呪歌使い戦記第二十九話
その夜に見た夢は最悪なものだった。
「獅子の国を捨てて、竜の国へ来い」
そう僕を誘う竜の国の呪歌使いに、銀獅子のナイフを突き立てる夢。握ったナイフは何度も何度も、彼の胸に。溢れた鮮血は獅子の眼にはめられたルビーよりもずっと赤い。あの赤が目に焼き付いて離れない。息が苦しい。僕は先生の兄を、兄弟子を。気付けば前に人影。草原にへたりこんだ僕よりもずっと高いところから声がする。
「獅子の国を捨てて、竜の国へ来い」
その声が聞こえたから、ナイフを振るった。視界は目より赤い赤に染まる。なのに。
「竜の国へ来い」
何度も何度もあの呪歌使いが僕に囁くのだ。やめろ、やめてくれ。あの声が聞こえるたびにナイフを振るった。そのたびに、視界は赤く染まる。
「もうやめて!」
僕の声じゃない。竜の国の呪歌使いの声でもない。あの戦場にいたもう一人の呪歌使い……、先生の声。
やっと周りの状況が見えた。あたりには倒れ伏す竜の国の呪歌使いが何人も。これを、僕が。僕が、殺した。鴉を、兄弟子を、竜の国の呪歌使いを。
「やめてくれ、プイス。お願いだ、兄さんを殺さないで……」
先生が僕にそう言ったことなど、一度もない。……僕に言わないだけで、本心はそうだったのかもしれない。知らないとは言え、知らなかったとは言え、僕は。
先生の腕が僕の体に絡みつく。まとわりつく重さが草原についた足を沈ませて。
「竜の国へ来い」
「やめて、殺さないで」
先生と呪歌使いの声が耳に迫る。足がすくんで動けない。赤い視界が晴れたその時。血の涙を流す四つの瞳と視線がかち合った。高いところから僕を見下ろす、竜の国の呪歌使いの二つ。低いところから僕を見上げる、先生の二つ。その遥か後方、ずっとずっと遠いところで、誰かが涙を流している様子が見えた。涙の色までは見えなかった。
「……ス、……イス、プイス!」
大きく揺さぶられて目が覚めた。暖炉の火は消えているのだろう真っ暗な部屋の中、窓の外から差し込む星明りの中に先生の蜂蜜色の瞳が輝いているのが見えた。
「先生……」
「酷くうなされていたぞ。それほどまでに夢見が悪かったのか」
夢、あれは夢……? じゃあ、右手に確かに残るナイフを振るった時のあの感触も夢だと言うの?
違う、違う、違う! あれは夢なんかじゃなかった。僕は実際に竜の国の呪歌使いを、何度も、この手で。何回も何十回も何百回も、この手で。忘れるはずがない、忘れられるはずがないのだ。僕は、僕は……。
「……どうすればいいのですか……。僕はどうしたら赦されるのですか……。先生、教えてください。先生……」
「一体どうした。どんな夢を見たのだ、言ってみなさい」
「ぼ、僕は……ラーベを……竜の国の呪歌使いを殺しました……この手で、何度も……。何が夢で何が現実なのか、僕にはもうわかりません。手にあの時の、ナイフを刺した時の感触がずっと残っているんです。今見ているものが夢か現実かわからないくせに、この感触だけは本物だってはっきり理解出来てしまうんです。殺したのは現実だって、僕の右手が言うんです。僕は罪人です、人殺しの大罪人なんです。裁きは、斬首はまだですか。まさか、僕が赦されるなんて、そんなのあるわけないですよね?」
筋張った冷たい手が僕の背を撫でようとしたところでぴたりと止まる。
「竜の国の呪歌使いに肉親を殺された人の話を耳にしたんです。彼は竜の国の呪歌使いを憎んでいる、僕にあの呪歌使いを殺してくれと。それならば僕だって先生から恨まれているはずなんです、だって僕はあのラーベを殺したのだから!」
先生は何も言わない。ただ小さな呼吸音だけが聞こえる。窓の外を吹き付ける夜風の音だけが聞こえている。
「何度も、何度も、先生が死を迎えるたびに僕はあの人を殺してきました。いつの間にか心が慣れて、何も思わなくなっていました。今になって、恐ろしくなったんです。僕がどれだけ罪深いことをしてきたのか、それがわかったから」
答えは何も返ってこない、何も教えてはくれない。
「僕は悪い子です、神の教えに背く悪い子です。ごめんなさい、悪い子でごめんなさい。悪い子になってしまってごめんなさい」
言葉が止まらない。次から次へと溢れて止まらない。次第に視界が水の底へ沈んでいく、塩辛い水が溢れ出して、止まらなくなって。
「ごめんなさい。先生、ごめんなさい。悪い子は僕なんです、先生に酷いことをしたのは僕なんです。僕を許して……。お願い……悪い子の僕を嫌いにならないで……」
そこからはもう、何も言えなかった。何かを言おうとしても、出した声は意味を持つ音にならなかった。酷く泣きじゃくる僕の背に、冷たい何かが触れる。布団の温もりに包まれていた僕の背中に、冷たい手が触れる。
「プイス、申し訳ない、申し訳なかった。お前にそんなことを言わせるつもりはこれっぽっちも……」
そのまま、薄い胸に抱かれる。初めてこの温もりに触れたのはいつだっただろう。初めて先生と同じ布団を共にしたのはいつのことだっただろう。もう、ずっとずっと昔。僕があの赤レンガの家で暮らすようになる前の話。僕がまだ魔法使い達の、呪歌使いの存在を知らなかった頃の話。新しい父親と住む新しい家に向かう馬車の中、初めての長旅の道中で乗った乗合馬車の荷台の中。不安定に揺れてがたがたと音を立てる中で初めての経験に怯えていた僕を抱きしめてくれたのだ。あれは何年前の話だろう。悪魔の禁忌が見せる悪夢の中、遥か遠くになった記憶を掘り起こす。
呪歌使いの弟子になって十年、僕の記憶にある十年前はもう既に何年前かわからない。同じ日々を何回も何回も繰り返してきたのだから。その繰り返しの中で僕の手は汚れてしまった。先生に出会ったばかりの僕にはもう戻れないのだ。神父様やシスター達の言うことを従順に聞いていたあの頃の僕から大きく変わってしまったのだ。あろうことか神が罪だと言う人殺しに手を染め、あまつさえその重大さに気が付いていなかったのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、先生……!」
「私こそ、すまなかった。ふがいない私を許しておくれ……」
小さく震えている先生の腕の中、嗚咽を漏らす。互いに抱き着いて、しがみついて、互いの服を濡らしあって。
「先生、先生……。お願い、僕を嫌いにならないで……僕を独りにしないで……。嫌だ、先生がいないなんていやだよ……」
「プイス……プイス……」
石造りの閉ざされた部屋の中、冷たい隙間風から逃げるように先生と二人身を寄せ合って縮こまる。夜風が窓を揺らす音が酷く恐ろしく聞こえて、温かい布団の中でさらに身を縮こまらせた。
身を寄せ合う互いの温もり、幼子を寝かしつける時に叩く背中の心地よさ、そして限界を迎えて泣き疲れた体のだるさが、僕を再び眠りへと誘う。
「せんせい……せんせ……」
額に祝福の口づけが落とされる。うとうととした眠りに落ちる僕に、癒しの呪歌を歌ってくれた。僕のために、僕なんかのために。先生、先生。僕は赦されていいのですか。先生は、僕を赦してくれるのですか。
答えの言葉はない。応えの言葉なんかない。それでも。きっとこの温もりと歌声が答えなのだろう。先生なりの応えなのだろう。
次に目が覚めるまで、夢は見なかった。見たのかもしれないが、目を覚ました時に覚えていることはなかった。




