呪歌使い戦記第三十四話
始まった。獅子の国南東の草原へ向けて、進軍が始まった。馬に乗るもの、歩くもの。荷馬車の騎手に荷物持ちの小間使い。皆が南東に向けて歩を進めている。一歩、また一歩。あの戦場は確実に近づいてくる。
「魔法使いの坊ちゃん。聞いたか、竜の国の呪歌使い」
「は、はい。とは言っても、非常に強いと言うことくらいしか知らないのですが……」
王城を出て初めての夜。先生が軍議にと銀の将軍の天幕を訪ねている間、僕は兵士達と夕食を取っていた。その時の会話。
「そいつを実際に見たやつが言うことにゃ、一見はただの花びらだそうだ。不吉な真っ黒い花びらに見えるんだと」
黒い花びらに見えるのは魔法使いのローブを着ているからだろう。空を飛んだ時の風になびくそれが僕の目にも花びらに見えたのははっきりと覚えている。
「そんでな。それに見惚れてたら槍ぶん回して追っかけてくるんだと。散々殺してきたんだろうな、真っ赤に血で汚れた槍で胸を一突き」
真っ赤な槍が、胸を一突き。脳裏をよぎる一回目の記憶。
「いやはや、恐ろしくてたまんないね」
匙を握る手が震える。忘れたわけじゃない、あの呪歌使いが持つ赤い槍が先生の命を何度も奪ってきたこと。この兵士の言う通り、思い出すだけで恐ろしくて手が震えてしまう。
「おい、やめろ。坊主が怖がってるじゃねえか」
「これくらい知っといて損はねえだろ。この坊ちゃんはその死神と戦うってんだからよ」
「坊主、わりいな。うちの馬鹿が余計なことを」
「い、いえ……すみません……」
震える手を抑え込んで、夕食の豆の煮込みを口に押し込む。塩気のほとんどない、味気なく煮込まれた豆の味なんかわかるわけもない。
「すみません、ごちそうさまでした」
食器を返して、僕達のためにと用意された天幕に急いで戻る。腰抜けと思われただろうか。こんな噂一つで手を振るわせるほどの怖がりだと思われただろうか。
やはり、怖いものは怖い。長い繰り返しの中、あの呪歌使いにはどうあがいても敵わなかった。唯一、先生が死んだ直後だけは隙が出来た。その時に、銀獅子のナイフを。何かが変わる予感こそすれ、実際何がどう変わるか、何をどう変えられるかなんてさっぱりわからない。先生なら何かわかるだろうか。聞きたいことは山ほどあるが、その晩、先生は僕が起きている間には帰って来なかった。
翌日も、さらにその翌日も、日の出と同時に進軍が始まる。王城を出て三日目になれば、兵士達や小間使い達に指示を出しながら馬を進める銀の将軍の顔にも、最初の夜に僕に竜の国の呪歌使いの噂を聞かせた兵士の顔にも、僕の隣を歩く先生の顔にも、緊張の色が見え始めた。僕も、手の震えが止まらない。あの戦場で竜の国の呪歌使いを相手取るのだと思うと歯の根が合わなくなる。
「プイス、どうした。顔が強張っているぞ」
そう先生に問われたのは三日目の昼、昼食にと配られたパンをかじっている時だった。
「……恐ろしいんです、竜の国の呪歌使いが。今更ながらに」
「……」
「僕に、僕達に勝ち目はあるんでしょうか。呪歌使いの一人、兵士の一人としても強いあの人に、勝てる見込みなんてあるんでしょうか」
「……これまでは、勝ち目はなかった。必ずお前か私のどちらかが死んでいた。だが今回は、今回こそは。勝算こそ未だ見つからんが、諦めさえしなければ必ずや」
「……そうですね……」
パンを持つ左手、手首に結ばれた木彫りの蹄鉄に触れる。兄弟の幸運を願って丁寧に作られたのだろう滑らかな表面は、余計に僕の不安を煽る。そしてその不安を硬い革紐の感触がつつくのだ。




