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5 神経戦


 翌日、俺はマスクをして出所した。季節で言うと5月のゴールデンウイークが過ぎた頃。花粉も落ち着いて、マスクをする人は少なくなってきたが、チラホラとはいる。

 コロナ以降、風邪や花粉症でない人でも、マスクを着けて電車に乗っているけど、鬱陶しくはないのかね。俺はアレルギー性鼻炎で外出時にはマスクを着用するけど、息苦しいのなんのって、ありゃしない。酸欠状態の金魚と同じで、口をパクパクさせながら息をしているから、苦しいのなんの。


 話しついでに言うけど、耳鼻科に行くのは何時も寒い冬なんだけど、内服薬がどうも二月ちょっとしか持たないのね。それで1月から飲むと3月の下旬頃には効能が切れて、4月の中旬まで鼻が詰まって、口呼吸の生活なんだ。本当辛いわ。症状が風邪と同じで鼻づまり、倦怠感、微熱なもんで、風邪薬を飲むと改善するんだね症状が。蛇足でした。



 事務所はF市にあり、行政書士が5名、事務員が2名の中堅事務所です。

「おはようございます」

 俺がマスクを取り挨拶をすると、事務員の先輩所員の藤さんが、

「どうしたの、肇ちゃん。顔が赤いよ」


「え、何でもないです」

「何でもない訳、ないじゃない。どうしたのよ」


「本当、何でもないですから」

「ははーん。新婚さんだからだ」


「え。何、言っているんですか。変な事言わないでくださいよ」

「若い時はそう言うものだから、大丈夫」


「何が『大丈夫』ですか?」

「それは決まってるじゃない、アレよ」


「藤君。田中君は新人なんだから、余りからかうもんじゃないよ」

 所長の内山さんが横から声を掛けて、藤さんが俺をからかっているのが分かった。これだから中年の女性は・・・ 失礼。限定的に断定してはいけないんだよね。


 俺をからかったのは藤さんと言って、30代の事務員さん。子供さんが中学生になって手が離れたので勤めに出たそうで、5年になると言っていた。デスクは俺の隣だ。そして声を掛けてくれた所長は、山本巌さん。この事務所の代表者で、60代。ここに事務所を開いて20年になるそうだ。顧客も様々で、電設会社や建設会社の法務顧問をしたり、税理士事務所の下請けもしている。勿論俺が担当している不動産会社もいる。


 何で俺がここに務めているのか? 俺が商事会社を辞めた事は話したよね。その時の顧客の中にエステート、不動産屋がいて、その社長に紹介してもらい、入所した訳です。

 最初は初めて聞く言葉だらけで、何の仕事なのか全く分からなかったので、唯々先輩から言われるままに仕事をしてきたんだ。最近になって漸く、業務内容が呑み込めたような気がする。


 一応行政書士見習いとして、先輩に付いて仕事を覚え、数年内に試験を受けて、資格取得する予定だと所長は言っていたな、良く分からんけど。


「それで、どうしたのよ」

 俺にお茶を出しながら、藤さんが又、聞いてきた。五月蝿(うるせ)いと思いながらも、無視する訳にはいかないので、斯(か)く斯(か)く然々(しかじか)でと、昨日の女房との経緯を話すと、身を乗り出して聞いて、「うんうん」と相槌を打つんだ。

 この話しも尾ひれがついて広がるんだろうな・・・


 その間にも先輩方が事務所に出所してくる。俺のデスクの対面に斎藤さんと言う先輩が座った。この人は俺の指導係で、色々面倒をみてもらっているから、頭が上がらないんだが、早速きたよ。


「面白い話しかい、藤ちゃん」

「そうなのよ、聞いてくれる。この子の話し」

 そう言いながら、藤さんは有る事無い事、面白可笑しく話すもんだから、俺も聞き耳を立てて聞き入ってしまった。こういう人の事を“ストーリーテラー”って言うんだね。


「田中ちゃん。お前は女に甘いんだよ。女なんて初めが肝心なんだぜ。初めっから頭を押さえつけてやれば、後は男の言うなりさ。今度俺がその極意を教えてやるよ」

「はあ。宜しくお願いします」

 口では勇ましい事を言っているけど、この人一度奥さんと喧嘩して実家に帰られた事があった、と藤さんから聞いたんだけど。


「女は甘やかしたら付け上がるから、用心しな」

「良く言うわよねえ」

 そう言いながら藤さんが俺に相槌を求めてきた。何と返すべきなのか? 世間話でこれほど神経を使うか?


「それより、斎藤さん。今日の仕事教えてくださいよ」

「あいよ」

 そう言うと、斎藤さんは俺に分厚いバインダーを手渡してきた。見ると登記簿謄本や公図、求積図や平面図といった図面などが織り込まれた書類だ。


「これ、この間言っていた転用申請ですか?」

「そうだよ。相手方が土地を売却しても良いって、言ったらしいよ」


「そうなんですね。それで?」

「多分だけど、エステートを介して打ち合わせになるよ」


「了解です」

 俺は仕事の話しを振ることによって矛先を変え、何とか藤さんの魔の手から逃れたのだ。


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