヤタが屋根の縁へ戻る。黒い羽が一度広がり、夜気を掴む。
次の瞬間、ヤタは音もなく飛び立った。
シオンは目を閉じたまま呟く。
「屋根。裏路地。排水口。匂いは港じゃない。街の内側へ向かってる」
「どこだ・・・?」
テオの問いかけにシオンは返事をしない。意識の大半が、ヤタの目に移っているのだ。
その時、路地の向こうから重い足音が近づいてきた。
「良かった……レンさん!」
声を上げたのはミナだった。息を切らしている。だが、その後ろに続く者たちを見て、テオが息を呑んだ。
巨大な戦斧を背負った大男。長身の双剣使い。細身の斥候。杖を持つ女魔術師。
ザヴィルのAランクパーティー。
《赤き戦斧》だった。
錨へ向かう前に、念のためギルドへ伝令を出していた。その伝令を受けて、ミナは《赤き戦斧》を伴って駆けつけたのだ。
先頭の大男、ザンガが周囲を見渡す。騒ぎ、拘束されたロウ、青ざめたニコ、そして壁にもたれて目を閉じるシオン。
「緊急招集と聞いた。状況は?」
ミナがすぐに答えた。
「灰樽亭、青銅の錨、港の件が繋がりました。逃走者が地下水路へ。現在、シオンさんの使い魔が追跡中です」
ザンガの目が細くなる。
「逃走者は何人だ」
レンが答えた。
「ここから逃げたのは一人。灰色の外套。だが、その先に仲間がいる可能性が高い」
ザンガはレンを見た。
「お前は……新人だったな」
「登録したばかりです」
レンは平然と答えた。
ザンガはしばらく見ていたが、深くは聞かなかった。
「なら、無理はするな」
横にいた双剣使いのサイラスが、薄く笑う。
「いきなり大捕物だね」
レンは何も返さなかった。
「ニコさんの状態は?」
ミナが尋ねると、ソフィアが手を離した。
「問題はありません」
ニコは小さく息を吐く。
「なら、よかった……のか?」
ソフィアは眉を寄せた。
「良かった、とは言い切れないわ。問題がなさすぎるの」
「問題がなさすぎる?」
「しばらく活性水に似たものを飲んでいたのよね。それも、数日前にはかなり多めに。それで元気になって力も出るようになったと」
ニコは自分の手を見た。
「それって、いいことじゃないのか?」
レンが短く言う。
「向こうが目を付けた理由にはなりそうだな」
その言葉に、《赤き戦斧》の女魔術師イリスが反応した。
「飲める者を、選んでいる……?」
ミナの顔が強張る。
ロウは床に転がされたまま、口の端を歪めた。
「だから言っただろ。見込みがあるって」
テオが一歩踏み出す。
「黙ってろ」
ザンガが低く言った。
その一言だけで、ロウは口を閉ざした。Aランクの威圧は、怒鳴り声よりも重かった。
シオンが、目を閉じたまま続ける。
「染物工房跡。古い煙突。水車小屋……ああ、薬草の匂いがする。旧薬草倉庫跡かな」
《赤き戦斧》の斥候フェイが、懐から小さな地図を出した。
「旧東区の倉庫だ。十年前に閉鎖されたが、地下水路は生きてる」
「そこだね」
シオンの声が少し低くなった。
「人がいる」
路地にいる全員の空気が変わる。
「何人だ?」
ザンガが聞く。
「十人以上」
シオンの閉じた目の下で、眉がわずかに動く。
「灰色外套。木箱。水袋。白い粉。煙幕瓶。短剣。地図……」
そこで、シオンの声が止まった。
レンが聞く。
「どうした」
「黒い服の女」
テオが顔を上げる。
「黒い服?」
その言葉で、レンの表情が変わった。
港で大きな袋を抱え、セリーナの氷をかわし、空へ逃げた女。あの女ではないか。
シオンはなおも続ける。
「声が少し拾える。……青錨も失敗か。ロウが捕まりました。あの若剣は。飲ませる前に邪魔が……」
ニコが息を呑んだ。
シオンの声は淡々としている。だが、その内容はニコの心を直接えぐった。
「あの若剣」とは、自分のことだ。
「ザヴィルは捨てる。夜明け前に動く。持てるものだけ持て……」
シオンが息を吐く。
「寝かされてる人はいない。そこは誰かを保管する場所じゃない。動くための場所。撤収するための場所だね」
ザンガは即座に判断した。
「正面から突っ込めば逃げられる。出口を塞ぐぞ」
フェイが地図を広げる。
「地上出口は表と裏。地下は最低二本。旧東第三水路と、倉庫裏の排水門へ出るはずだ」
イリスが杖を軽く掲げた。
「煙幕と火消しは私が見る。証拠を燃やされると厄介ね」
サイラスは双剣の柄に触れる。
「地下に逃げるなら、僕が回る。狭い場所なら大斧よりこっちだ」
ザンガは頷いた。
「お前は入口封鎖の補助につけ。無理に突っ込むな」
「はい!」
テオの返事は硬い。Aランクに直接指示を受けている緊張と興奮が混じっていた。
ザンガはレンを見る。
「お前は?」
レンは少し考えた。
「逃げ道の穴埋めをします。相手が想定外の場所から出たら止める」
サイラスが小さく笑う。
「新人の台詞じゃないね」
レンは肩をすくめた。
「できる範囲で」
「その“できる範囲”が怪しいんだけど」
イリスがレンをじっと見ていた。
「あなた、どこかで……いえ、気のせいかしら」
レンは内心だけで少し困った。
やりづらい。
ニコが一歩前に出た。
「俺も行く」
「駄目だ」
レンは即座に言った。
ニコは悔しそうに顔を歪める。
「でも、俺が狙われたんだろ。だったら――」
「お前は狙われた側だ。ここから先は、狙ったやつらの話だ」
ニコは何か言い返そうとした。だが、言葉が出ない。
ザンガが静かに言う。
「新人。今は生きて戻るのも仕事だ」
ニコは拳を握りしめ、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
ソフィアがその肩に手を置く。
「ギルドへ戻りましょう。あなたの状態も、まだ見ておきたい」
シオンがふらりと壁から離れた。
同時に、ヤタが屋根から舞い降り、彼女の肩に戻る。シオンは片目を押さえ、軽く息を吐いた。
「動き出すよ。荷をまとめてた」
ザンガは背の戦斧に手をかけた。
その瞬間、《赤き戦斧》の空気が変わる。ザンガは大きな声を出していない。だが、サイラス、フェイ、イリスはすでに動く準備を終えていた。
テオはその様子を見て、思わず呟いた。
「これが、Aランク……」
無駄がない。
誰も慌てていない。誰も自分の役割を聞き返さない。ザンガが一つ言えば、他の三人は次に何をすべきか分かっている。
それは単に強いだけの集団ではなかった。
人に頼られ、現場を任され、街を守る側の冒険者。
規格外のSランクを除けば実質的な冒険者の頂点。
レンは、その背中を見て少しだけ目を細めた。
「赤き戦斧、展開する」
ザンガの声が、夜の路地に落ちた。
フェイが地図を畳み、屋根へ跳ぶ。サイラスは音もなく路地の暗がりへ消える。イリスは杖を掲げ、薄い光の糸を周囲へ伸ばした。
シオンがヤタの頭を撫でる。
「私達も行くよ」
ヤタが低く鳴いた。
旧薬草倉庫跡。
灰樽亭で選ばれ、青銅の錨で試され、そこへ集められる。
ようやく、網の結び目が見えた。
だが、相手ももう動き出している。
レンは湿った夜風の先を見た。




