呪歌使い戦記 最終話
「……先生のこと、お願いしますね。ああ見えて先生はご飯の好き嫌いは多いし、苦い薬は嫌いだし、朝起きられなくて朝ごはんも抜きがちだし、几帳面な癖して放っておけば掃除もなかなかしないし、大人の癖に手がかかって仕方ない人なんです。本当に……仕方のない人で……」
先生、先生。僕がいなくても本当に大丈夫ですか。僕がいないからってご飯をパン一切れで済ませたりしませんか、風邪をひいても薬が苦いからって飲まずに治そうとしませんか、ねえ、先生。
滲んだ視界を袖で拭う。最初のものをもらって二年、背が伸びたせいで袖が足りなくなったからと新しく仕立ててもらった魔法使いのローブ。袖と裾に施した金糸の刺繍は先生の手によるもの。先生には与えてもらってばかりで、何も返せていない。今着ているこのローブも、今胸元にあるこの蛍石のループタイも、先生からもらったもの。果たして僕は先生に何かを返すことが出来ていたのだろうか。
「ほな、プイス君にはこまめに帰ってきてもらわなあかんなぁ。あのルイスせんせがプイス君以外の言うこと素直に聞くとは思えんし、なによりプイス君にはうちの子の先生になってもらわなあかんねんから」
「……はい……」
カーティスさんの手が、僕を抱きしめてくれる。いつの間にか背丈を追い越したカーティスさんの体は、僕の体にすっぽり隠れてしまう。
「大丈夫大丈夫。ルイスせんせがどんなに子供っぽい言うても、プイス君が心配することちゃう。ルイスせんせには私がおる、ハーゼルにうちの人やっておる。ルイスせんせの世話は任せて、生まれたばっかのうちのおちびと何ら変わらんわ。だから心配せんでええ、プイス君がおらん間は私らがせんせを見とくから。プイス君は安心して世界を見ておいで」
「ありがとう……ございます……」
「行っておいで。私らはここでプイス君の帰りを待ってる。ルイスせんせだって、プイス君の帰りを待ってる。いつでも帰ってきてええからな」
ぱん、小気味いい音を立てるように背中を叩かれる。肩にかけた鞄からハンカチを出して目元を擦った。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。プイス君の旅路がええもんでありますように」
ハンカチを握りしめたまま、カーティスさんの食堂を出る。ドアを閉めようとした瞬間、赤ん坊の泣き声とそれをあやすカーティスさんの声が聞こえた。
あの戦場を生き延びて二年。僕の世界は変わった。あの赤レンガの家だけの世界は大きく広がった。宿場街にも、大きな変化があった。ハーゼルが街の子供達に教える側になったこと、カーティスさんの家に赤ん坊が生まれたこと。カーティスさんのお産を手伝ったのももう三か月前か。もう少し体を休めてからという僕の心配をよそに、カーティスさんは産褥熱もなく元気に復帰した。
魔法がなくとも、世界は回る。先生の言葉は事実だと僕も思う。けれど、魔法があるから出来ること、救われる人は確実にいる。この世界の何処かには、僕の魔法を薬を、必要とする人がいる。そんな人の力になりたい。それが呪歌、魔法という力を持つものの使命だから。
宿場街を貫く街道を西に向けて歩く。街を抜けて、視界が開けた。目の前に広がるのは、すっかり春の色に染まった草原。何処へ行こう、目的地は決まっていない。今の僕なら何処へでも行ける。まずはこの街道を西へ行ってみようか。手の中のハンカチと入れ替えに、獅子の国の地図を取り出して広げる。知らない町、知らない地形、この地図も僕の知らないことだらけ。獅子の国の東にある竜の国や熊の国にも行ってみたい気持ちはあるが、まずはこの国の中を歩いてみたい。
……先生、行ってきます。胸元のループタイに触れる。元は先生がプイス先生からいただいたもの、それが今、僕の胸元で輝いている。代わりにこのループタイがあった胸元には今頃、僕があの日贈った翡翠のループタイが輝いていることだろう。これがあれば、僕は独りじゃない。あれがあれば先生も、独りじゃない。
東から西へ吹き付ける風が、僕の背中を押してくれている。さあ行こう。この世界を知る旅へ。何が僕を待ち受けているのかな。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
これにて「蜂蜜色の瞳」呪歌使い戦記、本編完結でございます。
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