第10話 化け物になりたくない化け物
蒼生にとって、千尋は酸素だ。空気のようにいるのが自然で、ないと死んでしまう酸素。
蒼生はそれを胸いっぱい吸い込むように、お湯に流されて薄れてしまった千尋のにおいをかいだ。
蒼生は日中厨房から千尋が接客する姿を眺めながら、胸の奥が熱くなるのを感じたことを思い出す。千尋が輝いている。千尋のスイーツが、客たちを喜ばしている。
そんな時の千尋は、本当に素敵だ。
その無邪気な明るさが、愛おしくて、愛おしくて、
同時に、蒼生の心を抉る。
『それは、私だけのものじゃなくてもいい。』
……そう思おうと、必死で自分に言い聞かせていた。だけど、千尋はこの世界に来てからというもの、定期的に人質事件に巻き込まれるようになった。
自分じゃない誰かが、短時間とはいえ、千尋を閉じ込めて、長時間一緒にいるのだ。自分だって、閉じ込められるものなら閉じ込めてしまいたいのに。
表では千尋を心配する妹で親友の顔をしながら、裏では千尋につけられた他の人間の臭いに吐き気がしている。
千尋が出かけている間は、定期的に千尋が身に着けていたエプロンの臭いを裏でかぎながら、自分を抑えている。
前よりひどくなったと、自分でもそう思う。
千尋の臭いに囲まれていないと落ち着かないのだ。
だから一緒にお風呂に入って、そいつらの臭いを洗い流して、千尋だけの臭いにする。自分が抱き着いて一緒に眠ることで、自分の香りをまとわせた、千尋の臭いに。
それでも足りない。怒りが体を震わせてきて、眠りにつくことが出来ない。
「ひどくなってる……。でも、千尋の臭いが他の誰かに汚されるのが耐えられない。私だけのものじゃ、なくなっちゃうみたいで……。」
一人自嘲するようにそう呟いた。
死ぬことで手放してあげようと思ったのに、千尋が追いかけて来たから。
「千尋……助けて……私、化け物になりたくない。千尋に……嫌われたくないよ……。」
蒼生は恐怖に震えながら涙をこぼした。
蒼生はもう、千尋を手放せなくなってしまった。
本気になったら。全力を出したら。化け物になってしまうことはわかっていたのに。
同じだけの気持ちが欲しい。
それは不可能だとわかっているからこそ、本気で求めないようにしてきていたのに。
まるで蒼生しかいらないかのように、千尋から手を伸ばされた瞬間、このまま死んで永遠にしたいとすら思った。
ここは異世界だ。人間が吸血鬼になる方法なんかもあるかも知れない。
もしも千尋を吸血鬼に出来て、蒼生の血でしか生きながらえることが出来なくなったら。
千尋は蒼生だけを求めてくれるだろうか。
それとも、二人して不死になって永遠を生きて。
どれだけの人と知り合おうとも、誰も彼もが先に死んでしまって。
蒼生以外そばにいられないことが分かれば、千尋は自分だけを頼ってくれるだろうか。
それとも、手足をもいで、蒼生にしか世話が出来ず、蒼生がいなければ生きられない体にしてしまえばどうだろうか。
自分がいないと生きられないようにしてやりたい。
心が無理なら、せめて体だけでも。
そう思いながらも、そのままの千尋を愛している自分がいる。
千尋を誰とも分かち合いたくない。
でも、そんな自分を千尋が嫌がって、離れて行ってしまうかもしれないと思うと怖い。
そうなった場合、現実の自分には、千尋が自分から離れて行くことを、止める手段がない。
千尋の笑顔が曇らぬように。それを守ってやりたい自分。
蒼生のことで傷付くように。それを壊してやりたい自分。
傷をつけるのも癒すのも、自分だけでありたい。
それが御堂蒼生という化け物なのだった。
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その頃、千尋たちの前世の職場である高級レストラン「ガストロノミー・ルシェル」の近くでは、静かな異変が起きていた。フロアマネージャーの彼は、今日も制服に身を包み、客席を丁寧に回っていた。
御堂蒼生に結婚前提の告白をして振られたあの日から、数ヶ月が経っていた。
やめていなくなってしまうという彼女をどうしても引き止めたかった。
つながりを保ちたかった。自分が本気であることを伝えたかった。だが、彼女は永遠に手が届かなくなってしまった。
あの夜、蒼生と高倉千尋が二人揃って事故に遭い、葬式に出た彼は、しばらく茫然とし、一週間も仕事に出られなかった。
でも、仕事は続けなければならなかった。
客の笑顔を守るのが、自分の役割だ。生活だってある。
その日の閉店間際、店の鍵を閉めようとしていた彼に、一人の女性客が彼に近づいてきた。
常連で、以前から特に熱心に話しかけてくる女性だった。何度もデートに誘われたり、一度告白されたこともある。彼はその都度それを断ってきた。蒼生がいたから。
彼女は頰を赤らめ、目を輝かせながら言った。まるで、《《彼がその言葉を了承すると確信しているかのように》》。彼はその事に小さな違和感と気持ちの悪さを感じた。
「……私、ずっとあなたのこと、好きなんです。付き合ってください。」
彼は穏やかに微笑み、いつものように丁寧に断った。
「申し訳ありません。仕事に集中したいので、お気持ちだけ受け取ります。」
意中の女性が死んだばかりで、他の女性のことなど考えられなかった。ましてや、目の前の女性は最初からタイプではない。
女性の表情が、瞬間で歪んだ。
「あの女はもういないのに……どうして断るの?あいつがいなければ振り向いてくれると思って、消してやったのに。」
「……え?」
彼の背筋が凍った。
「あの女」とは、間違いなく蒼生のことだ。
まさか、お前が彼女を……?
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