先手
ザヴィルの夜は遅い。
門前の騒ぎが落ち着いても、警備隊と役人とギルド職員がまだ慌ただしく動き回っていた。そんな中、フィエルは人気のない裏通りを一人で歩いていた。
表から入れば面倒なことになる。領主側の役人だの、ギルドの偉い者だの、顔を出した瞬間に挨拶に来る連中がいるからだ。今はそんなものに付き合っている暇はないし、何より面倒だった。
「……こういう時だけは、目立つのも考えものね」
小さく呟いて、フィエルは警備隊の詰め所の裏手へ回る。そこではすでにガドルとリリィが待っていた。
「遅いぞ」
「こっそり来たんだから仕方ないでしょ。表に出たら挨拶だけで時間が潰れるわ」
「フィエルも大変だねー」
リリィは楽しそうに笑っている。
今日の目的は一つ。ザヴィルで捕らえた工作員の一人に話を聞くことだ。
詰め所の裏口に立っていた警備員は、三人を見た瞬間、一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「待て。ここは関係者以外――」
だが、顔を見て誰が現れたのかに気づいたらしい。
「ど、どういったご用件でしょうか?」
「私たち、ちょっと中で話したいだけなんだけど。だめ?」
「手続きが……」
「手続きって」
フィエルが腰の剣に手をかける。
それだけで、警備員の喉がひくりと鳴った。
「必要……?」
フィエルが首を傾げながら静かに前へ出る。警備員は顔色を失い、すぐに道を開けた。
「……連邦の奴らは奥の部屋です」
「わかった」
「ありがとねー」
「すまねえ、後は任せた」
取調室は狭かった。石壁、机、椅子。それだけだ。
中央の椅子には工作員が一人、縄で縛られたまま座らされている。頬に腫れはあるが、まだ目は死んでいなかった。
ガドルが正面に立ち、リリィが机の端に腰掛ける。
フィエルだけは少し離れた位置に立ち、無言で相手を見下ろしていた。
「さて」
ガドルが口を開く。
「どこまで知ってる?」
工作員は答えない。
「俺は細かいの苦手なんだよ。だから、さっさと話してくれると助かる」
工作員は薄く笑った。
「拷問のつもりか?」
「ええ」
軽い調子のまま、フィエルが動いた。
無駄のない一歩で間合いに入り、剣を抜く。次の瞬間には、その切っ先が工作員の耳のすぐ横を通って石壁に食い込んでいた。
甲高い音。
ほんの少しでも顔を動かしていれば、耳ごと持っていかれていた距離だった。
「……っ!」
工作員の顔色が変わる。
フィエルは剣を壁から引き抜き、そのまま相手の喉元にぴたりと当てた。
「まあ、死んでも代わりはいるよ」
声音は静かだった。だが、その静けさがかえって場を支配する。
「白の剣……」
「今さら気づいたの?君に選択肢はもうないよ。もう三人目だから、そろそろ終わりにしたいんだけどね」
リリィが笑う。
「国際問題に……」
「なるわけないよね。元々、三人はいなかったことになるだけだよ?」
工作員の表情が、明らかに動揺へ変わる。
白を黒に変えても押し通せるかもしれない――そう思わせるだけの圧が、目の前の三人にはあった。単にSランクだからというだけではない。もっと別の、踏み越えてはならない線の向こう側に立っている者たちの圧だ。
「で、君たちは何をしたいの?」
フィエルが問う。
「……流れを、作ってるだけだ」
フィエルの目が細くなる。
ガドルが横から聞いた。
「流れ?」
「人を……混ぜる。消す。怯えさせる……それだけだ」
リリィがくすくす笑った。
「雑だねえ」
「雑でも効くんだろ」
ガドルが吐き捨てるように言う。
「セリーナが言ってた通り、街が疑心暗鬼になればそれで十分、ってことなんだろうな」
「これ以上は話せない」
工作員はそこで口を閉ざした。
「どうする?」
「これ以上は時間の無駄ね。きっと何か仕掛けられていて、話せないんでしょう」
フィエルは剣を収めた。
「でも十分だわ。こいつは連れていきましょう」
「あと、セリーナが押さえたのがもう一人いたよね?」
リリィが言う。
「ええ」
フィエルは頷く。
「セリーナが連れて来いって」
「片方は現場、片方は街中」
ガドルが鼻を鳴らした。
「別線まで掴んでるって見せられるってことだな」
一方その頃。レン、テオ、ソフィアの三人は、再びギルド奥の小部屋へ呼ばれていた。
前回と同じ部屋だが、今日は空気が少し違う。ミナの机の上には紙が何枚も広げられていて、いつもの笑顔はあるものの、目だけはいつもより真剣だった。
「すみません、もう一回だけ確認させてください」
ミナはペンを持ち直す。
「今回は病人についてです」
三人が黙って頷くと、ミナはすぐに本題へ入った。
「動けなかった人は三人でしたよね?」
「ああ」
「熱はそこまで高くなかった。怪我もない。ただ、立とうとすると力が抜ける感じだったわ」
ソフィアが答える。
「それで」
ミナが一度言葉を切る。
「その三人は、全員難民でしたか?」
「そこが違う」
「違う、ですか」
「難民もいた。でも、工作員側にも似た状態の奴がいた」
「……つまり」
「病気自体は本当なんだろう。難民もいたし、工作員もいた」
レンは短く言った。
ミナの手が止まる。
それまで一定だった表情が、そこで初めて少しだけ崩れた。
「病人の中に、工作員側の人間もいたんですね」
「断定まではできないけどね」
ソフィアが言う。
「でも、明らかに一般人と、明らかに一般人でない者がいた」
「俺もそう思う」
テオが頷く。
ミナはしばらく難しい顔で黙っていた。いつもの軽さが消えているのが、三人にも分かる。
「……なるほど」
やがて彼女は静かに言った。
「分かりました。この件、一回こちらで引き取ります」
「引き取る?」
テオが首を傾げる。
「はい。たぶん、現場判断だけで片づけない方がいいです」
ミナは穏やかに答える。
「病気の可能性がある以上、慎重な対応が必要です」
レンはそこで、酒場でのシオンの言葉を思い出した。
あれは案外、的外れでもなかったらしい。
翌朝。
ヴァルディアへ向かう街道では、フィエル、ガドル、リリィ、猫の門番、そして二人の工作員を乗せた一団が進んでいた。
拘束された二人は、どちらも諦めたような表情をしている。逃げ切れるはずもないので無事を祈って帰るしかない。そう悟っている顔だ。
それを見ながら、フィエルが淡々と言った。
「向こうはどうせ交渉しに来るつもりでしょうね」
「だろうな」
ガドルが答える。
「兵も工作員も回収したいはずだ」
「だから待たない、でしょ?」
フィエルは前を向いたまま続ける。
「先にこっちから入る。向こうが場を整える前に、顔を突きつける」
ラウルが慎重に聞く。
「交換条件は、最初から提示しないのですか」
「しないわ」
フィエルは即答した。
「こちらから“これを返せばこうする”なんて言う必要はない。欲しいなら、向こうから口を開く」
「つまり、出方を見るわけですね」
「ええ。誰が何を優先するのか。それを見てから考えればいい、って」
リリィが嬉しそうに笑う。
「いいねえ。黙って座ってるだけで、向こうが勝手に困るやつだ」
「お前は本当に黙って座ってろよ」
「たぶん無理ー」
「だと思ったよ」




