9.Gimlet―遅すぎた弁明―
「お義父さん、どういうことですか」
「ん? 何がだ?」
「何が、じゃないですよ。……透君と樹君のことを養子にしたっていうのは本当ですか」
月峯家別邸。宗介が寛いでいたところに突然やって来た昌宏が、静かに詰め寄った。
「ああ、本当だ。それがどうかしたか?」
「どうかって……身寄りのない樹君はともかく、透君は僕と芙美ちゃんの息子ですよ? それを勝手に……」
声こそ荒げてはいないが、その声には確実に苛立ちが込められている。
「透はもう立派な大人だぞ? 何でお前の了承を取らねばならん」
「それは、僕は透君の父親だから、」
「父親らしいことなんてしたことがないのにか」
「――っ!」
宗介の言葉に、昌宏が息を呑む。顔を歪め、何かを言い返そうとしたその時、二人がいるリビングの扉が勢いよく開いた。
「そうよ。透ちゃんの父親はその人で、母親は私。あなたが透ちゃんを捨てた、あの日からね」
「……お義母さん」
「昌宏さん。芙美のことは、悲しい事故だったの。透ちゃんにとっても芙美にとっても、距離を置くことは必要なことだった。……でもね、あなたはそうじゃないでしょう?」
「僕は、月峯家のことを考えて……っ」
「……そうね。月峯家の次期当主としての判断は、間違っていなかったと思うわ。芙美の夫としても。でもね、そこに透ちゃんの“父親”としての正解はなかった。その時点で、もうあなたは透ちゃんとの縁は切れてたのよ」
雅の言葉に、昌宏の目が開かれる。「でも、」と紡ごうとした声は、音にならなかった。
「まぁ、そういうことだ。そもそもあの後、透に会ったのも数えるほどだろう? 今更書類上で親子の縁が切れたって何も変わらないじゃないか」
「それは……」
「とにかく。透はもう儂らの息子だ。もう無駄にあの子に会いに行って心を乱すようなことをするんじゃないぞ」
昌宏はその言葉に返事をすることなく、「失礼します」と言って去っていった。
「まさかあんな反応をするとはのう……」
「本当にねぇ……今まで散々放っておいたのに、何でかしら」
「わからん。でもあの調子だとまた透に会いに行きかねん。念のため、連絡入れとくか」
そう言って取り出したスマートフォンで、メッセージアプリを開く。
「あ、近いうちにまた樹ちゃんと遊びに来てねって伝えてくれる?」
「おお、そうだな。次は泊まりに来いって言っておこう」
雅の提案に思わず声が弾む。結果、透へのメッセージは、昌宏に関する忠告が一文と。数行に渡る、別邸への招待文となったのだった。
*
「いっちゃん。お父様とお母様が、泊まりにおいでって」
Bar Absolutionの二階。昼食を食べ終え、樹が入れてくれたアップルティーを飲んでいた透のスマートフォンに届いた宗介からのメッセージ。その内容を樹に伝えた。
「ん? ああ、メッセージが来たのか」
「うん。近いうちにって言ってるけど、いつにしようか」
「そうだな……来週末くらいか?」
「おっけー。伝えておくね」
口元を緩めながら返信を打つ透の横顔を見ながら、樹も紅茶を飲む。ゆったりとした時間の中、返信を終えた透が「あとね」と言葉を続ける。
「昌宏様が、またこっち来るかもって」
「――ぶっ」
何でもないことのように伝えられた言葉に、思わず口に含んだ紅茶を吹き出してしまった。
「おま、っそれを先に言えよ」
「大事な要件はお泊まりの方かなって。メッセージもほとんどお泊まりのことしか書いてないし」
メッセージを打っている義父母の様子が頭に浮かんだのだろう。その言葉に、樹も脱力する。
「……そうかよ」
「困った人だよねぇ」
そう、眉を下げ笑う透は、どこか達観した表情をしていた。
「いらっしゃいませ」
同日夜、Bar Absolutionを訪れた昌宏を、透は丁寧に迎えた。
「何か、お飲みになりますか?」
「……気のせいかな。この前よりも他人行儀な気がするんだけど」
以前のような調子の良さはどこへ行ったのか。しおらしい態度で、昌宏はカウンターチェアへと腰をかける。
「何か、おまかせでお願いするよ」
「かしこまりました」
おしぼりを渡し、透がカクテルを作り始める。その様子を見つめる昌宏の表情は、呆けたような、どこか悲しそうな様子だ。
「お待たせいたしました。ギムレットでございます」
「ギムレット……随分と皮肉なカクテルだね」
「どのような意味でしょうか」
「だってギムレットって『別れ』を意味するカクテルじゃない。何? 僕とはもう他人ですよっていう、遠回しなやつ?」
その意味を当てられ、透は思わず昌宏と目を合わせた。
「カクテルに、お詳しいんですね」
「そりゃあさ、透君がバーテンダーになるって聞いた時に調べたもの」
「そう、ですか……」
「最初はバーテンダーっていう職について調べていたんだけど、そうしたらいろんなカクテルのことが出てきてね。カクテル言葉ってのを追っていったら楽しくなっちゃって」
へへ、と笑う昌宏に、透がよそゆきの笑顔で応える。
「花言葉同様、カクテル言葉も様々なものがありますからね。それで、本日のご用件は何でしょうか」
「……透君が、お義父さん達の養子になったって聞いて」
「はい、私と樹は正式にお父様とお母様の養子になりました。それが、何か?」
「何か、じゃなくて……透君は、僕と芙美ちゃんの息子でしょ?」
確かめるように、伺うように透を見つめる視線に、いつもの軽さはない。
「そうですね……五歳までは、そうだったと思います。でもその後の二十年間は、お父様……宗介様と雅様の子として育てていただきました」
「――っ、でもそれはさ、仕方のないことだったじゃない……?」
「はい。幼い私が犯してしまった、無知ゆえの事故。ですが、結果論としてはあれで良かったのだと思っています。……息子を恐れなければならないなんて、優しい芙美さんには耐えられないでしょう? 私自身もきっと耐えられなかった。だから、」
「でもそれは、芙美ちゃんと透君の話でしょ? 僕はさ、君を忘れていないんだよ?」
カウンターへと身を乗りだし、縋るように透に近づく昌宏を、裏から出てきた樹が止める。その瞳には、長年の憤りが宿っていた。
「あなたは、透の手を取らなかったでしょう」
「それは……っ、あの時はそうするしかなくて」
「……“あの時は”、ね。ですがこの二十年の間、あなたは何か行動をしましたか? 芙美さんのため、だけでなく、透のために」
ぐっ……、と悔しそうに唇を噛む昌宏に、樹の後ろから顔を出した透が「昌宏様、」と言葉をかける。
「私は今年、二十六になります。もう、幼少期を懐かしむ歳は過ぎました。まぁ、昔を懐かしむような時間がないほど、幸せな年月を過ごさせていただきましたが」
「……何が、言いたいの」
「あなたにとって私が重要ではなかったのと同じように、私の人生においてあなたは必要ありません。どうか、私に会う時間を作るくらいなら、その時間を大切な奥様と娘様に使って差し上げてください」
「その奥様が、君に会いたいと言っているとしたら?」
「では、お会いしましょう。ですが、この場所は奥様が畏怖した『罪喰い』のBarであると同時に、先代の罪喰いが事務所として使っていた場所です。あまり、弱った心には適した場所ではないでしょう。日時を指定されたら私がお伺いしますので、ぜひお父様を通じてお知らせください」
どこまでもにこやかに言い放つ透に、昌宏は了承せざるを得なかった。
「わかったよ……。近日中に、お義父さんを通して連絡するようにする」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします」
透のその言葉を聞いた昌宏が千円札を一枚置き、力無く席を立って扉へと向かう。「ありがとうございました」とカウンターの中から見送る二人を背に、静かに店を後にした。
「……会いに行くのか?」
「今後のことを考えたら、後腐れがない方がいいでしょ?」
「まぁ、そうかもな」
あまりに浅慮かつ身勝手な、昌宏の“父”としての思いは透には届かない。
多少気づいている樹は、静かな嘲りを胸に、それを言葉にはしない。
――この二十年間、誰よりも透の傍にいた樹が、その愚行を許せるはずなどないのだから。
*
そして、宗介達と約束していた週末。今日は宗介が手配した車が二人を迎えに来ていた。
顔見知りの運転手に挨拶をし二人で後部座席に乗り込むと、透が深く息を吐いた。
「いっちゃん、俺さ……」
「ああ」
「ちょっと緊張してるかも」
昌宏が来店した二日後に宗介から届いたメッセージには、別邸へと泊まりに行った際に、昌宏と芙美に会ってほしいという旨が書かれていたのだ。つまり、今日がその日になる。
「そうか」
「うん……昌宏様はさ、何ていうか本当に大丈夫なんだけど。芙美さんにはずっと会ってないから」
「ああ」
「親子としての情とかそういうのじゃなくて……何か、」
上手く言葉にできず言い淀む透の頬を、樹が優しく摘み「大丈夫だ」と宥める。
「俺が隣にいる」
「うん」
「お父様とお母様もいるだろ」
宗介と雅としては娘の芙美のことも気がかりだろうに、メッセージには透を気遣う言葉しか並べられていなかった。その文面を思い出し、思わず笑みがこぼれた。
「うん、そうだね」
「話してる間、手、握ってるか?」
「ふふ。それはさすがにちょっと恥ずかしいかも。……でも、どうしても駄目だったら、お願いしてもいい?」
「ああ。いつでも言ってくれ」
少し緊張が解れたように背もたれへと背中を預けると、目を閉じる。
「ありがとう、いっちゃん」
「ああ」
車に揺られること、二時間と少し。
到着した月峯家の別邸前には、宗介と雅、そして家令の榊原が二人を出迎えていた。
「――お疲れ様でございました」
「阿部さん、ありがとうございました」
ドアを開けてもらい、礼を言って車から降りると、雅が駆け寄ってくる。
「透ちゃん、樹ちゃん、お帰りなさい」
「お母様、ただいま帰りました」
「帰りました」
「やだ、かたいわね〜。まぁいいわ、疲れたでしょう? 早く中に入りましょう」
両手を広げ二人を抱きしめ、いそいそと家の中へと誘導する。だが、そんな三人の前に宗介が仁王立ちで立ち塞がった。
「ちょっと待たんか、ばあさんや。儂にも挨拶くらいさせてくれ」
「あら、そんなの中に入ってからでもいいでしょ? せっかちねぇ」
「何のために出迎えたと思っているんだ! 儂にもハグさせないかっ」
そう言うと透と樹に向き合い、雅と同じように手を広げた。
「二人とも、よく帰ったな。ほら、父さんにもハグをしておくれ」
「ふふ。お父様、ただいま帰りました」
「帰りました」
懐に二人を収め、満足そうに笑う。しかし、その笑顔はすぐに心配そうな表情に変わった。
「透、大丈夫か?」
「――ええ、大丈夫です。ありがとうございます、たくさん気遣っていただいて」
「儂らは、隣の部屋におる。でも何かあったら駆けつけるからな。すぐに呼ぶんだぞ?」
「はい。ありがとうございます」
今日、昌宏と芙美との対話に、宗介と雅は立ち会わない。
本当は樹の同席にも昌宏は渋っていたが、そこは宗介が頑として譲らなかったのだ。
「透様、樹様、お帰りなさいませ」
「じぃ、ただいま」
「ただいま、です」
柔らかな笑顔で迎えてくれる家令に、二人も笑顔で返す。
「――芙美様と昌宏様がお待ちです。ご案内いたしますね」
家令は、基本的に表情を崩さないように教育されている。それ故に透は、幼い頃から榊原の凛とした姿か優しい笑顔しか見たことがなかった。
だけど今は、いつも通りの表情の中に、はっきりと気遣わしげな色が見える。
「ありがとう、じぃ」
だから、あえて。目を細め、「大丈夫だよ」と言外に伝えるように微笑んだ。
その透の表情に、榊原は驚いたように一度だけ瞬きをし、前を向いて邸内へと歩き出す。そこにはもう、幼子を心配する“じぃ”の姿はなかった。
コンコンッ
「透様と樹様が到着されました」
「……どうぞ、入って」
室内からの応答を聞き、扉を開けた榊原の横を通り、「失礼いたします」と足を踏み入れる。
「やぁ、透君、樹君。どうぞ、座って」
「失礼いたします」
応接室の一人掛けソファに座った昌宏が二人に声をかけ、促されるままにその対面にある三人掛けソファに腰を下ろした。
その時、昌宏の隣に並ぶ一人掛けソファに座っていた芙美と目が合う。
「こんにちは、お久しぶりね。いつの間にかすっかり大人になって」
「ご無沙汰しております」
和やかに笑いながら声をかけてくる芙美に、透も笑顔を見せる。二人に向けられる芙美の表情は、昔と変わらない。“縁戚の子供”を見る優しい大人のものだ。
「それで、今日は何かあるの? 何故あなた達がここに?」
「今日はね、この子達が別邸にお泊まりに来るって聞いて、僕が会いたいってお願いしたんだ」
「あら、そうなの? お父様達と仲がいいのね」
昌宏の言葉に驚いたように口に手をやる芙美は、養子縁組のことを聞かされていないのだろう。また、昌宏が言っていたような“何か”を思い出そうとしている様子も感じられない。
昌宏が、何を考えているのか。それがわからない限り、透達が言葉を発することはない。透は笑顔を貼り付け、樹はただ真っ直ぐに、目の前の二人が交わす会話を聞いているだけだった。
「――でね、この前この子達が、お義父様とお義母様の養子になったんだよ」
だが、何の前触れもなく芙美へと明かされたその言葉には、二人揃って瞠目してしまった。
「え!? そうなの!?」
「そうそう。僕もつい先日知ったばっかりなんだけどね」
「知らなかったわ……。でも、どうして? あなた達のご両親はどうしてるの?」
何も含みがない、純粋な質問。その隣では昌宏が透の反応を伺っている。――まるで、何かを“確認”するかのように。
「僕にも樹にも、両親はいません。樹は生まれてすぐに。僕は、五歳の時に失いました。それからずっと、宗介様と雅様に育てていただいたんです」
「そうだったのね……ごめんなさいね、何も知らずにいて」
「いえ。同じ敷地内とは言え、僕達がお世話になっていた別邸と、芙美様が暮らしている本邸では距離がありますので」
昌宏の視線を受けながら、透は笑みを崩すことなく芙美からの問いに答えた。その様子に、昌宏が「何で?」と呟く。
「昌宏さん、どうしたの?」
「え、いや。……どうして、そんな風に言えるのかなって」
「……どういう意味でしょうか」
「何でそんなに笑顔で話せるの? 両親がいなくなって、悲しくないの? 寂しくないの?」
「ちょっと、昌宏さん……っ」
突然、透に詰め寄るように質問を重ねる昌宏の様子に、芙美が困惑しながらも止めるように腕を引き寄せる。一度浮かせた腰を下ろし、透を見つめる目は、酷く悲しそうに潤んでいた。
「何で、と言われましても……僕には、僕を愛してくれる家族がいましたので」
「家族……?」
「ええ。樹と、宗介様、雅様。じぃ……榊原さんも、僕の大切な家族です」
「両親は、家族じゃないの?」
「……僕を生んでくれたことには、感謝をしています。ですが五歳までの記憶だけでは、家族とは思えません」
淡々と話す透と、何かを懇願するような昌宏の様子は両極端で、どこか異様な空気が室内に流れる。その空気の中、樹が芙美へと目を向け、初めて口を開いた。
「ひとつ、質問しても良いでしょうか」
「あら、何かしら」
「最近、いきなり頭が痛くなったり、どこか記憶が混乱することはありましたか?」
「――っ!」
「いいえ、そんなことはないわ。至って健康よ。何故かしら?」
「……いえ。申し訳ありませんが、そろそろお暇させていただきます」
そう言うと同時に透の腕を掴み、自分と一緒に立たせると、「え!?」と驚く昌宏の声を無視し、一礼して応接室を後にした。
「樹……?」
状況が把握しきれていない透の声に応える前に、外で控えていた榊原に声を掛け、宗介達が待つ隣室のリビングへと向かう。そして、榊原がノックをすると同時に勢いよく扉を開けた。
応接室へと向かう二人を見送ってから、まだ十数分しか経っていない上に、いつも礼儀正しい樹の無作法。また、そこに浮かんでいる表情に、室内にいた宗介と雅は何が起きたのかわからずに目を見開いたまま固まっている。
「――お父様」
「お、おお。どうした? もう話は終わったのか?」
「お父様は、芙美様の“発作”を直接見たことはありますか?」
戸惑う宗介の問いに被せるように、樹が尋ねる。
「いや、見たことはないな。昌宏に聞かされただけだ。いたずらに心を揺さぶるのも良くないからと、芙美にも何も言わないよう釘を刺されていたしのぅ」
「そうですか……」
「何かあったのか? 何か、言われたか?」
宗介の心配そうな声色に目を向けると、そこには自分に向けられた気遣うような二人の視線。腕を掴んだままだった透の瞳も、同じく自分を見ていて、樹がハッと我に返った。
「あ、すみません、こんな……透も、すまん。痛くなかったか?」
掴んでいた手を離し、その部分を労るように擦る。自分でも気づかないほどに頭に血がのぼっていたようだ、と一度深呼吸をし、心を落ち着けた。
「俺は大丈夫。いっちゃんは、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。……お父様、お母様、失礼な真似をして、申し訳ございませんでした」
「いやいや、何も謝ることなんてないぞ。いつもがかたすぎるからな、何ならあれくらい気負わない方がいいかもしれん」
「ええ、そうね。そもそも、リビングに入るのにノックなんていらないのよ?」
いつも通りの軽い口調で話をしてくれる両親の温かさにホッとする。
冷静になり、先ほどの対話で気づいたことを樹が口にしようとした――その時、リビングの扉が乱暴に開けられた。
「樹君! ひどいじゃないか、いきなり透君を連れて行ってしまうなんて――あ、お義父さん、お義母さん……こちらにいらしたんですね」
二人を追いかけてきた昌宏が、宗介達の姿を見て取り繕うように笑顔を作った。だが、いつもとは違った樹の様子と今の昌宏を見れば、何かがあったと察するのは容易なことだった。
「なぁ、樹よ」
「はい」
「何があったか聞かせてくれるか?」
「はい」
「ばあさんは芙美の様子を見てきてくれ」
「わかったわ」
雅が出て行くと、樹が透を雅が座っていた場所――宗介の隣に座らせ、その後ろに自分が立つ。
そして、宗介と樹から感じる、自分に向けられた視線に観念したように、昌宏が向かいのソファに腰を下ろした。
「そんな怖い顔をしないでよ、樹君」
「昌宏様……芙美様の“発作”は、嘘ですね?」
「――え!?」
「――なっ!?」
唐突に本題を切り出した樹の言葉に、透と宗介が驚愕の声を上げる。一方で昌宏は、考えが読めない表情で樹を見つめていた。
「……何で、そう思ったの?」
「最初から、何か変だなって思ってたんです。俺は、先代の罪喰い達が残した手記をすべて読みました。そこに、『記憶が戻った』という事例はひとつもありません」
「どんな事例にも、“第一号”がいると思うけど」
「そもそも、罪喰いは“記憶に蓋をする”という暗示とは違う。文字通り“罪を喰う”ことで忘れさせるんです。“喰って”しまったものが戻るというのは……おかしいじゃないですか」
何も言わない昌宏に、樹が続ける。
「でも、今日芙美様にお会いしてわかりました。芙美様の心に、不安定な様子は見当たらなかった。実際、“発作”なんて起きていないようですしね」
「そっか~……やっぱり、君の同席は失敗だったね」
力を抜いて前のめりに俯くと、手のひらで自分の顔を覆いながら昌宏が言う。その声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。
「……どうして、そんな嘘を?」
「君と、もう一度『家族』に戻りたかったからだよ」
「え……」
透の問いに、昌宏が顔を上げて答えた。向けられているのは笑顔。だが、どこか歪にも見えるその顔に、悪寒が走る。
「僕はね、ずっと君を見守っていたんだよ? 芙美ちゃんのことがあったから直接会うことは難しかったけどね。――君が大泣きした時は可哀想で仕方がなかった。だけど、樹君と一緒にいる時の君は、いつだって素直に甘えて……何でそこにいるのが僕じゃないんだろうって寂しくなった。それでも、感情をあまり見せなくなった君を見ると、心では僕達を恋しがっているんだろうと思えて、愛おしくて仕方がなかった」
過去を思い出しながら恍惚とした様子で話す昌宏から目を離さないように、樹は透の横へと移動した。守るように差し出された腕を、透がキュッと握ったその時、「なのに、何で?」と呟いた昌宏の形相が変わった。
「何で、そんなに平気そうなの? 何でお義父さんの養子になってるの? 僕たちは正真正銘、血の繋がった家族じゃないか……っ」
肩で息をしながら身勝手なことを話す昌宏に、樹が反論をしようとした時、透の隣に座っていた宗介が勢いよく立ち上がった。
「何を馬鹿なことばっかり言っとるんじゃ!この大馬鹿者が!!!!!」
樹は思わずビクッとなりながらも、同じように驚いている透の方に手を乗せる。
「黙って聞いていれば……っ、お前には『家族』を名乗る資格なんてないわ! 話にならん! 榊原っ」
「お呼びでしょうか」
「こやつを玄関の外に放り出してくれ。今は顔も見たくないわ」
「かしこまりました。……昌宏様、こちらに」
「いやだ、透君とまだ話が終わってない……っ」
――芙美のことは、昌宏の作り話だった。しかし、榊原に促されながらもまだ透へと手を伸ばす昌宏の様子こそ、“不安定”と言わざるを得ないだろう。
「昌宏様。僕の気持ちは、あの日ギムレットをお作りした時から変わりません。……遅すぎたんです、あなたの愛を知るのが」
「一度頭を冷やせ。そうじゃないと、かすかに残っている縁すらも切れてしまうぞ」
「――っ」
宗介の言葉に、自らの言葉を呑み込む昌宏の背後。榊原によって開けられた扉の先に、心配そうな顔をした芙美が立っていた。
「昌宏さん」
「芙美ちゃん……」
「今日は帰りましょう? 話なら私が聞くわ。――私にとっても、大事な話でしょう?」
そう言うと、室内にいる三人に目を向ける。
「お父様、お騒がせして申し訳ございません。……お二人も、ごめんなさいね。またゆっくり、お話させてもらえたら嬉しいわ」
「はい、ぜひまた」
透の返事に微笑み、一度会釈をすると昌宏の背中を押して去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、透は記憶の中の芙美と照らし合わせる。
――あの頃は、まだ二十代前半で今の自分よりも若かった。おぼろげに残っている姿は、子供の目線から見てもおっとりとした“お嬢様”だったように思う。でも、今は。
「……芙美さんは、僕が思うよりも強い人なのかも」
思わず呟いた透の言葉に、芙美と一緒に戻っていた雅が「私たちの娘ですもの」と笑った。
「それより、透ちゃん大丈夫? 大きな声が聞こえてきたけど……昌宏さんはどうしちゃったのかしらね」
「あいつはちょっと、拗らせてしまっておるな」
誰が見ても、昌宏の言動は異常だった。透への歪んだ執着は、きっと離れて暮らしていたことが要因だろう。
「昌宏様は、僕を見捨てたわけじゃなかったのかな」
「いや、見捨てただろ。どんな感情があったって、その事実は変わらねぇよ」
樹の、歯に衣着せぬ言い方に思わず笑ってしまう。
透が、血縁上の父親が見せた激情に驚き、困惑したのは一瞬だけだった。自分を守ってくれる頼もしい腕と、自分のために声を張り上げてくれる力強い声。気遣いながらも空気を軽くしてくれる優しい笑顔に、すっかりと安心しきっていた。
「さ、気を取り直して。今日はお泊まりですからね、パーティしましょう。パーッと騒いで、夜更かししちゃいましょう!」
「ふふ、いいですね。お酒作りは任せてください」
「あら、楽しみだわ」
そんな、楽しそうに話す二人の後ろには、こそこそと話す二人がいた。
「ばあさん、最近は21時には寝てるんだが……夜更かしできるんだろうか」
「僕たちは普段から夜型なので……お母様に負担をかけないように、適当なところで切り上げましょうか」
その夜は、月峯家料理人と樹が腕をふるった料理が並び、透が作るカクテルと共に楽しそうな笑い声が響いた。――途中、何度か眠気に襲われながらも、寝るまいと頑張っていた雅が眠りについた、23時頃まで。
表面だけを取り繕い、自分のために誰かを欺く愚行の先に、光などはない。
それでも、人は『嘘』をついてしまう。
求めてやまない、“何か”を手にするために。
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