魔術工房、介入
行政庁本庁の裏手にある馬車置き場には、黒い影が集まっていた。
石畳を埋め尽くすように広がった死霊たちは、古びた車止めの下へ潜り込み、何かに弾かれては消えていく。
ぱちり。
また一体、黒い影が焦げるように弾けた。
リリィの眉が寄る。
「ここる」
フィエルは石畳を見下ろした。
一見すれば、荷車が通るだけの舗装路だ。扉らしい継ぎ目も、取っ手もない。だが、同じ場所へ潜ろうとするたびに、死霊が弾かれている。
「入口?」
「たぶん。死霊を嫌がる結界が埋まってる。普通の避難路なら、こんなものはいらないよね」
リリィが石畳を指差した。
「この下」
フィエルは剣を構える。
「開けられる?」
「死霊じゃ無理。中から押し返される」
リリィは少し笑った。
「でも、あなたなら開けられるでしょ」
「開けるわ」
「壊す、の間違いじゃなくて?」
フィエルは答えなかった。
剣先が、ごくわずかに動く。
音はなかった。
石畳は斬れていない。にもかかわらず、地面の下で何かが切断される気配がした。目に見えない結界の線が揺らぎ、石畳に細い亀裂が走る。
フィエルが斬ったのは、石ではない。
その下に隠されていた錠と、結界の核だけだった。
重い音とともに、石畳の一部が沈み込む。暗い階段が姿を現し、地下から湿った風が吹き上がった。
薬液と鉄の匂い。
リリィの足元に残っていた死霊たちが、揃って階段の下を向く。
「オルガの残り香、まだある」
「行くわよ」
二人が階段へ足を踏み入れた、その直後だった。
行政庁本庁前の広場に、複数の魔法陣が浮かび上がった。
それは軍の魔術兵が展開していたものではない。
本庁から少し離れた監視塔。周囲の屋根。行政区を囲む外壁の上。
異なる方角に現れた魔法陣が同時に輝き、巨大な光槍を射出した。
狙いは、広場の中央に立つセリーナ。
光槍は軍の頭上を通り越し、正確に彼女だけへ殺到する。さらに、地面には幾重もの拘束術式が走った。氷結対策を施された光の鎖が、セリーナの四方から立ち上がる。
セリーナは視線だけを動かした。
「なかなかの威力、彼らですか」
彼女が片手を上げる。
地面から氷壁が突き上がった。
光槍が氷壁に激突し、広場を白い光が覆う。拘束の鎖は氷壁を回り込み、セリーナの手足へ絡みつこうとした。
だが、触れる前に動きを止めた。
光の鎖を、霜が覆っていく。
次の瞬間、すべての術式が凍りつき、細かな光の欠片となって砕け散った。
兵士たちは息を呑んだ。
セリーナが指を軽く振ると、数十本の氷槍が空中に現れる。その穂先が、魔法陣の浮かぶ塔と屋根へ向けられた。
氷槍が放たれる。
だが、命中する直前、空間が揺らいだ。
透明な壁が折り重なるように展開され、氷槍の軌道を横へ逸らす。氷は塔の脇をかすめ、夜空へ消えていった。
続けて、セリーナの足元だけ重力が増す。
石畳が大きく沈み込んだ。
セリーナは氷の足場を空中に作り、その上へ静かに降り立つ。
「なるほど」
彼女の周囲に、新たな氷槍が浮かぶ。
「私に攻撃したという理解でよろしいですか?」
遠方の屋根から、人影が二つ降りてきた。
一人は黒い長衣をまとった女魔術師。片手には細身の杖。もう一人は、複数の魔術具を腰に下げた若い男だった。
女魔術師は、崩れた本庁上層を見て深いため息をつく。
「行政庁を半壊させたうえ、軍と冒険者まで凍らせるのは、少々やりすぎではありませんか。氷の魔女」
「半壊ではありません。上層の一角だけです」
「そこを訂正されても困ります」
女は杖を横に構えた。
《魔術工房》の結界術師、エルネスタ。
その名を知る軍人たちの間に、わずかな安堵が広がる。
セリーナの周囲で、氷槍が揺れた。
「軍の援軍ですか?」
「違います。これ以上、行政庁が壊される前に来ただけです」
「先に攻撃をしておいて、よく言いますね」
「あなたが話を聞く前に、全員を氷漬けにしそうでしたので」
セリーナは返事をしなかった。
エルネスタが眉を上げる。
「否定していただけないのですか?」
その瞬間、氷槍が動いた。
エルネスタの空間障壁も同時に展開される。
氷槍は正面からではなく、空中で無数に分裂した。上下左右から障壁の隙間を狙う。エルネスタは杖を振り、空間そのものを折り曲げる。氷槍はあらぬ方向へ逸れ、地面へ突き刺さった。
もう一人の工房員が光の鎖を放つ。
セリーナは避けない。
自分に触れた部分だけを凍らせ、鎖を引きちぎる。そのまま氷の波が地面を走り、二人の足元へ迫った。
エルネスタは結界を多重展開し、どうにか氷を止める。
広場が氷と魔法陣で埋まった。
軍務副長官ラグナスは、軍を動かすこともできずにその応酬を見ていた。
エルネスタが声を上げる。
「待ってください!私たちは軍の援軍ではありません!」
「攻撃した者の言葉を、そのまま信じろと?」
「行政庁の残りまで壊されたくなかっただけです!」
セリーナは浮かべた氷槍を止めた。
「目的を話しなさい」
エルネスタは一度、軍務副長官へ視線を向けた。
「アデルから報告を受けました。銀杯商会の地下で王国冒険者が発見されたことも、商会が味方ごと焼かれたことも把握しています」
「ならば、なぜ私を止めるのです?」
「あなた方と軍が正面衝突すれば、事件の調査どころではなくなるからです」
エルネスタはラグナスを見る。
「軍務副長官。本庁地下について「魔術工房」、つまり姫にも一切の記録が共有されていないのはなぜですか?」
ラグナスは答えなかった。
セリーナの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「どうやら、こちらへ攻撃する相手を間違えていたようですね」
「否定はしません。ただ、あなたもこれ以上凍らせないでください。報告書が非常に面倒です」
「面倒で済むなら、良い方でしょう」
地上でそんな会話が交わされている頃、フィエルとリリィは地下階段を降りていた。
通路は庁舎の避難路とは思えないほど広い。荷車がすれ違える幅があり、床には新しい車輪跡が残っている。
灰色の石壁。
湿った空気。
薬液と血、それに古い鉄の匂い。
リリィの死霊が先行し、天井や床を這って奥へ進む。
「ここ、避難路じゃないね」
「人や荷を運ぶための道ね」
フィエルが答えた。
死霊が角を曲がった瞬間、通路の奥に巨大な魔法陣が現れた。
重力が増す。
石床が音を立てて沈み、死霊のいくつかが押し潰されるように消えた。続けて、壁から何本もの石の腕が伸び、フィエルとリリィを捕らえようとする。
フィエルが剣を抜く。
重力場の中心だけが斬られ、圧力が霧散した。石の腕も、根元からまとめて落ちる。
その奥で、一人の男が肩をすくめた。
「……また君か、ネクロマンサー」
リリィが目を細める。
短髪の男魔術師。軽い口調。だが、展開した術式に隙はない。
《魔術工房》の戦闘術師、ノイン。
「山にいた人だ」
「覚えていたんだね。光栄だよ」
「ガドルに吹き飛ばされてた人でしょ?」
「覚え方に悪意があるな」
フィエルがノインへ剣を向けた。
「退いて」
「それは無理だ。ここから先は《魔術工房》の管理下に置く」
「いつから?」
「今から」
「なら、まだあなたのものではないわね」
フィエルが踏み込んだ。
ノインの周囲に、幾重もの術式が立ち上がる。
床の重力が反転し、天井から石槍が落ちる。通路の左右に死霊避けの札が展開され、リリィの影を弾いた。
死霊が三体、四体と消える。
リリィの顔から表情が消えた。
「また、うちの子を消した」
「止まってくれれば、消さないよ」
「じゃあ、あなたが止まって」
リリィの影が、一気に膨れ上がった。
通路の床、壁、天井。
あらゆる隙間から死霊が溢れ出す。一体を札で消しても、その裏から五体が迫る。黒い腕がノインの足首へ絡み、骨鳥が目元へ飛びかかり、人影が背中から抱きつこうとする。
「多いな!」
ノインは重力の壁を作り、死霊をまとめて押し返す。
だが、その一瞬でフィエルが間合いへ入った。
剣先がノインの喉元で止まる。
同時に、フィエルの足元の石床が崩れかけていた。ノインが仕込んだ崩落術式だ。
どちらも、あと一手で相手を傷つけられる。
ノインは苦笑した。
「相変わらず、王国のSランクは話を聞かない」
「先に攻撃した相手の話を聞く趣味はないわ」
「上でも同じことをしてそうだね」
リリィが死霊をさらに集める。
「続ける?」
ノインは答えようとした。
その時、通路の奥で黒い光が瞬いた。
黒輪の魔道具。
リリィの死霊が一斉にそちらを向く。
「オルガ」
ノインの顔から、軽い表情が消えた。
「やはり、ここを使っていたのか」
フィエルは剣を下ろさない。
「知っていたの?」
「地下通路があることは疑っていた。でも、入口は見つけられなかった。行政庁も軍部も、我々に隠していたんだ」
リリィが首を傾げる。
「じゃあ、邪魔する理由なくない?」
「あるよ。君たちが暴れると、全部壊れる」
「もう上は壊れてるよ」
「知ってる。それ以上壊さないでほしいんだ」
奥から、オルガの気配が遠ざかる。
ノインはため息をつき、術式を解除した。
フィエルも剣先をわずかに下げる。
「急いで」
「命令するんだ」
「壊す前に捕まえたいの」
「分かったよ。俺が結界を外す。ネクロマンサーは死霊を流していい。ただし、通路脇の資料棚と薬液槽には触らないで。焼却術式が仕込まれている」
リリィが不満そうに言う。
「注文が多いね」
「銀杯商会で、また情報を燃やされたくはないだろ?」
リリィは一瞬黙り、死霊たちを奥へ向けた。
「それは、嫌」
ノインが結界の解除に取りかかる。
複雑な魔術式が壁の中から浮かび上がり、一つずつ光を失っていく。そのたび、リリィの死霊がさらに奥へ進む。
やがて、三人は巨大な隔壁の前にたどり着いた。
石でも鉄でもない。黒い素材で作られた壁面に、見たことのない古い術式が刻まれている。
ノインは手を触れ、すぐに表情を変えた。
「これは……《魔術工房》の術式じゃない」
「軍のもの?」
フィエルが聞く。
「違う。もっと古い。この行政庁が建つ前からある術式だ」
リリィが一体の死霊を隔壁へ向かわせる。
触れた瞬間、死霊は声もなく消えた。
「また消えた」
リリィの声が低くなる。
「嫌い」
フィエルは剣を構えた。
「斬っていい?」
「待って」
ノインが珍しく強い声で止めた。
「仕掛けが分からない。ここを壊せば、奥の施設ごと潰れるかもしれない」
隔壁の向こうから、オルガの声が響いた。
「《魔術工房》まで出てきましたか。ずいぶん大事になりましたね」
ノインが隔壁を睨む。
「君が大事にしたんだよ」
フィエルは剣を下ろさない。
「開けて」
地上では、氷と魔法陣が軍を囲んでいた。
地下では、死霊と剣が古い隔壁を見つめていた。
《魔術工房》は、上と下の両方に現れた。
だが、彼らでさえ、その先にあるものを知らない。
ノインは隔壁に刻まれた術式を見つめ、完全に軽口を消した。
「これは、まずいね」
「開かないの?」
「開くよ」
ノインはゆっくりと手を上げた。
「ただし、向こうに何があるかは保証できない」




