青銅の錨
「飲んだのか?」
レンが聞くと、ニコは頷いた。
「ああ。一週間くらい前からかな。俺が訓練帰りに飲んでたら、店員が『疲れてそうだな』って声をかけてきてさ。訓練してるなら合うかもしれないって」
ニコは何も知らない顔で笑う。
「少し甘くて、後味に苦味がある酒。飲んだら、次の日すげえ身体が軽くてさ」
ソフィアの表情が強張った。
「それ、灰樽亭で私たちが飲んだものと同じね」
テオも頷く。
「ああ」
ニコは不思議そうに二人を見る。
「え、知ってるのか?」
「少しな」
レンは短く答えた。
ニコは、まだ自分がどれほど危ない話をしているのか分かっていない。むしろ、最近の調子の良さを少し誇らしそうに語っていた。
「それを飲んでから、毎日元気なんだ。前は途中で息が上がってた訓練も、最近はずっと続けられる。剣を振ってても、まだいけるって思えるんだよ」
「依頼でも違いは感じたか?」
テオが聞くと、ニコは首を横に振った。
「いや、依頼は抑えてる。調子がいいからって強くなったかわからないだろ?自信過剰で死ぬやつ、いくらでもいるしな。だから依頼は最低限にして、最近は訓練ばっかりしてた」
レンは少しだけ目を細めた。
ニコは馬鹿ではない。
ただ元気になったから無茶をしたわけではない。自分の力と、薬かもしれない何かの効果を、少なくとも分けて考えようとしていた。
だからこそ、余計に悪質だった。
「どれくらい飲んだ?」
レンが聞く。
「最初は少しだけ。けど、数日前にけっこう飲んだな。そいつが追加で出してくれてさ。俺も調子良かったから、つい」
ニコは笑う。
「『そんなに飲めるのか』って。俺、変なことしたのかと思ったけど、別に気分悪くならなかったし。むしろ次の日も調子良かったんだよな」
その言葉に、レンたち三人は黙った。
店員が驚いた。
それは、ニコが多く飲んだからか。
それとも、飲んでも倒れなかったからか。
ニコは続ける。
「それでそいつが言ったんだ。『お前、けっこう合うかもしれないな』って。次は灰樽亭じゃなくて、港の方にある《青銅の錨》に来いって言われた。灰樽亭より落ち着いて話せるから、もっとちゃんとした飲み方を教えてやるって」
「青銅の錨……」
ソフィアが小さく繰り返す。
「今日か?」
レンが聞くと、ニコは頷いた。
「夕方。訓練が終わったら来いって。まあ、灰樽亭がどうとか知らなかったし、普通に行くつもりだったけど……」
そこまで言って、ようやくニコの表情が曇った。
「なあ。もしかして、これ、まずい話なのか?」
レンは即答しなかった。
四人は状況を整理するため一度ギルドへ戻った。小部屋では、ミナとシオンが燃え残った名簿と、灰樽亭から押収された控え帳を並べていた。
シオンが帳面の一部を指で叩く。
「これ、見て」
そこには名前ではなく、符丁のような短い言葉が並んでいた。
若剣。
訓練帰り。
多飲可。
倒れず。
次、青錨。
担当、ロウ。
ミナの顔が強張る。
「若剣……訓練帰り……多飲可。ニコさんのことでしょうね」
「青錨……ニコが誘われた飲み屋か」
テオが聞く。
シオンが答える。
「港近くの酒場だよ。灰樽亭より小さいけど、荷運びや港湾労働者が多い。黒鈴会の縄張りの端にある」
ソフィアが眉を寄せる。
「でも、灰樽亭はもう押さえたんでしょう?店員も逃げているか、捕まっているんじゃないの?」
「その店員、名前とか特徴は分かる?」
シオンが聞く。
「ああ、ロウって言ってたな。長身で金髪の男だ。ちょっとアウトローな感じもあったかな」
「捕まった店員の中に、そんな奴はいない」
シオンが低く言った。
「それに、この帳面を見る限り、《青銅の錨》は灰樽亭が潰れた時の代わりじゃない。最初から“次に行かせる場所”だったんだと思う」
レンは帳面を見る。
灰樽亭は、飲ませる場所。
反応を見る場所。
よく飲める者、倒れない者、調子が上がる者を見つける場所。
そして、反応が良かった者は、別の場所へ呼ばれる。
「灰樽亭がなくなっても、行く意味はあるってことか」
レンが言う。
シオンは頷いた。
「むしろある。ロウが生きていて、ニコが予定通り《青銅の錨》に来ると思っているなら、そこで次の接触がある」
「でも、灰樽亭が押さえられたことは向こうにも伝わっているんじゃない?」
ソフィアが言う。
「伝わってるだろうね」
シオンは肩をすくめる。
「灰樽亭が押さえられても、次の接触場所が生きているなら、向こうは様子を見に来る。ロウ本人か、代わりの誰かがね。だからこそ、ロウが来るか、別の連絡役が来るか、あるいは罠に変わるか。どれにしても、向こうが動く可能性は高い」
テオが顔をしかめる。
「つまり、ニコを囮にするってことか?」
部屋の空気が重くなった。
ミナはすぐには答えなかった。受付としては、危険な候補者を保護すべきだ。だが、ニコをただ隠せば、ロウは逃げる。次の丸印の冒険者へ移るだけかもしれない。
「ふざけるなよ」
テオが低く言った。
「狙われてる本人を行かせるのか?」
「無理にとは言わない」
レンが答える。
「けど、相手を捕まえるなら、予定された接触を使うのが一番確実だ」
「お前までそんなこと言うのか」
「言ってるだけだ。決めるのはニコだ」
「俺が行けば、そいつを捕まえられるんだろ?」
ニコは笑いながら言った。
ミナが立ち上がる。
「ニコさん、これは――」
「分かってる。怖いよ。正直、さっきから全然分かってない」
ニコは苦笑した。
「俺はただ、強くなりたかっただけなんだ。訓練して、少しでも前に進みたかっただけだ。それを、誰かが見てたってことだろ?」
誰も否定できなかった。
「なら、俺も知りたい。何を飲まされたのか。なんで俺が選ばれたのか」
「危険だぞ」
レンが言う。
ニコは頷いた。
「だろうな。でも、知らないまま怖がる方が嫌だ。行く。もちろん、勝手には動かない。言われた通りにする」
テオは何か言いたげだったが、結局口を閉じた。
作戦はすぐに決まった。
ニコは予定通り、《青銅の錨》へ向かう。
レン、テオ、ソフィアは客として近くに入る。
シオンは外で逃走路を見る。
ミナはギルドに残り、他の丸印の冒険者の所在確認を続ける。
セリーナには、あえて声をかけない。連絡手段もないが。
彼女が表に出れば、相手は確実に警戒する。
必要なら、どうせ勝手に気づくだろう。
夕刻。
港近くの細い通りに、《青銅の錨》はあった。灰樽亭より小さく、看板も古い。中からは港湾労働者たちの低い笑い声と、酒器の音が漏れている。
ニコは店の前で、一度だけ深く息を吐いた。
レンが横から言う。
「無理なら、やめてもいい」
ニコは首を横に振る。
「ここで逃げたら、たぶん俺はずっと怖いままだ」
ソフィアは、ニコの袖に小さな護符を仕込んだ。
「危なくなったら握って。すぐ分かるから」
「分かった」
テオは短く言う。
「無茶はするな」
ニコは少し笑った。
「それ、俺の台詞じゃない?」
そして、扉を開けた。
店内は普通の港酒場に見えた。酒臭く、薄暗く、ざわついている。ニコは指定された通り、奥のカウンターへ向かう。
そこに、男がいた。
灰樽亭の店員、ロウ。
彼はニコを見ると、まるで何も起きていないかのように笑った。
「来たか。調子はどうだ?」
ニコは一瞬だけ固まった。
だが、すぐに笑顔を作る。
「まあまあだよ。言われた通り、来た」
ロウはカウンターの奥から、小さな杯を取り出した。
「よく来たな。お前ならもっと強くなれるはずだ」
その杯には、昨日までのものより濃い、白く濁った水が揺れていた。




