バツ印の名簿
港の吹雪が、少しずつ弱まっていった。凍りついた船の縄が軋み、桟橋の端に張った薄氷が夜風に鳴る。荷車の残骸は石畳の上で崩れ、白い粉の入った小袋があちこちに散らばっていた。その横では、布にくるまれていた若い冒険者が、浅い呼吸を繰り返している。
黒服の女は逃げた。大きな袋を抱え、空へ舞い、セリーナの氷槍すらかわして夜の向こうへ消えた。方角だけを見ればヴァルディア側。だが、本当にそこへ向かったのかは分からない。
レンは、まだ女が消えた夜空を見ていた。
「まずは残ったものを見ましょう」
セリーナが静かに言った。
「逃げたものより、残したものの方が嘘をつかないわ」
「……そうだな」
レンは視線を戻した。
最初に確認されたのは、荷車から出てきた若い冒険者だった。駆けつけたギルドの治癒術師が膝をつき、脈を取る。港の灯りはほとんど消えていたが、セリーナが作った氷の灯りが、男の顔を青白く照らしていた。
「外傷は少ないですね。少なくとも、動けない理由は怪我ではありません」
治癒術師は眉をひそめた。
「熱も高くない。呼吸も荒すぎるわけではない。ですが……力がまるで入っていない。意識も薄い」
レンはその言葉に、嫌な記憶を重ねた。
川沿いの集落で見た難民たち。熱はない。怪我もない。なのに立てない。意識はあるのに、身体が従わない。
「難民の病人と同じだ」
レンが低く言うと、セリーナがこちらを見た。
「難民?」
「川沿いの集落で見た。連邦から流れてきたって話の連中だ。熱も怪我もないのに、立てないやつが何人かいた」
セリーナは一瞬だけ考えるように目を細める。
「病ではないでしょうね」
「病じゃない?」
「ええ。少なくとも、自然に倒れたようには見えないわ。何かを飲まされたか、何かの処置を受けたか。身体を壊しているというより、身体の使い方を奪われているように見える」
治癒術師は否定しなかった。
レンは横たわる冒険者を見下ろす。若い。装備を見る限り、低ランクかもしれないが素人ではない。剣だこもある。歩き方を忘れた子供ではない。戦うために身体を鍛えてきた者だ。
それが今、荷物のように積まれていた。
「じゃあ、あいつらも……」
「流されてきたのか、流されたように見せられたのか。そこから疑うべきでしょう」
セリーナの声は冷たかった。
次に確認されたのは、白い粉だった。
小袋は、活性水として聞いていたものに酷似していた。粉を水に溶かして飲む、連邦で流行している滋養飲料。レンたちも話としては何度も聞いていたし、少量を試したこともある。だが、これほどまとまった量の現物を見るのは初めてだった。
カリスが袋を一つ拾い、慎重に匂いを確かめる。
「……活性水と同じですね」
「断定できるのか?」
レンが聞くと、カリスは首を横に振った。
「いえ。見た目と匂いだけです。ただ、少なくとも形は同じです。水に溶かす粉。少し甘く、後味に苦味が残るもの」
セリーナは粉袋を見下ろしたまま、静かに言った。
「同じものか、混ぜ物が違うのか、濃さが違うのか。今ここでは分からない」
「ただの滋養飲料なら、こんな運び方はしないだろうな」
レンが言う。
セリーナは頷いた。
「ええ。しかも、動けない冒険者と一緒に運ばれていた。粉と人。この二つは、同じ流れの中にあると見ていいでしょう」
レンは、横たわる若い冒険者を見る。
難民の病人。
灰樽亭の酒。
港で見つかった白い粉。
そして、荷として運ばれていた人間。
まだ答えは出ていない。
だが、病気や偶然という言葉では、もう片づけられなかった。
その時、焼けた倉庫の方からカリスの部下が駆けてきた。少し遅れて、カリス自身も戻ってくる。手には、焦げた紙束があった。
「全部は無理でした。でも、これだけは残りました」
焦げた書類は半分以上が読めなかった。だが、残った部分には名前らしき文字列が並び、その横に記号があった。
●。
×。
空欄。
焼けて判別できない印。
レンは目を細める。
「冒険者の名前か?」
カリスは頷く。
「ザヴィルで見たことのある名前がいくつかあります。低ランクから中堅が多いですね」
セリーナが紙面へ視線を落とす。
「対象者リストね」
その言い方は、ほとんど断定だった。
「低ランクばかり狙うのか」
レンが言うと、セリーナは淡々と返す。
「消えても騒ぎが小さい。けれど、体力はある。都合がいいのでしょう」
その言葉に、レンは少しだけ腹の底が冷えるのを感じた。
普通の冒険者。宿代を気にし、武器の修理代を数え、受付に顔を覚えてもらおうと雑用を受ける者たち。テオやソフィア、ニコのように、少しずつ前に進もうとしている者たち。
その名前が、誰かの紙の上で選ばれている。
「普通も大変だな」
レンは思わず呟いた。
セリーナが少しだけ意外そうにこちらを見る。
「今さらですか?」
「今さらだな」
レンは苦笑する。
「強い魔物と戦うより、金を稼いで、食って、少しずつ強くなって、その上でこんなものに狙われる。普通の冒険者って、思ったより楽じゃない」
「レン様がそれを知るための旅でしょう?」
「……そうだったな」
その時、港の入口側がざわついた。
バルドが来ていた。衛兵とギルド職員、領主側の役人を連れている。凍りついた港を見渡し、荷車の残骸、拘束された黒鈴会、燃えた倉庫、そしてセリーナを順に見た。
「高ランク冒険者は自由だな」
「間に合ったでしょう?」
セリーナは平然と返した。
「港は半分凍っているがな」
「壊してはいません」
レンが小さく言う。
「それ、今日三回目だぞ」
バルドの視線が、ほんの一瞬だけレンへ向いた。
その目が、手首へ落ちる。今はまだ、腕輪を戻していない。いや、腕輪だけではない。セリーナがレンをどう扱っているか。この港で何が起きたか。普通の新人冒険者で片づけるには、材料が多すぎる。
レンは内心で息を止めた。
気づかれた。
セリーナが、静かにバルドを見る。
「何か?」
バルドはほんの少しだけ肩をすくめた。
「いや。今日は見ていないものが多すぎてな」
セリーナの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「賢明ね」
それだけだった。
バルドはレンに何も聞かなかった。レンも何も言わなかった。ギルド長は気づいた。だが、気づかないことにした。そういう合意が、言葉なしに成立していた。
人が増え始めたところで、レンは腕輪を戻した。
魔力の流れが鈍る。身体が重くなる。さっきまで世界の輪郭が鮮明だった分、余計に違和感が強い。
セリーナが見ていた。
「どちらの生活が楽しいですか?」
「今は普通でいたいな」
セリーナは少し黙った。
やがて、燃えかけた名簿へ目を落とす。
「なら、普通の冒険者として最後まで見届けてください。普通の冒険者が平和に過ごせるように」
その言葉の意味を、レンはすぐには返せなかった。
夜明け前。
シオンが港へ戻ってきた。走ってきたのだろう。息を切らし、しかし目だけは冴えている。カリスが焦げた書類を差し出すと、彼女は最初、いつものように軽口を叩いた。
「うわ、焦げてる。もっと綺麗に拾ってよ」
だが、×印のついた名前を見た瞬間、顔色が変わった。
「……これ」
「知っているのか?」
レンが聞く。
「消えたやつだ」
シオンの指が、別の名前へ移る。
「これも。こいつも。……このバツ、消えたやつについてる」
カリスが低く言う。
「では、丸は?」
シオンはしばらく黙った。
焦げた紙の上には、まだいくつもの●が残っている。消えていない名前。まだ街にいるはずの冒険者たち。
「まだ消えてないやつ……かもしれない」
シオンの声が低くなる。
「バツが消えたやつなら、丸は次の候補だ」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
シオンは燃えかけた名簿を見下ろしたまま、笑わなかった。
「これ、神隠しじゃない」
指先が、黒く焼け残ったバツ印をなぞる。
「狩りだよ。名前を選んで、印をつけて、順番に消してる」
レンは名簿に残った丸印を見た。
そこには、まだ消えていない低ランク冒険者たちの名前が並んでいた。
普通の冒険者として生きる。
その普通が、誰かにとっては狩りの対象だった。




