表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
75/76

黒羽の追跡

「特殊な香りをつけた。相棒が探してくれるよ」

シオンはそう言って、路地の奥を見た。

《青銅の錨》の中では、まだ客たちのざわめきが続いている。突然の騒ぎに酔客たちは店の外へ押し出され、何が起きたのか分からないまま顔を見合わせていた。

ロウは床に押さえつけられ、腕を後ろで縛られている。レンはその横で、淡々と周囲を見ていた。

テオは入口に立ち、出てくる客を外へ誘導している。ソフィアはニコのそばに膝をつき、念のために脈と呼吸を確かめていた。

「相棒?」

テオが振り返る。

シオンは答えず、短く口笛を吹いた。


しばらくして、屋根の縁に黒い影が降りた。

カラスに似ている。だが、ただのカラスではない。羽の先にはかすかに銀色の筋が入り、暗い場所でも目だけが妙に冴えて見える。

鳥は首を傾げ、シオンを見下ろした。

「ヤタ」

シオンが指を差し出す。

その指先には、先ほど灰色外套の人物につけた香りの粉が、わずかに残っていた。

「灰色の外套。さっきの匂い」

ヤタはふわりと舞い降り、シオンの指先にくちばしを近づけた。ついばむでもなく、ただ匂いを確かめるように小さく息を吸う。そして一度だけ、低く鳴いた。

「人間の鼻じゃ分からない。でも、この子なら拾える。地下に逃げても、換気穴や排水口から匂いは漏れるからね」

「だったら、俺たちも行くぞ」

テオが言う。


だが、シオンは首を横に振った。

「やめた方がいい。地下水路に逃げた相手を、人間が正面から追うのは一番危ない。向こうは道を知ってる。こっちは知らない」

「でも、逃げられるだろ」

「追ったら、もっと逃げられる。分岐もあるし、毒煙も仕掛けもあるかもしれない。こっちが慌てて飛び込む方が、相手の思う壺だよ」

レンは頷いた。

「先に逃げ先を知る。追うのはそれからだ」

「そういうこと」

シオンは壁にもたれ、ヤタの頭に軽く指を置いた。

その瞬間、シオンの片目から光が消えた。代わりに、黒い羽の影が瞳の奥を横切る。

「《黒羽同調》」

シオンの声が、少し遠くなった。

「しばらく、私の目はあっちに行く。こっちの護衛よろしく」

ヤタが屋根の縁へ戻る。黒い羽が一度広がり、夜気を掴む。

次の瞬間、ヤタは音もなく飛び立った。

シオンは目を閉じたまま呟く。

「屋根。裏路地。排水口。匂いは港じゃない。街の内側へ向かってる」

「どこだ・・・?」

テオの問いかけにシオンは返事をしない。意識の大半が、ヤタの目に移っているのだ。


その時、路地の向こうから重い足音が近づいてきた。

「良かった……レンさん!」

声を上げたのはミナだった。息を切らしている。だが、その後ろに続く者たちを見て、テオが息を呑んだ。

巨大な戦斧を背負った大男。長身の双剣使い。細身の斥候。杖を持つ女魔術師。

ザヴィルのAランクパーティー。

《赤き戦斧》だった。

錨へ向かう前に、念のためギルドへ伝令を出していた。その伝令を受けて、ミナは《赤き戦斧》を伴って駆けつけたのだ。

先頭の大男、ザンガが周囲を見渡す。騒ぎ、拘束されたロウ、青ざめたニコ、そして壁にもたれて目を閉じるシオン。

「緊急招集と聞いた。状況は?」

ミナがすぐに答えた。

「灰樽亭、青銅の錨、港の件が繋がりました。逃走者が地下水路へ。現在、シオンさんの使い魔が追跡中です」

ザンガの目が細くなる。

「逃走者は何人だ」

レンが答えた。

「ここから逃げたのは一人。灰色の外套。だが、その先に仲間がいる可能性が高い」

ザンガはレンを見た。

「お前は……新人だったな」

「登録したばかりです」

レンは平然と答えた。


ザンガはしばらく見ていたが、深くは聞かなかった。

「なら、無理はするな」

横にいた双剣使いのサイラスが、薄く笑う。

「いきなり大捕物だね」

レンは何も返さなかった。

「ニコさんの状態は?」

ミナが尋ねると、ソフィアが手を離した。

「問題はありません」

ニコは小さく息を吐く。

「なら、よかった……のか?」

ソフィアは眉を寄せた。

「良かった、とは言い切れないわ。問題がなさすぎるの」

「問題がなさすぎる?」

「しばらく活性水に似たものを飲んでいたのよね。それも、数日前にはかなり多めに。それで元気になって力も出るようになったと」

ニコは自分の手を見た。

「それって、いいことじゃないのか?」


レンが短く言う。

「向こうが目を付けた理由にはなりそうだな」

その言葉に、《赤き戦斧》の女魔術師イリスが反応した。

「飲める者を、選んでいる……?」

ミナの顔が強張る。

ロウは床に転がされたまま、口の端を歪めた。

「だから言っただろ。見込みがあるって」

テオが一歩踏み出す。

「黙ってろ」

ザンガが低く言った。

その一言だけで、ロウは口を閉ざした。Aランクの威圧は、怒鳴り声よりも重かった。

シオンが、目を閉じたまま続ける。

「染物工房跡。古い煙突。水車小屋……ああ、薬草の匂いがする。旧薬草倉庫跡かな」

《赤き戦斧》の斥候フェイが、懐から小さな地図を出した。

「旧東区の倉庫だ。十年前に閉鎖されたが、地下水路は生きてる」

「そこだね」

シオンの声が少し低くなった。

「人がいる」

路地にいる全員の空気が変わる。


「何人だ?」

ザンガが聞く。

「十人以上」

シオンの閉じた目の下で、眉がわずかに動く。

「灰色外套。木箱。水袋。白い粉。煙幕瓶。短剣。地図……」

そこで、シオンの声が止まった。

レンが聞く。

「どうした」

「黒い服の女」

テオが顔を上げる。

「黒い服?」

その言葉で、レンの表情が変わった。

港で大きな袋を抱え、セリーナの氷をかわし、空へ逃げた女。あの女ではないか。

シオンはなおも続ける。

「声が少し拾える。……青錨も失敗か。ロウが捕まりました。あの若剣は。飲ませる前に邪魔が……」

ニコが息を呑んだ。


シオンの声は淡々としている。だが、その内容はニコの心を直接えぐった。

「あの若剣」とは、自分のことだ。

「ザヴィルは捨てる。夜明け前に動く。持てるものだけ持て……」

シオンが息を吐く。

「寝かされてる人はいない。そこは誰かを保管する場所じゃない。動くための場所。撤収するための場所だね」

ザンガは即座に判断した。

「正面から突っ込めば逃げられる。出口を塞ぐぞ」

フェイが地図を広げる。

「地上出口は表と裏。地下は最低二本。旧東第三水路と、倉庫裏の排水門へ出るはずだ」

イリスが杖を軽く掲げた。

「煙幕と火消しは私が見る。証拠を燃やされると厄介ね」

サイラスは双剣の柄に触れる。

「地下に逃げるなら、僕が回る。狭い場所なら大斧よりこっちだ」

ザンガは頷いた。

「お前は入口封鎖の補助につけ。無理に突っ込むな」

「はい!」

テオの返事は硬い。Aランクに直接指示を受けている緊張と興奮が混じっていた。

ザンガはレンを見る。

「お前は?」

レンは少し考えた。

「逃げ道の穴埋めをします。相手が想定外の場所から出たら止める」

サイラスが小さく笑う。

「新人の台詞じゃないね」

レンは肩をすくめた。

「できる範囲で」

「その“できる範囲”が怪しいんだけど」

イリスがレンをじっと見ていた。

「あなた、どこかで……いえ、気のせいかしら」

レンは内心だけで少し困った。

やりづらい。


ニコが一歩前に出た。

「俺も行く」

「駄目だ」

レンは即座に言った。

ニコは悔しそうに顔を歪める。

「でも、俺が狙われたんだろ。だったら――」

「お前は狙われた側だ。ここから先は、狙ったやつらの話だ」

ニコは何か言い返そうとした。だが、言葉が出ない。

ザンガが静かに言う。

「新人。今は生きて戻るのも仕事だ」

ニコは拳を握りしめ、やがて小さく頷いた。

「……分かった」

ソフィアがその肩に手を置く。

「ギルドへ戻りましょう。あなたの状態も、まだ見ておきたい」

シオンがふらりと壁から離れた。

同時に、ヤタが屋根から舞い降り、彼女の肩に戻る。シオンは片目を押さえ、軽く息を吐いた。

「動き出すよ。荷をまとめてた」

ザンガは背の戦斧に手をかけた。

その瞬間、《赤き戦斧》の空気が変わる。ザンガは大きな声を出していない。だが、サイラス、フェイ、イリスはすでに動く準備を終えていた。

テオはその様子を見て、思わず呟いた。

「これが、Aランク……」

無駄がない。

誰も慌てていない。誰も自分の役割を聞き返さない。ザンガが一つ言えば、他の三人は次に何をすべきか分かっている。

それは単に強いだけの集団ではなかった。

人に頼られ、現場を任され、街を守る側の冒険者。

規格外のSランクを除けば実質的な冒険者の頂点。

レンは、その背中を見て少しだけ目を細めた。


「赤き戦斧、展開する」

ザンガの声が、夜の路地に落ちた。

フェイが地図を畳み、屋根へ跳ぶ。サイラスは音もなく路地の暗がりへ消える。イリスは杖を掲げ、薄い光の糸を周囲へ伸ばした。

シオンがヤタの頭を撫でる。

「私達も行くよ」

ヤタが低く鳴いた。

旧薬草倉庫跡。

灰樽亭で選ばれ、青銅の錨で試され、そこへ集められる。

ようやく、網の結び目が見えた。

だが、相手ももう動き出している。

レンは湿った夜風の先を見た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ