産休
「────彩さん」
私の呼びかけに、低くなったパンプスがゆっくりと止まる。
振り向きざまに花束の入った紙袋が、ガサリと煩わしそうに揺らされた。
振り向いた彩さんは無表情で私を見据え、にやりと口角を歪めて「待ち伏せとかこわーい」と茶化すようにケタケタと笑った。
彩さんは明日から産休に入る。
さきほど営業部のフロアで、入社からの感謝といかに周囲に恵まれた職場だったのか幸せそうなスピーチを聞いたばかりだった。
涙を浮かべ、花束を受け取っていた彩さん。
見るからに膨れたお腹を愛おしそうに撫でる彩さん。
その、完成された姿を私は当たり障りなく眺めていた。
復帰は一年以上先の予定だ。
このまま顔を合わせなければ、残る清水さんや中村さんの勢いも落ち着くだろうと予測している。
恐らく、元凶は彩さんなのだろう。
不倫していただの、嫌がらせをしているだの、仕事を横取りしているだの。
今でも詳細な内容は聞いてないが、興奮した清水さんや中村さんが直接私に言ってきたのはそのあたりだ。
「何の用?追いかけてきてまで嫌がらせー?」
こわいねーと大きくふくらんだお腹をさする手を横目に、ことさら笑顔を作った。
「やだな、嫌がらせなんてしたことありませんよね。彩さんじゃあるまいし」
お腹の上を滑っていた手がピクリと止まった。
「それは彩さん自身がちゃんとわかっていると思います」
じっと挑むように視線を合わせれば、彩さんの整った眉がわずかに寄った。
「……説教?迷惑なんだけど」
「まさか。産休に入ったらなかなか会えなくなるので、お礼を言いたくて来たんです」
「はあ?」
長期休暇に入る前に荷物を整理するために更衣室に入っていった彩さんを追いかけ、やっと二人きりで話す機会が出来た。人が来る前にこれだけは伝えたかったのだ。
「これでも感謝してるんですよ。色々と」
*
「私、彩さんが辰己とそういう関係だったなんて、全然気付きませんでした」
先ほどまでニヤニヤと持ち上がっていた口角が今はストンと表情を失くしている。
がらんどうな瞳は何を映しているのか。
「彩さんは、私から彼氏が浮気しているかもしれないって相談を受けた時、おもしろかったですか?」
彩さんの瞳の中を覗き込もうと目を凝らす。
「その浮気相手に相談するなんて、滑稽ですもんね」
今更なに?と、彩さんは興味を失くしたかのように花束が入った紙袋を床に落とし、ロッカーの整理を始めた。
「しかも辰己が既婚者だってこと知ってましたよね。真剣に付き合っている彼氏が既婚者だって気付きもしないで、独り相撲していた後輩を見るのは愉快でしたか?」
紙袋の中に次々と何かが投げ入れられていく。
「今日から産休ってことは、彩さんこそ不倫じゃないですか」
ガツン、と大きな音が鳴り。
どうやらロッカーが蹴られた音なのだと遅れて気付く。
「計算違いますか?」
とぼけたような声で指折り数える。
産休に入るのは出産予定日の一月半前からだ。
「たしか去年の9月、わざと私に辰己の住んでる最寄り駅まで行かせて、奥さんの存在を教えてくれたんですよね」
つまり、と順序だてて教えてあげる。
「あの頃にはもう妊娠されてたってことですよね」
反動で揺れているロッカーの扉の影から、鋭い視線がこちらを刺した。
それを挑発するように笑ってやる。
「どんな気分ですか?嫌がらせをするために使っている言葉の証拠が、自分の中で育っている気分は」
ゆっくりと腕を動かし、一点を指差す。
「私だったら耐えられません」
彩さんの視線は私の指が何を差しているのか辿って、自分の膨らんだ腹を見下ろした。
「だから、気付かせてくれて感謝しているんですよ。彩さんが気付かせてくれなかったら私は辰己が既婚者で不誠実な人間だったことに気付くのが遅くなっていたと思います。きっかけをくださって、ありがとうございます」
一歩、一歩と距離を詰め、揺れているロッカーの扉に手をかけおさえる。
「その後の彩さん主導の嫌がらせは理不尽なこともありましたが、あれも成長するきっかけになったので最終的には感謝ですね」
距離が縮まったことで、もう少し声を落としても聞こえるだろう。
「結局あれって、私に”彩さんは略奪の出来婚だ”って暴露されるのが怖かったんですか?だからわざわざ私の口を塞ごうとして、孤立させようとしたり、私の信用を落とそうとしたんですか?こういうのは後から何言っても相手にされないですもんね。勉強になりました」
彩さんは聞いているのか聞いていないのか、無表情だ。
「でも私は誰かに言うつもりなんてなかったんですよ。彩さんには色々とお世話になったことも、事実ですから」
絶対に視線なんて逸らさなかった。
「自分の行ったことに耐えられず更に自分を苦しめる行動を重ねちゃうのって、惨めですね」




