第8話「交渉」
莉央があのノートに何を書き込んでいるのかは知らない。
内容はもう覚えられているらしいし、写真も撮られているかもしれない。
まあ、そこは今更問題じゃない。
あのノートが莉央の手元にあること、それがすなわち負けの象徴である。
どうしたらノートを返してもらえるのか。
莉央が1回負けたからという理由でノートを返すとは思えない。
1枚ずつならどうだ?
あのノートはルーズリーフだ。計画書の部分は5枚分。ノートまるごとは無理でも、あの5枚なら取り返せるんじゃないか?
現状を整理しよう。考察する上で情報の整理は基本だ。
まず莉央が言ったルール。ノートが全部埋まったら返却。白紙が埋まるまでは時間がかかりすぎる、現実的でない。
そこで俺の追加するルール。何かで勝負して、俺が勝ったら1枚返してもらう。
そして最終目標は莉央に「負けました」と言わせることだ。5枚奪還はその前哨戦としよう
――完璧だ。
問題は、俺がまだ一度も莉央に勝っていないことくらいか。
よし、この作戦で行くか。
翌日は筋肉痛だった。階段を降りるときに手すりに体重をかける。
前に続けようとしたときも、『筋肉痛のときは走るな!超回復を待て!』とネットで見て、歩きに切り替えた。
超回復。いい言葉だ。筋肉は休んでいる時に育つ。すなわち休息もトレーニングというわけだ。
そんなわけで俺は今に至るまでトレーニング期間を延長している。
今日は大人しく休んでおくか。
そう決めようとすると脳内であの声が聞こえる。
『前は3日だったけどね』
…一旦Xでもやるか。
ネットの男女論に口出ししようとして手が止まる。そうだこのアカウント莉央に見られてるんだ。なかなかやりづらくなった。
文面を変える。
『ランニング2日目。全身筋肉痛だけど走ろうかな』
そうポストしてみると、思ったよりはいける気がした。
1分くらいで通知が鳴る。
『継続しようとして偉いね!』
『やさしい応援アカ』だ。今日もリプをくれた。
こんなしがないアカウントにリプをくれるなんて、中の人はどんな聖人なんだろう。からかってばかりの莉央にも見習ってほしいものだ。
「…走るか」
外に出ると、2階の窓から莉央が顔を出していた。
莉央が窓から手を出して、指で空中に何かを描く。
人差し指で、ゆっくり3画。
「△」
『ランニング:△。筋肉痛だった』
2日目のノートを思い出す。
今日は負けるわけにはいかない。俺は2日目をはじめた。
走った後、すぐに莉央に報告した。
『走ったよ』
『ほんとに走ったんだ』
『やると決めた日はやる男だから』
『前も言ってたねそれ』
『ノート返してくれる?』
『え、返さないけど』
即答。想定済みだ。
『じゃあこうしない?なにかで勝負して、俺が勝ったらノートを1枚返して』
返信まで少し間があった。
『じゃあおにいさんが負けたら、なんで負けたのかちゃんと報告してね』
そうきたか。少し屈辱だが問題ない。まずは5枚戻ってくればいい。
『わかった』
『いまさら1枚返ってきても意味ある?』
これだから中学生は…わかってないな、あのノートを取り返すと言う行為そのものが重要なんだよ。物理的に返ってくることは重要じゃない。
『返ってくると言うこと自体に意味があるの』
『ふーん』
興味がなさそうな返事だ。
『じゃあはじめての勝負は今日やってあげる。感謝してね?』
『はいはい』
『ありがとうございますは?』
こいつ…
だが耐えろ。ノートを取り返したら存分に煽ってやる。
『ありがとうございます』
『よろしい。今日はゲームでいいでしょ?』
『いいよ』
『フレンドID送った』
莉央からフレンドIDが送られてくる。俺はリビングに降りてゲームを立ち上げる。
1分と経たないうちに、莉央からLINEが送られてくる。
『はやく』
『急かすな』
『どうせ筋肉痛で指も動かないでしょ笑』
『指は関係ないだろ』
IDを入れると、莉央のプロフィールが出てきた。
ユーザーネーム「RioRio」、昨日も見た謎のキャラのアイコン、
そしてプレイ時間592時間。
こいつ…どんだけこのゲームやってるんだよ。
『たまににしてはやりこみすぎでしょ』
『うっさい』
やりこんでいる自覚はあるようだ。
今度は油断しない。最初から本気でいく。
前と同じように弱攻撃を細かく刻んでくる。
前回は初見だった。だがもう手の内はわかっている。このゲームは情報戦だ。
ここでようやく俺の長年の考察で鍛えた洞察力が発揮される。
ゲージもたまった。あとは決めどころで――
ビシッ、ビシッ
決めどころで――
ビシビシ、キーン
KO。
ゲージは満タンのままだった。
あれ?こいつ前より強くなってない?
KOの表示が出た瞬間、莉央からLINEがくる。
『勝った〜はい報告』
そうか負けたら敗因を報告するんだった。
『…筋肉痛で』
『指は関係ないって言ってたよね?』
『ほかには?』
『必殺技の使いどころを見失いました』
『正直でえらい笑 じゃあ書いとくね』
莉央からノートの写真が送られてくる。
『敗因:筋肉痛(指)必殺技使えず』と追記されていた。
取り返すはずの黒歴史が、少しだけ増えた。
『あ、今日のランニングは記録しといたから』
『ランニング10分、丸ね』
代わりに、白紙は少し減った。




