8.Old Fashioned―『赦し』とは―
厳しい残暑が終わり、どこからか聞こえてくる虫の声に変化が起きる仲秋。
日に日に長くなる夜の時間に、感じるのは高揚か寂寥か。
繁華街の客足が一軒目から二軒目へと流れていく頃、Bar Absolutionの扉を開けたのは、仕立てのいいスーツを着た上品な男性だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、透が穏やかな声と笑顔で客を迎える。
「ああ……ここは、Barかな?」
「さようでございます。何かお飲みになりませんか?」
「そうだね。先の会合で少し飲んできたから、何か軽いのをお願いするよ」
「かしこまりました」
カウンターチェアに腰を下ろす男性――長谷川孝臣におしぼりを渡しながら注文を受け、透はロックグラスを取り出した。その縁にカットレモンを擦りつけ、塩をまぶす。
そして流れるようにカクテルを作り、孝臣の前に置いた。
「お待たせいたしました。ソルティドッグでございます」
「ああ、ありがとう。これはいいね、ちょうど塩味が欲しかったんだ」
「それは良かった。お酒を飲んだ後は塩味が欲しくなりますよね。……まぁ、これもお酒なんですが」
ふふ、と笑う透の笑顔に、孝臣も笑顔を見せ、グラスに口をつける。
そこに、ガラスの器を手にした樹が裏から顔を出した。
「こちら、よろしければご一緒にどうぞ。パプリカとオリーブのピクルスです」
「ありがとう。――うん、美味しいね。さっぱりして食べやすいよ」
「……どうぞ、ごゆっくり」
一度会釈をして、樹が裏に戻っていった。その後ろ姿を見送り、孝臣が口を開く。
「この店は、君たち二人で?」
「はい。こじんまりとやらせていただいております」
「そうか、まだ若いのにすごいな。……っと、変な意味じゃないぞ? 率直な感想なだけで」
「ふふ、大丈夫ですよ。素直に褒め言葉として、受け取らせていただきました」
「良かった。最近は何気ない会話のつもりでもすぐに騒がれてしまう時代だからね……気をつけているつもりなんだけど、どうしてもね」
ははっ、と眉尻を下げて笑う孝臣は、人の良さそうな顔をしている。こんな風に言ってはいるが、きっと上手いことやっているのだろう。
「人の上に立つ立場となると、大変なことも多くなりますよね。何か、会社をやられているんですか?」
「……何で、そう思ったの?」
「失礼でしたら申し訳ございません。先ほどの『会合』に行ってらした、という言葉と、お客様のお召し物が。嫌味がないのに仕立てが良くて、とても素敵だと思いまして」
「すごいね。わかりやすいブランド物とかじゃないのに、わかってくれるんだ?」
「ええ。ただ、私自身が目利きできるわけではなくて、父の受け売りなんですが」
その言葉に、にこやかに話していた孝臣の顔が曇った。だがすぐに表情を戻し、笑顔になる。……先ほどとは違う、感情を隠したような笑顔に。
「いいお父さんなんだね」
「はい、とても。――父、と言っても“義父”なんですが」
「義父?」
「ええ。私には、父がおりませんでしたので。代わりに育ててくれた、育ての親です」
「……そうだったんだね。ごめんね、深く考えないで話してしまって」
「いえ、謝っていただくことは何も。今は『父』と呼べることが嬉しくて……すみません、つい個人的な話をしてしまいました」
申し訳なさそうに謝罪する透に、「いや……」と言葉を濁し、作っていた笑みを消す。
「……実の父親のことは、知っているの?」
「ええ。先日もここに来ていました」
「――っ! それは、どういう関係なんだ……?」
「そうですね……個人的な意見で言うと、『顔見知り程度の他人が何故か馴れ馴れしく接してくる』というところでしょうか」
笑顔でサラッと言い切る透に、孝臣はポカンと口を開け、我に返ると同時に声を出して笑いだした。
「ははっ、『顔見知り程度の他人』って……っ、優しそうな顔をして、意外と辛辣だね」
「そうでしょうか……? ですが、私の父は既におりますので。数えるほどしか会ったことのない人を父だとは思えなくて」
「……そう、だよな。そんなもんだよなぁ……」
そう呟き、グラスを一気に空ける。
「はぁ……。ごめん、ちょっとお冷もらってもいいかな?」
「かしこまりました。――よろしければこちらも」
「ありがとう。ああ、冷たくて気持ちがいいね」
グラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを注いで差し出す。裏から樹が渡してきた冷たいおしぼりも一緒に。
「いや、ごめんね。ちょっと取り乱しちゃって」
「いえ。何か、ございましたか?」
透の問いに孝臣は困ったように笑い、気持ちを整えるように水を一口飲んだ。
「――実はさ、僕にも『父』がいなかったんだ。……いや、いたんだけど、いなくなった、が正解かな。」
「いなくなった、ですか」
「そう、ある日突然ね。だから、その後は母一人子一人の生活。でも、父親の分までしっかりと愛情をかけてもらったと思うよ」
「それは……素敵なお母様ですね」
「そうでしょ。本当に感謝してる。ただ……半年ほど前に、父だった男の訃報が届いてね。泣いていたんだよ、母が」
どこか遠くを見るような目に宿るのは、どんな感情なんだろうか。グラスを手に取り、時折傾けながら、孝臣は言葉を重ねる。
「僕の中にある『父』の記憶はさ、いつも怒鳴り散らして母に当たっている姿ばかりなんだ。帰って来なくなったときは、心底ホッとしたことを覚えているよ」
「お辛い、記憶ですね」
「……そうだね。母を助けることができなかった無力さを、子供ながらに恨めしく思っていたよ。――それなのに、何で今更。あの男の訃報が届いたことも不思議だったけど、涙の意味もわからなかった。散々、苦しめられてきたはずなのにね」
孝臣は一度息を吐き、透を見上げた。そしてニコッと笑い、「ごめんね」と謝意を告げる。
「こんなつまらない話をしてしまって。少し酔っ払っているのかもしれない」
「とんでもございません。――お客様、ここは『Bar Absolution』でございます。どんなお話でも、お気のままにお聞かせください」
「Absolution……赦免か。素敵な名前だね」
「ありがとうございます」
「そっかぁ……ここでなら、僕の罪も赦してもらえるのかな」
「罪、ですか。どのようなものか、お聞きしても?」
「ああ。――父親のことを、赦せない罪だ」
そう告げる孝臣の表情は、自嘲するような、だけどどこか苦しそうな笑顔だった。
「父親、というのは先ほどの?」
「そう。父親なんて、言いたくもないんだけどね」
「そのようなお相手のことを、何故?」
「あの男……父はね、病気だったんだって」
「ご病気、ですか」
「そう。双極性障害……少し前の言葉だと、躁鬱病ってやつだね。暴力的になっていたのもその病気のせいだったみたいなんだよね」
「それは……」
「だからと言って、『はいそうですか』ってなるわけないじゃない? だけどね、母が『お父さんを赦してあげて』って」
歪んだ。人の良さそうな孝臣の顔が、初めて歪んだ“苦悩”を見せた。
「何で、赦さないといけない? 病気って言えば何でも赦さなければいけないのか? あの人が、『病気のせいで』あんな状態になっていたのだとしても、母を傷つけたことも、僕らが苦しかったことも、紛れもない現実だった。……病気は、免罪符になるのだろうか」
「――私には、お客様の苦しみを想像することしかできません。ただ、私個人の考えでは……人の心を前に、免罪符なんてものは何の価値も見出さない。そう、思います」
下を向いていた孝臣が、少し驚いたように透の顔を見上げた。どこか、救いを求めるような、縋るようなその表情に、透は慈悲を与えるような笑顔を向ける。
「お父様がご病気だったことは、責めることのできないご事情だったのだと思います。ですが、だからと言ってご家族を苦しめた事実を、無かったことにはできません」
「だけど、母が……っ」
「お母様のお気持ちと、お客様のお気持ちは別のものでございます。大切なのは、ご自身の気持ちです。『赦し』は与える側にとっても、与えられる側にとっても、自己満足のようなものなのですから」
「自己満足……」
「ええ。心が記憶してしまったものは、消えることがありません。だから『赦し』とは、心ではなく頭で決めることだと私は思っています。『赦したい』も『赦したくない』も、理性としての答えです。ただ、心の記憶がそれを赦さない……それが、葛藤になるのではないでしょうか」
「葛藤、か……」
透の言葉を反復し、その意味を自分に落としていく。先ほどよりも落ち着いた表情で、深く考えるように眉間に皺を寄せている。
「僕は、赦さなくてもいいっていうこと……?」
「はい。というか、どちらでもいいんです。いつか、どこかで折り合いをつけられる日がくるかもしれませんが、それもまた、お客様の自由です」
「……ははっ、自由か。――いいね、少し気持ちが楽になった気がするよ。長年抱えてきた憎しみは簡単に整理できるものじゃなくてね……こんなことで乱されたくないんだけど、僕もまだまだってことだね」
そう言うと、孝臣は気が抜けたように息を吐いた。
「本当はね、もう忘れてしまいたいんだ。この憎しみも、苦しみも。でも……」
言葉を濁し、グラスを見つめる。
「そう簡単にはいかないよね」
その言葉に、透が表情を引き締めて向き合った。
「――お客様。もしも、その『憎しみ』の感情を消せるとしたら、いかがなさいますか?」
「え? 赦すとか、そういうのじゃなくて?」
「はい。お父様へ抱いている『憎しみ』と、それに対する『苦しみ』を」
「……そんなことができるのかい?」
少しだけ、訝しげに。だけど、好奇心にかられたように、孝臣が問う。
「お客様が、望まれるのであれば。……信じられないかもしれませんが」
「信じるよ。これでもね、人を見る目はあるつもりだ。それに――君にはどこか不思議な魅力があるからね」
「ふふ。ありがとうございます。ただ、そうした場合……もしかしたらですが、それに付随する大切な記憶も無くしてしまうかもしれません。それでも、よろしければ」
「ああ。ぜひお願いするよ。大丈夫、大切な記憶にあの男はいないよ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
どこかワクワクしているような声で断言する孝臣に、透が苦笑しながらカクテルを作り始めた。
「お待たせいたしました、Confessionでございます。カクテル言葉は“告白”。――こちらを飲んでいただくことで、私への依頼が成立されます」
「素敵だね。カクテル言葉かぁ……もしかして、さっきのソルティドッグにも何か意味があった?」
「ソルティドッグのカクテル言葉は『寡黙』です。ですが、それはあくまでも代表的なものになります。私がお客様へ向けたメッセージは、『一生懸命』。来店された際の佇まいや装いから、勝手ながらイメージして作らせていただきました」
「いいね、『寡黙』よりもよっぽど僕らしい。――では、いただくね」
そう言うと、カクテルグラスを傾け、一気に流し込んだ。
「あなたの憎しみ、私がいただきますね」
――――――――
幼い頃、僕はそれなりに裕福な家の子供だったと思う。優しい父親と、そんな父親を支える母親に愛されて、平穏で幸せな生活を送っていた。
父は仕事が忙しくってあまり家に帰って来なかったけど、たまの休みにはたくさん遊んでくれた。デパートで買い物をして、屋上でパンダの乗り物に乗って。家に帰る前にレストランで食べるお子様ランチが、本当に大好きだったんだ。
――だけどいつしか、父が家にいる時間が増えて。最初は嬉しかったけど、その頃から父の機嫌が悪いことが多くなって、段々と父への恐怖心が芽生え育っていった。もちろん、デパートに行くこともなくなり、あのお子様ランチは食べられなくなった。
ただ、そんなことよりも。優しかったはずの父が母に怒鳴り、物を投げつけている姿に衝撃を受けた。子供ながらに母を助けようと思い、母の前に立って泣きながら訴えたら、逆に母に庇われてしまった。……その時の無力さったらもう、ね。
家中に響く怒鳴り声、物がぶつかる音、食器が割れる音。母が、夜に一人ですすり泣く声。そのどれもが、幼心に刻まれた。
父が帰って来なくなり、母が朝から晩まで働くようになって。僕は少しでも母の負担を減らせるように家のことを率先してやった。母が喜んでくれるから、勉強も頑張ったんだ。
中学に上がる頃には早く働きに出て母を楽にさせることばかりを考えていたけど、「大学は行った方がいい」という母からの助言を聞いて奨学金をもらいながら大学にも通った。
勉強して、バイトして……少しでも母の負担を減らしたくて、必死だった。
たまの贅沢に、って二人でレストランに行ったり、誕生日には小さなケーキを買って二人で食べたり。それなりに楽しい思い出もある。何より、どんなに大変でも母はいつも笑顔だったから。父がいない寂しさなんてほとんど感じなかった。
いろんなことがありながらも、起業した会社が思いのほか上手くいって、今では母も気ままに暮らしている。
母子二人、一生懸命生きてきてやっと訪れた平穏な日々。――なのに、今更。「病気だった」って何だよ。「病気だから仕方ない」? そんなわけあるか。こっちがどんな思いをしたと思っているんだ。
赦すなんて無理だ。四十年も抱えてきた憎しみを、そんな簡単に捨てられるわけがない。
でも……母は、本当に父を愛していたんだろう。別れた後も、父の親類と連絡を取っていたらしい。父が出て行ったのだって、母と僕をこれ以上傷つけないためだったと聞いた。父は、僕たちのことをちゃんと愛していたんだって。
――本当は僕だって、父が大好きだった。だからこそ憎かったんだ、変貌してしまった父が。僕たちを捨てた父が。
だけど、父はもういない。恨み言を伝えることもできないまま逝ってしまったんだ。あんなにも父を愛している母を置いて。本当に、どこまでも勝手な男だ。
憎しみが先立ってしまい、素直に偲ぶこともできない。
もし、この感情に折り合いがつけられるのなら。母と話したいことがたくさんあるんだ。昔のアルバムを開きながら、記憶の奥底にしまっている、あの頃のことを――
――――――――
「あれ……僕は寝てしまっていたのかな」
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「ああ、ちょっと身体が痛いくらいかな。歳は取りたくないもんだ……今、何時だい?」
「今は二十三時過ぎですね。こちら、どうぞ」
まだぼんやりしている孝臣の前に、グラスの縁にレモンを添えた炭酸水を置く。「ありがとう」と言ってそれをゆっくり飲みながら、孝臣がひと息ついた。
「――やっぱり酔っ払ってたのかなぁ。ごめんね、長く寝てしまって」
「いえ。お疲れだったんですね。気分を悪くされていないのなら、良かったです」
微笑む透に、申し訳なさそうにしていた孝臣も笑みを返す。
「ありがとう。……ところでさ、ここって何か軽食頼めたりする? お腹空いちゃって」
「はい、ございますよ。ちょうど今、うちの料理人が作っているものでよろしければ、すぐにお出しできますが」
「あ、じゃあそれを。すまないね、わがまま言ってしまって」
「とんでもございません。うちの料理は美味しいですよ」
「それは楽しみだ」
二人が笑い合っていると、裏から出てきた樹が「ハードル上げんなって言ったろ」と、透の耳元で囁きながら料理が載ったプレートを提供した。
「お待たせいたしました。こちら、よろしければお召し上がりください」
「――っ、これは……」
樹が作っていたのは、小さなハンバーグとオムレツ、エビフライにたこさんウインナー……そして、山型に盛られたケチャップライスに、手作りの旗が刺さったワンプレート料理。
「こちら、当店特製のお子様プレートでございます」
「懐かしいな……子供の頃食べていたお子様ランチが、ちょうどこんな感じだったんだよ」
プレートへと固定されている瞳は、昔を懐かしむように細められていた。
「いただきます」と手を合わせ、ケチャップライスをスプーンで掬い口に運ぶと、その瞳をキラキラとした涙の膜が覆った。
「……っふ、ぅっ……ああ、美味しい、美味しい、なぁ……」
涙を流しながら、ハンバーグを一口、オムレツを一口、とゆっくりと食べ進めていく。時に目をつむり、味をかみしめるように。何かを、思い出すように。
そして、最後の一口。二つあった内の一つを最後に残していたんだろう、たこさんウインナーをゆっくりと飲みこむと、プレートの横に置かれていたウェットティッシュで涙の痕と口を拭く。一度、大きく深呼吸すると、「ごちそうさまでした」と手を合わせて顔を上げた。
「最高に美味しかったよ。ごめんね、みっともない姿を見せて」
「いえ。大切に食べていただけて、嬉しいです」
「ああ、本当に美味しくて、幸せな料理だったよ。完璧なお子様プレートだった。最近見かける小洒落たものも美味しそうではあるけど、昔ながらのがやっぱりこう……ジーンとくるものがあるよね。この旗なんかもほんと……って、ふっ、ふふっ」
そう、嬉しそうに話す孝臣が、ケチャップライスに刺さっていた旗を手に取った途端、肩を震わせながら笑い出した。
「ねぇ、これ。食べてる時は日の丸だと思ってて、そこまで昔のを再現しているのかなって思ってたんだけど……たこさんウインナーだったんだね。お兄さんが描いたの?」
「あ、いえ。それはうちの料理人が。樹、ちょっと来て」
透に呼ばれて裏から顔を出した樹は、少しだけ気遣わしげな顔をしている。
「……すみません、何かお気に障りましたか?」
「とんでもない。すごく可愛くてね、つい笑ってしまって申し訳ない。これ、持って帰ってもいいかい?」
「え、ええ。もちろんよろしいですが……」
「ありがとう。僕ね、たこさんウインナーが大好きなんだ。お子様ランチだけじゃなくて、お弁当でも楽しみにしていた。普通のウインナーより、何だか特別感があるだろう?」
孝臣の言葉に、樹は戸惑いながらも同意した。樹にとっても、たこさんウインナーは特別なおかずだ。
「大人になるとどうしても食べる機会がなくなってしまうからね、久しぶりに食べることができてすごく嬉しかったよ」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです。ありがとうございます」
そんな二人の会話を微笑ましげに聞きながら、透はカクテルを作り始める。
ロックグラスを用意し、角砂糖を入れ、隠し味にビターズを少し。大きな氷を一つ入れてバーボンウイスキーを注ぎ、オレンジスライスとレモンスライスを一枚ずつ。最後にマラスキーノ・チェリーを載せて、マドラーとチョコレートを添えてカウンターに置いた。
「よろしければ、食後のカクテルにこちらを」
「ありがとう。……このマドラー、変わった形だね?」
「こちらのカクテルは、オールドファッションド。そちらのマドラーは、中に入っております角砂糖やフルーツを潰すための底がついてあるものになります」
「はー、そんなのもあるんだね。ちなみにこのカクテルにも意味はあるの?」
珍しそうにマドラーを見て、楽しみを隠せない笑顔で透を見上げる孝臣に、透は微笑みながら答える。
「オールドファッションドのカクテル言葉は『我が道を行く』です」
「我が道を……」
「お客様がお母様を思い、重ねた努力と積み上げてきた実績は、とても素晴らしいお客様だけの『道』だと思います。その『道中』にはきっと、様々な苦しみや辛さもあったことと……私には想像することしかできませんが。――そんなお客様に敬意をお伝えしたく、こちらのカクテルを作らせていただきました。ぜひこれからも、優しく思慮深い『我が道』を進んでください。できることなら、その温かな笑顔と一緒に」
真っ直ぐに向けられた視線と紡がれる言葉に、孝臣は目を見開く。そして、一瞬遅れて上がってくる熱に、思わず赤くなった顔を手で隠した。
「……ちょっと、旗のお兄さん」
「? はい」
「バーテンダーのお兄さんはいつもこうなの?」
「……そうですね、いつもこのような感じです」
「そっか……大丈夫? 変なお客さんついたりしない?」
「大丈夫です。人を見る目は確かなので」
そう、はっきりと言い切る樹の目もまた、真っ直ぐに孝臣へと向けられている。「君もか……」と小さく呟いた孝臣の声は、二人には届かない。
「君たちを育てた親御さんは、きっととても素敵な親御さんなんだろうね」
「はい、自慢の両親です」
苦笑しながらも眩しそうに目を細める孝臣に、透は淀みなく答える。
「うちの母も、素敵な母親だよ。息子の贔屓目かもしれないけどね」
「いえ、贔屓目抜きで、とても素敵なお母様だと思います」
「ははっ、そうだね。最高の母親だ」
心の中で日々思うことがあっても、なかなか口にすることのない母への思い。それを、透に釣られるように言葉にしてしまった気恥しさを誤魔化すようにグラスを傾けた。
「ん、ベースはバーボンの味だけど……ちょっと苦みがあるね」
「はい。ビターズという薬草酒がほんの少し入っています。ぜひ、角砂糖やフルーツを潰しながら、味の変化を楽しんでください」
酸いも甘いも噛み分けてきただろう、孝臣の人生。
父親への憎しみを忘れた“これから”は、今後どう変化していくのだろうか。
「ああ、これは面白いな」
「安心できる味と変化していく味、どちらも楽しめることがこのカクテルの醍醐味だと思っています。……できれば苦みは少ないほうがいいのかもしれませんが」
「まぁ、確かにね。だけど苦みがあるからこそ、知ることができるものもあるんだと、僕は思っているよ。苦みの後に食べるチョコレートは、また特別に美味しいしね」
「素敵なお考えですね」
ふふ、と笑い合う二人を見て、樹の顔も緩む。――笑顔が連鎖される空間は、とても温かく、居心地の良いものだ。
「ごちそうさまでした。いや、すっかり長居してしまったね」
「たくさんお話を聞かせていただいて、とても楽しかったです」
「ありがとうございます」
帰り支度をする孝臣を、透と樹がカウンターの外に出て見送る。
「今度、家でもお子様プレートを作ってみるよ。ちゃんとたこさんウインナーも作ってね」
「ぜひ。お母様もきっと喜ばれますよ」
「その時はこの旗を参考に僕も手作りさせてもらうね」
「……はい、あの、参考になればいいんですが」
自分の絵心に自信がない樹のその表情に孝臣がまたひと笑いして、扉を開けた。
「どうぞ、お気をつけて」
一度振り返り手を振ると、そのまま夜の街へと去っていく。
長年の『憎しみ』を忘れ、思い出した優しい記憶を胸に。
「ねぇいっちゃん」
「何だ」
「素敵な人だったね」
「……そうだな」
「俺の言葉、何か変なとこなかった?」
「問題ない。いつも通りだ」
「そっか」
「疲れたか?」
「んー、ちょっとだけ」
「そうか」
樹は透の頭にポンッと手を乗せ、少しだけ乱暴に搔き回すと、後片付けを始める。
「片付けが終わったら何か作るから、ちょっと座って待ってろ」
「ううん、俺も片付ける。……ねぇいっちゃん、俺もたこさんウインナー食べたいな」
「わかった。じゃあ今日は俺らもお子様プレートにするか」
「やった。じゃあ、早く片付けちゃお」
『罪』犯した者への『赦し』とは、『心』ではなく『制度』によって決められることが大半だ。
置き去りにされてしまう、心の中の『遺恨』が消えてくれることはない。
本当の『赦し』など、きっとないのだろう。だがそれに囚われない心があれば……人の生は、もっと豊かになっていくのではないだろうか――
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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