第7話「最初の約束」
それから数週間がたった、8月下旬のことだった。
俺は最近明らかに運動不足になっていた。
在宅勤務なので多少は仕方がないが、日常的に外に出る用事なんてコンビニに行くくらいのものである。
久しぶりに駅の階段を駆け上がっただけで息がきれて、流石にまずいと思った。
腹の肉も少しつまめる。正確には、つまめるような気がする。確かめるのはやめておこう。未確定情報で一喜一憂するのは考察するものとして正しくないからね。
クローゼットに以前使っていたランニングシューズがあったはずだ。
取り出したシューズを見ると、ほとんど汚れていなかった。フリマサイトで余裕でランクAで売れるレベルだ。そりゃあ2日しか走ってないからね…
「ちょっと走るか…」
別に人生を変えようということではない。
健康のために走る、ただそれだけだ。
ちなみにノートを取り返す方法は何一つ思いついていない。
ただ莉央はまだ「ノート晒しちゃうよ〜」みたいな脅しはしてこない。そこは少し安心だ。
外に出るとまだ少し明るく、気温もちょうどいい。
靴紐を結んでいると、上から声が降ってきた。
「ねー」
隣の家の2階。いつもの位置。
莉央は窓枠に頬杖をついてこっちを見下ろしていた。
窓は夕日に照らされて、こちらから見ると少し眩しい。
「なにしてんの?」
「ランニング」
「あっ」
俺にとって、一番嫌な顔をした。
つまるところ、ものすごく楽しそうにニヤニヤした。
「人生再建するの?」
「ちがっ…」
「Day first?」
「ただ走るだけだから!」
「ふーん、今度は何日?」
「今回は続けます」
「ほんとに?w」
「ほんとに」
「前もそう思ってたんでしょ?」
それを言われると俺も弱い。だが前続かなかったから、今回続かないなんて保証はないじゃないか。
一方自分の性格を考えると、もしかしたら続かないかもな、とも薄々勘づいてはいた。
「じゃあさ、Day 4見せてよ」
「…Day 4?」
「うん、前なかったじゃん」
「今回は人生再建プログラムじゃないから」
「でも続けるんでしょ?じゃあ4日」
「ずいぶんハードル低いな」
「おにいさんには高いでしょ」
「…4日やったら、ノート返す?」
「返さない」
「即答すぎるでしょ」
「でも、4日分は埋まるね」
「たった4日じゃん」
「前は3日だったけどね」
「うるさい」
莉央はこちらの顔を伺うようにじっと見て、少しだけ黙った。
頬杖をやめると、窓枠に両手で身を乗り出してくる。
「約束する?」
…俺も舐められたものだ。
いいだろう俺も男だ、ここは少しカッコいいところを見せてやろうじゃないか。
というかここまで煽られてやめるのもダサい。
「…いいよ」
「じゃ、決まり」
ストレッチもそこそこに、俺は玄関から道路の方へ向かう。
「あ、待って。走ったら毎日報告して」
「なんで」
「じゃないとノートに書けないし、あとほんとに走ったかわからないじゃん」
「信用なさすぎない?」
「人生再建してから言ってね♡」
言い返せない。
たかが走らなかっただけじゃないか、とも思う。でもそのたかがが俺はできていなかったんだ。
結局のところ実績だ、実績がないとこうしていつまでも馬鹿にされてしまう。
「…わかったよ!」
「じゃあ報告ね、ちょっと待って」
莉央が一瞬窓から消えてまた現れた。
「連絡先、QR出すから読んで」
スマホを出しかけて一瞬躊躇った。
「いや、それは…」
「なに」
「大人が近所の子とそういうのは、なんか…」
「うわっ、意識してる。キモ〜w」
「そういう意味じゃない!」
「じゃあママ経由でもいいよ?」
「それはもっと嫌だ」
うちの母親と莉央の母親は仲がいい。ちょっとありえそうで嫌だ。
成人男性がママ経由で情報伝達される方が情けない。
「そもそもこの距離じゃQR読めないでしょ」
「がんばれ〜」
「頑張る問題じゃないからね?」
「…ちょっと待ってて」
窓がばたんと閉まった。
少しして、隣の家の玄関が開く。
サイズのあっていないサンダルをパタパタとならして、莉央が出てきた。
莉央が俺を見上げてくる。
「はい、わざわざ降りたんだけど」
「…ありがとう?」
こうして同じところに立っていると、莉央は思ったより小さく見えた。
なにか釈然としないものの、LINEを交換する。
「はあ…親御さんには言っといてね」
「うわっ、まじめ〜」
莉央は両手でスマホを操作していて、すぐに俺の画面に莉央からの通知が来た。
よくわからないキャラのスタンプだ。俺はそっといいねマークを返しておいた。
「Day 4 楽しみ〜」
莉央が両手でスマホを抱えながらぴょんぴょんと跳ねる。
「絶対見せてやるよ」
言ってしまった以上はやるしかないか。
「…行ってくるね」
「いってらっしゃ〜い」
走り出して数歩して、莉央の声が後ろから届く。
「Day first頑張ってね〜」
「1日目って言え!」
走り出して3分で、心臓はバクバクしていた。
呼吸の仕方はもう忘れている。汗が滲む感覚も久しぶりだ。
学生のときは5kmくらい余裕だったのにな…
初日から飛ばしすぎるのもよくないか。
そんな言い訳が浮かんで、足が止まりかける。
あいつのニヤニヤした顔が浮かんだ。
いつからだろう。
自分との約束を破って、負けて、負けて、負けても気にならなくなったのは。
『女にモテなくても人生は楽しめる』
…自分の言葉だ。
まあ、難しいことはどうでもいい。
今は、負けたくない。何にかは、わからないけど。
気づけば、周りの景色はより速く通り過ぎていった。
その夜、俺は莉央に報告をすることにした。
『走ったよ』
すぐ莉央から返事が返ってくる。
『何分?』
『10分』
『みじか』
『初日なんだからいいだろ』
『まあ、Day firstだからね』
『それ気に入りすぎだろ』
『じゃ、明日も忘れずにね〜』
これが莉央との最初の約束だった。
…決めた。
ノートを力ずくで取り返したって、負けたままだ。
いつかあいつに「負けました」と言わせる。
そしてノートを取り返す。
それこそが、俺の完全な勝利だ。




