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呪歌使い戦記第二十二話

 結局。何の知識も知恵も手に入れられないまま時は過ぎた。そうして。

「……プイス、お前はどうする。明日はいよいよ王都に向けて発たねばならぬ日だが」


 とうとうこの日がやってきた。


「ぼ、僕は……」


 僕の心は未だ決まっていない。答えをすぐ出せない僕を見て先生は、残念がるような、安堵したような、どちらとも取れないため息を吐いた。


「お前はお前の好きなようにしなさい」


 そう言って、黒い布を手渡された。何度も何度も繰り返した中で何度も何度も袖を通してきた魔法使いのローブ。金糸で魔除けの紋様が縫い取られた、何度も何度も目にしてきた僕のローブ。今ならわかる。先生はあの戦争で死ぬ覚悟をしていた。先生が死ねば、僕は強制的に独り立ちすることになる。このローブは独り立ちする僕のために誂えられたもの。先生と別れて、独りで未来を生きていく僕への餞別なのだと。

 僕は、結局どうすればいい。このままこの家に留まれば、先生の望む未来は叶う。けれど僕の望む未来は消える。今まで通り、何度も繰り返してきた通り、先生について行けば僕の望んだ未来が得られるかもしれない。一方、僕も先生もあの戦場で死ぬ可能性は消えない。そうならば、答えは決まっている。決まりきっている。なのにどうして、僕は迷っているのだろう。

 上手く眠れない。何も言えないまま、決断出来ないまま、自室の布団に潜ってしまった。夜の真ん中を過ぎた月が、天窓から僕を覗き込んでいる。満月を過ぎて、端を少しずつ切り落とされた痩せた月。寝付けずにいる僕を嘲笑っているかのよう。

 先生は何をしているのだろう。この部屋の真向かいにあるドアが閉じられた音はずっと前に聞こえた。もう布団の中で休んでいるのだろう。明日は夜明けと共にこの家を出るのだから、少しでも体を休ませておかなければいけない。なのに僕は。


 決断も一睡も出来ないまま、朝が来た。夜明けに白む空を映す天窓に目を向けていられなくてそっぽを向く。その目の先には、僕が戦場に持って行った鞄。中身は常に用意してある。防護壁の呪歌が記された魔導書と、これまでの貯金を詰め込んだ僕の財布。それと繰り返しの途中で入れるようになった、傷薬の軟膏や包帯をまとめた手当セット。この手当セットが日の目を見ることはただの一度もなかったが。

 このまま、僕が戦場へ行かなければ先生は。嫌だ、嫌だそんなの。僕は一体、何のためにここまで。何のためにここまで必死になってやってきたのだ。先生を守るためじゃないか、先生と二人この家で暮らしていくためじゃないか。ここで僕が逃げたら、全てが水の泡じゃないか。出立は日の出と同時。大急ぎで支度を整える。

 一階の居間に下りれば、既に支度を整えた先生がいた。疲れの抜けきらない顔で、荷物をまとめていた。


「どうした。酷い顔をしているではないか。さては一睡も出来ていないな?」

「……先生。お願いです、僕も連れて行ってください。今の僕では何の役にも立たないだろうことはわかっています。それでも、どんな未来が、新しい繰り返しが待っていても、やれるだけのことはやりたい。絶対に、絶対に僕の願いを叶えるきっかけをつかみたい」

「だめ、と言ったら?」

「そ、それは……」

「……既に荷物をまとめてローブまで着ているお前にそんなこと、言えるわけがないだろう。お前の覚悟に水を差す権利など私にはない。……すまなかった。あの時お前に手を上げてしまって。痛かっただろう」

「あれは僕が未熟だっただけのこと。もう気にしていません。……僕こそごめんなさい。先生の気持ちを一度も考えたことがなかった。僕一人の考えで突っ走って、先生がどう思うかなんて考えもしなかった。先生はずっと、僕のことを考えてくださっていたのに」

 簡素な荷物を詰めた鞄から、小さな箱を取り出す。

「先生、受け取ってください。いただいたローブへのお返し……というわけではありませんが……」

「私に?」


 小箱は僕の手を離れて細い手に渡った。先生のために誂えた僕からの贈り物。箱の中身は……。


「……これは……翡翠か? 確か、東方の……竜の国や熊の国を越えた先にあるという龍の国や鴉の国で魔除けとして重宝されているという……」

「そうです、その翡翠です。その翡翠を手に入れたので、あの宿場街の職人にお願いしてループタイを仕立ててもらいました」


 あの日、先生を激怒させてしまった日。先生と二手に分かれてすぐ、注文しに行ったのだ。今まで薬を売って貯めたお金と、カーティスさんからもらったあの金貨を使って。


「……」


 先生の手が、無言のうちに胸元へ延びる。細い指先はあの蛍石のループタイに触れた。


「……こうして、ループタイを贈られるのは何度目になるのだろうな。いや、贈られたと言えるかどうか……。……今着けているこの蛍石のものは先生……プイス先生からいただいたもの。厳密には、プイス先生が私の成人祝いにと用意してくださっていたものだ」


 でも、そのプイス先生は。


「私が十六の時に亡くなられ、その後に先生の部屋で私が見つけた。だから先生から直接いただいたわけではない」

「そのループタイに、そんな話が……」

「蛍石は思考を明晰にする力があるそうでな。王都の学者や修道士が好んで身に着けているのを見たこともある。とりわけ、緑色のものは思考と感情の調整をすると言われている。我ら呪歌使いの大きな味方というわけだ」


 そんな蛍石のループタイは先生の胸元から外されて。代わりに胸元で輝くのは翡翠のループタイ。

「……プイス。お前にはこれを」


 僕の手のひらに載せられたのは、今外されたばかりの蛍石のループタイ。


「先生。これは受け取れません。僕にはこれを受け取る権利がありません」


 これは、プイス先生が己の弟子の成人祝いにと用意したものだと。そんな大切なもの、僕がいただくわけには。


「お前は私の弟子、ならばプイス先生の孫弟子ということになる。これを受け取る権利など、それでいい。それで十分。それに何より、今の私よりは今のお前の方がずっと蛍石の力を借りるべきだ」

「……すみません」

「そろそろ行こう。もうすぐ日の出だ」


 住み慣れた赤レンガの家に別れを告げ、玄関の鍵を閉める。先生はこうなることを確信していたらしい。食料庫はからっぽ、数か月家を空けても問題ないように調整されていた。この後は宿場街でこの鍵をカーティスさんに預けて王都へ向かうだけ。


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