次の一杯
「よく来たな。お前なら、来ると思ってた」
《青銅の錨》のカウンター奥で、ロウは何も知らない客を迎えるように笑った。
ニコは一瞬だけ固まった。
灰樽亭で見た時と同じ顔だった。気さくで、人懐っこくて、訓練の話を親身に聞いてくれた店員。けれど今は、その笑顔の奥に、別のものが見える気がした。
「まあな。言われた通り、来た」
ニコは無理に笑って返した。
ロウはカウンターの下から、小さな杯を取り出した。中には、白く濁った水が揺れている。灰樽亭で飲んだものよりも、明らかに濃い。甘い匂いの奥に、薬のような苦味が混じっていた。
「じゃあ、まずはこれだ」
「その前に、普通の酒と飯をくれよ」
ニコは打ち合わせ通り、できるだけ自然に言った。
ロウの眉が、ほんの少しだけ動く。
「先に飲んだ方が効くぞ」
「空きっ腹に強いの入れたら、後で動けなくなるだろ。訓練帰りなんだ。腹減ってる」
ロウは一拍置き、笑った。
「慎重だな」
「ちゃんとしてるんだよ」
そう言って、ニコはカウンター脇の空いている席へ腰を下ろした。
ロウが酒と簡単な煮込みを用意している間、ニコは店内を見回した。
港湾労働者らしき男たちが、安酒を片手に笑っている。荷運びらしい二人組が、卓を挟んで肉を突いている。隅の席では、酔った老人が船の話をしていた。
薄暗く、酒臭く、どこにでもある港の飲み屋に見える。
だが、レンたちは入ってこない。
打ち合わせ通りだった。
テオは店の外、入口から少し離れた路地で待っている。逃げ出す者がいれば止める役だ。ソフィアは向かいの空き倉庫で、ニコの袖に仕込んだ護符の反応を見ている。シオンは裏口へ回っている。
そして、レンはすでに店内にいた。
カウンターから少し離れた壁際で、帽子を目深にかぶり、安い酒を前に置いている。見た目は、仕事終わりの若い荷運びと変わらない。
ニコはそちらを見ない。
ただ、杯の縁を指先で二回叩き、左手でパンを取るふりをした。
打ち合わせていた合図だ。
ロウ本人。
飲ませるものあり。
まだ動くな。
壁際のレンは、何も反応しなかった。
ロウが酒と煮込みを置いた後、白く濁った杯をニコの前へ滑らせた。
「これ、前のと違うな」
ニコが言うと、ロウは楽しそうに目を細めた。
「分かるのか?」
「匂いが濃い」
「いい反応だ。お前には、前のは薄かったんだよ」
ニコは杯を見下ろした。手は震えていない。だが、喉の奥がひどく乾いた。
「飲んだらどうなるんだ?」
ロウは声を少し落とした。
「身体が目覚める。灰樽亭で飲んだ時より、もっと深くな」
「強くなるってことか?」
「強くなる準備ができる、ってことだ」
ロウはカウンターの下から、小さな銀色の札を取り出した。薄い板に、細かな魔術式が刻まれている。
「飲んだら、手をここに置け」
「何だよ、それ」
「反応を見るだけだ。合うやつには、次に飲むべきものが分かる。合わないやつに無理させても意味がないからな」
ニコは顔を上げた。
「それなら、灰樽亭でよかったんじゃないのか?」
ロウは少しだけ笑った。
「灰樽亭は人が多すぎる。あそこは薄いやつを飲ませて、合うかどうかを見る場所だ」
ロウは白い杯を指で叩く。
「ここは違う。飲めるやつだけを呼ぶ場所だ。個人に合わせたものを出す。まあ、それだけじゃ店にならないから、普通の客も入れてるけどな」
ニコは店内を見た。
客たちは笑い、飲み、食っている。おそらく、ほとんどは本当に何も知らない。
そのことが、逆に気味悪かった。
もし自分がここで倒れても、周りは酔いつぶれたと思うだけだ。もし裏へ運ばれても、店員が介抱しているようにしか見えない。
「悪影響はないのか?」
「今まで大丈夫だったやつは、大丈夫だ」
ロウはあっさりと言った。
大丈夫ではなかった者がどうなったのかは、言わなかった。
「金は?」
ニコは、もう少しだけ時間を稼ぐ。
「ずっと通うと、けっこうかかりそうだな」
「強くなれば稼げるだろ」
ロウは笑っている。
その笑みが、ニコには少しだけ怖かった。
「さあ、飲め」
ロウが言った。
「そこから先へ進めるか、分かる」
ニコは右手で杯を持ち、左手で袖口を握った。
護符が、わずかに熱を帯びる。
向かいの空き倉庫で、ソフィアが顔を上げた。
「来た」
店内で動いたのは、ロウだけだった。
いや、もう一人。
カウンター奥の暗がりで、灰色の外套を着た人物が、銀札の反応を待つように視線を落としていた。
ニコの唇が杯に触れる直前。
壁際の客が動いた。
レンだった。
腕輪はつけたまま。けれど、普通の客から見れば十分すぎる速さで距離を詰める。レンはニコの手首を押さえ、杯を弾いた。
白濁した水が床へこぼれる。
床板に落ちた液体が、じわりと泡立った。
ロウの表情から笑みが消える。
「……何の真似だ?」
レンは静かに返した。
「客の飲み物にしては、ずいぶん物騒だな」
ロウは一瞬だけレンを見る。次に、ニコを見る。そしてすぐに叫んだ。
「酔っ払いが暴れてるぞ!」
店内の客たちが一斉にこちらを向いた。だが、立ち上がったのは数人。ほとんどの客は何が起きたか分からず、ただ戸惑っているだけだった。
その混乱を利用して、ロウがカウンター下から小瓶を投げた。
白い煙が広がる。
視界を完全に奪う煙ではない。匂いを消すための煙だ。甘く苦い匂いも、床にこぼれた液体の気配も、一瞬で薄まっていく。
「逃げる気か」
レンが踏み込む。
ロウはカウンターの奥へ身を翻し、床板の一部を蹴り開けた。下には、人ひとりが潜れるほどの狭い通路がある。
だが、そこへ飛び込む寸前、ロウの足首に細い紐が絡んだ。
裏口側へ回っていたシオンの仕掛けだった。
「悪いね。そっちは見てたんだ」
外から、シオンの声がした。
ロウが舌打ちする。
次の瞬間、カウンター奥の暗がりが揺れた。灰色の外套を着た人物が、煙の中から裏通路へ滑り込む。
シオンが追う。
だが、灰色外套の動きは速かった。戦闘員ではない。けれど逃げ方を知っている。狭い路地へ出ると同時に、足元の石を蹴り、煙幕の小片をばら撒く。
シオンは手を伸ばす。
捕まえられない。
それでも、指先に隠していた香りの強い粉を、相手の外套へ叩きつけた。
「逃がしたけど、ただじゃないよ」
一方、店内ではレンがロウの腕をねじり上げ、床へ押さえ込んでいた。
入口側では、物音を聞きつけたテオが扉を開け、客を外へ誘導している。
「一般客は外へ出ろ!巻き込まれるぞ!」
向かいの倉庫から駆け込んできたソフィアは、炎を使わなかった。代わりに、小さな光をいくつも浮かべ、出口への道筋を示す。酔客たちは何が起きたか分からないまま、明るい方へ押し流されていく。
ロウは苦しそうに笑った。
「俺は酒を出しただけだ。客が勝手に飲んだんだろ」
ニコが一歩前へ出る。
「嘘つけ。俺を試してたんだろ」
ロウの目が、ほんの少しだけ変わった。
「試してたんじゃない。見込みがあるか見てただけだ」
「人を何だと思ってるんだよ」
「上に行きたいって顔してるやつは、みんな喜んで飲むんだよ。強くなりたい。疲れたくない。もっと動きたい。そう言ってな」
ニコは言葉を失った。
ロウは続ける。
「俺は印を付けただけだ。飲めるやつを見つけて、次へ回す。それだけだ」
ニコはロウを見たまま、ぽつりと言った。
「俺、強くなった気がしてたんだ」
レンは少しだけ間を置き、答えた。
「その気がしたのは、本当だろ」
ニコが顔を上げる。
「でも、それで強くなったかは別だ」
「……だよな」
「飲まなくても強くなれるかは、これから試せばいい」
ニコはすぐには笑えなかった。
だが、小さく頷いた。
その時、シオンが店の裏口の方を見た。
「連絡役っぽいやつが逃げた」
テオが悔しそうに言う。
「また逃げられたのか」
シオンはにやりと笑った。
「ただじゃ逃がしてないって言ったでしょ」
彼女は路地の先を指す。
「特殊な香りをつけた。相棒が探してくれるよ」




