港
「港を封じるには、本来ならギルド長か領主の許可が必要です。ですが、今から取っていては間に合いません」
カリスがそう言った瞬間、セリーナは当然のように歩き出した。
「なら、許可は後で取ればいいわ」
レンは苦笑する。
「相変わらずだな」
「遅いよりはましでしょう?」
その横で、シオンが顔を引きつらせた。
「え、まさか本当に今から港へ行くんですか? 港って、あの港ですよ? 黒鈴会だけじゃなくて、普通の荷運びも商会も船も――」
「情報屋」
セリーナが振り返った。
声は静かだった。けれど、それだけでシオンの背筋が伸びる。
「あなたは戻りなさい。黄金の街灯とギルドへ伝達。灰樽亭で押さえた者の整理も必要でしょう」
「え、でも、港の案内は……」
「ここから先は、あなたが見ていいものではないわ」
シオンは一瞬だけレンを見た。
助けを求めるような顔だったが、レンは何も言えなかった。
セリーナがそう言う時は、大抵もう決めている。
「……はい」
シオンは渋々うなずき、路地の奥へ消えていった。
ソフィアは気を失ったテオを支えながら、レンを見た。
「私はテオを治療所へ運ぶ。でも、逃がさないで」
「ああ」
レンが頷くと、ソフィアは短く息を吐き、テオを連れて走り出した。
カリス達もまた、灰樽亭の後処理と黄金の街灯への連絡に回ることになった。
港で表に出るのは、レンとセリーナだけ。
そう決まると、夜の路地には二人だけが残った。
「シオンまで下げたのは、俺に動けということか?」
レンが低く聞く。
セリーナは前を見たまま答えた。
「ええ。レン様が普通の冒険者として振る舞う余裕は、もうないと思います」
「できれば、もう少し続けたかったんだけどな」
「仲間が吹き飛ばされた後でも、それを言いますか?」
レンは返せなかった。
代わりに、手首の腕輪へ指をかける。
今はまだ外さない。
だが、港へ着いた時点で、おそらくそれは必要になる。
夜のザヴィル港は、奇妙な静けさに包まれていた。
本来なら、夜でも荷の出入りがある。酒場へ運ぶ樽、翌朝の出航に備える船、遅れて着いた商人の荷。灯りは少なくとも、完全には消えない。
だが、今夜は違った。
倉庫の灯りがない。
船の灯りもない。
なのに、人だけが動いている。
暗い倉庫街を、足音だけが走る。荷車の車輪が軋む音。縄を解く音。小さな金属片を鳴らすような合図。誰も大声を出さず、互いに手振りだけで指示を飛ばしている。
「隠れているというより、急いでいるな」
レンが呟く。
「酒場で歯向かってきた犬が言っていましたね。時間稼ぎだと」
セリーナは港を見渡し、静かに言った。
「私が全方位へ圧をかけます。船か荷車が動き出したら、レン様が止めてください」
「腕輪は?」
「外してください。ここから先、目撃者の選別はこちらでします」
レンは腕輪を外した。
その瞬間、魔力の流れが戻る。
身体の奥に詰まっていた重石が消えるような感覚。視界が広がり、空気の流れさえ鮮明になる。
「……やっぱり、こっちの方が楽だな」
「楽だからといって、壊しすぎないでくださいね」
「それ、セリーナに言われるのは納得いかないな」
セリーナはわずかに目を細めたが、反論はしなかった。
代わりに、一歩前へ出る。
彼女が手を上げた瞬間、港が白く染まった。
最初は吹雪だった。
倉庫街を横殴りの雪が走り、視界を奪う。荷車の車輪が凍り、足元の石畳に霜が走る。船の帆、舵、ロープが一瞬で白く覆われ、港の水路の表面に薄い氷が広がる。
だが、それだけでは終わらない。
倉庫の扉に氷の膜が張る。屋根や梁から氷柱が伸び、逃走経路を塞ぐ。地面からは細い氷の針が生え、走ろうとした男たちの足を止める。
さらに港の上空に、巨大な氷の輪が浮かび上がった。
月を囲むような白い輪。そこから無数の氷片が、動く者の進路だけを狙って落ちる。
殺すための魔法ではない。
だが、動くことを許さない魔法だった。
「船が動かねえ!」
「車輪が凍ってる!」
「倉庫が開かないぞ!」
「まずい……!」
港のあちこちで、押し殺した悲鳴が上がる。
セリーナは静かに告げた。
「動いたものから、止めなさい」
「港を封じるなって話だった気がするんだけど」
レンが横で呟く。
「凍らせただけです。壊してはいません」
「口ではお前に勝てないな」
その時、港の奥で一台の荷車が動き出した。
他の荷車が氷に噛まれて止まる中、それだけが異様に速い。黒鈴会の男たちが、凍った道を無理やり押し、荷車を水路側へ走らせている。
「あれか」
レンは地面を蹴った。
腕輪を外した体は軽い。
数歩で距離を詰め、荷車の横へ並ぶ。
御者と荷役は消せない。
狙うのは、荷車そのもの。
「虚無の王」
音はなかった。
荷車の車軸、荷台の固定具、逃走用に補強されていた金属枠。レンが意図した部分だけが、最初から存在しなかったかのように消えた。
荷車は支えを失い、崩れる。
積荷が石畳へ散らばった。
小袋の詰まった木箱。白い粉。
そして、布にくるまれた人影。
レンは顔をしかめ、布を剥ぐ。
若い冒険者だった。
意識は薄い。抵抗もできない。だが、胸はかすかに上下している。
「荷じゃないな」
「ええ。人ですね」
いつの間にか追いついたセリーナが、冷たく言った。
その直後、港の奥で炎が上がった。
倉庫の一角。書類と薬瓶が並んでいたらしい場所が、内側から赤く燃え出す。セリーナの吹雪が押し寄せるが、炎はしぶとく残った。普通の火ではない。紙と薬品だけを選ぶように、狙って焼いている。
「証拠隠滅か」
レンが言う。
「ええ。荷車を止められることも、想定していたのでしょう」
セリーナの目が冷える。
「準備がいいわ」
その時、レンは頭上に気配を感じた。
倉庫の屋根の上。
黒服の女が立っていた。
長い外套。顔は布で隠している。背中には、不自然に大きな袋を背負っていた。黒い布で包まれた、重そうな袋。
女の足元に魔法陣が広がる。
次の瞬間、彼女は空へ舞い上がった。
「本命か」
レンが目を細める。
セリーナの氷槍が即座に飛ぶ。
だが女は空中で体をひねり、ぎりぎりでかわした。
続けて、上空の氷輪から無数の氷片が降る。
女は高度を変え、倉庫の屋根を蹴り、吹雪の流れを読むようにすり抜けていく。
「速いわね」
セリーナの声が低くなる。
「俺が落とす」
レンは右手を上げた。
黒服の女との距離。
袋の位置。
周囲の屋根、船、倉庫。
消すべき範囲は、一瞬で決められる。
その瞬間だった。
崩れた積荷の中から、一人の男が飛び出した。
荷役に紛れていた男だ。
全身に氷が張りつきながらも、血走った目でレンへ突っ込んでくる。
「行かせるなあああ!」
男の胸には、小さな魔道具が括りつけられていた。
赤く明滅している。
爆薬か。
あるいは、粉に反応する何かか。
レンは黒服の女への攻撃を止めざるを得なかった。
周囲には白い粉の積荷が散らばっている。
動けない冒険者もいる。
爆発は防がなければならない。
「面倒な……!」
捕らえる余裕はなかった。
魔道具が一瞬でも発動すれば、粉も、冒険者も、港の一角も巻き込む。
レンは魔法を発動し、男ごと胸元の魔道具の中核を抹消した。
一瞬でこの世から存在が消える男。
だが、その一瞬で黒服の女は距離を取っていた。
セリーナがさらに氷槍を放つ。
女はかわす。
完全に余裕があるわけではない。大きな袋の重みで体勢がわずかに崩れている。それでも、空へ逃げるための魔道具か魔法の扱いに慣れている。
女は港の外れを越え、山影の方角へ向かった。
レンが追おうと一歩踏み出す。
「レン様」
セリーナが止めた。
「追っても、ここからでは間に合いません」
「クロノを使えば」
「ここでそれを使えば、説明が面倒です。港にはまだ動けない者が残っています」
レンは歯噛みする。
動けない冒険者。
白い粉。
拘束した男たち。
燃える倉庫。
全部を放って追うわけにはいかない。
「……あの袋が本命か」
「ええ」
セリーナは、黒服の女が消えた夜空を見つめたまま言った。
「おそらく、あれが一級品でしょう」
確証はない。
だが、あれだけを必死に逃がした。
それが答えだった。
港の吹雪が、少しずつ弱まっていく。
氷に閉じ込められた男たちが呻き、荷車の残骸から粉がこぼれ、動けない冒険者がかすかに息をしている。燃えていた倉庫は、ようやく炎を落とし始めていた。
レンは、女が消えた方角を見た。
「ヴァルディア側か?」
「方角だけなら、そうですね。ただ、まっすぐ戻るとは限りません」
「なら、どこへ向かった?」
セリーナは答えなかった。
ただ、黒服の女が消えた夜空を、じっと見つめていた。
港の上には、まだ粉雪のような氷片が漂っている。遠く、倉庫の火が赤く揺れている。
あの女は、一級品と思しき袋を抱えて逃げた。
だが、逃げた先はヴァルディアなのか。
それとも、ザヴィルのどこか別の場所なのか。
レンには、まだ分からなかった。




