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S社では謝罪というより、普段電話やメールごしだった担当者である営業アシスタントの顔みせと挨拶、というような流れだった。
後ほど花田さんに聞いたところ『謝るだけだとクレームのままで終わったが、わざわざ熱い連絡をよこすってことはチャンスだろ。謝るためだけに客先に行くほど暇じゃないんだ』とのことだった。
謝りに来たはずなのに、S社の担当者は花田さんにお悩み相談まで始めて最後には「連絡待ってるよ」と満足気な顔で外まで見送りに出てきてくれていた。なんということでしょう。匠の技が光ります。
なにがどうしてこうなったのか、呆然としていると駐車場とは反対の方へと足を向ける花田さんの後を追う。
「さて、ついでに近くの取引先にも挨拶に行くぞ」
「えっ、アポとってませんよ」
「もう電話した」
クレームの連絡があったのは昼頃だったと思ったが、一体いつの間にアポ連絡を行ったのか……花田さんの営業アシスタントとして、後手も後手の賑やかし要員にしかなっていないじゃないかと落ち込む。私はほんとうに花田さんに借りを返せるのだろうか。
*
徒歩圏の企業に挨拶をしてまわり、少し離れた駐車場まで並んで歩く。
「疲れたか? 飯でも食うか」
「いえいえいえ、このままオフィスに戻りますので」
「もう終業時間過ぎてるのにか?」
「むしろその方が落ち着いて仕事が出来ます」
はは、と冗談を返したつもりだったのだが、花田さんは眉を寄せてまた難しい顔をした。
スベったー!と慌てて言い訳をしようと空回っていると真剣な目がこちらを見下ろす。
「あのまま言われっぱなしでいいのか? お前はどうしたい」
「えっと、どうしたい、も、なにも。もしかして昼のやつ聞いてたんですか」
あの花田さんが気遣うように視線を落とした。見ていたのか。
じゃあやっぱり、今日はわざと連れ出してくれたんだ。
「そうだな、仕事の借りは仕事で返すのはどうだ。俺はもらったもんは1.5倍で返すようにしている。良いことも、悪いことも」
花田さんは真顔だ。真剣に助言してくれているのだろう。真剣にやり返せと言っている。1.5倍で。きっとやりすぎてもいけないのだろう。
「あいつらが今一番見たくないのはお前が成功してる姿だ。逆に、今のしょぼくれた顔をしているだけであいつらは楽しい。───悔しくないか」
悔しくないかと聞かれれば、悔しいに決まっている。
半笑いで目を逸らしていた自分の柔らかいところに触れられた気がして、身を固くする。
悔しいに決まっているじゃないか。そんなもの。
あんな嫌味やあからさまな嫌がらせを受けるほど、直接何か迷惑をかけただろうか。
言い返したり、やり返さないのは、自分の立場が悪くなるのが嫌で。
間違ったことをしている人たちと自分は違うって、そう思いたいからで。
私の何がいけなかったんだろうか。
そもそも私は彩さんに何かしてしまったんだろうか。だから彩さんに嫌われたんだろうか。嫌がらせで辰己と知り合って結婚?そんなこと普通はしない。何が原因なんだろうか。私の何が原因なんだろうか。謝ったらやめてくれるんだろうか。
辰己とのことも気付かなかった私が悪いんだろうか。問題があっても真剣に向き合わなかった事がいけないのだろうか。
私がそうされるだけのくだらない人間だから、しょうがないのだろうか。
───悔しいよ。でも、疲れちゃったよ。
「……花田さんは強いですね」
花田さんは強い。入社当時、営業たちからやっかみを受けても仕事で見返して来た。それを私も見ていた。だから憧れたのだ。花田さんの強さに。
「まぁ、なんだ、根も葉もない噂なんて……」
「噂ってなんですか。私、知らないです」
誰も理由なんか話してくれなかった。誰も本当のところはどうなのかと聞いても来なかった。ただ突然、態度が変わった。排除が始まった。
それを私は”今回も”嵐が過ぎるのを待った。
「花田さんが聞いた噂って、私が不倫してたってやつですか」
「あー、まぁ」
花田さんは気まずそうに首を掻いた。
やっぱり、と納得した。だって、辰己との揉め事を知っているのは彩さんだけだ。そして恨みを晴らすかのように強く嫌がらせをするのは、彩さんが親しくしていた清水さんたちから始まったから。
「でも、森田は彼氏と結婚するっていつも言ってただろ。だから何か行き違いがあったんだろ」
花田さんはなんてことないという風なトーンだ。駐車場に近づき車のバックライトがピコンピコンと光った。
スタスタと歩く花田さんの背中を見て、足を止める。
「……噂は事実ですから。その彼氏が既婚者だったんです。今回の件は自業自得です」
花田さんの足がピタリと止まった。振り返ることなく、「そうか」と一言だけ返事があった。どんな顔をしているのか見たくなくて、花田さんは後ろを向いているというのにどんどん視線が下がっていく。
「まあ、私生活なんて会社には関係ない。仕事さえしっかりしてくれれば」
「はい。仕事はきっちりやります。……今日はありがとうございました。私、電車で会社に戻りますので。お疲れ様でした」
ほぼ言い逃げの状態で、もう最後は走っていた。
追いかけてくるはずなんてない。ただ、自分から逃げたかったのだ。情けない自分を花田さんに見られたくなくて、走って逃げたのだ。
こうなったのは自分の弱さのせい。ぜんぶ彩さんの言う通りだった。
私は辰己の都合の悪い部分を見ようとしなかった。
根拠も無く、結婚すれば変わると思っていた。だから結婚したかった。それも逃げだった。
辰己の希望だからと言って、仕事を優先しなかったのも私の判断だった。
自分の無力さを感じるのが嫌で辰己を言い訳にしていたんじゃないか。
花田さんの扱いにくさに合わせることで、少なからず優越感を感じていたんじゃないか。
どうせ私じゃなくても、花田さんも仕事はするし、業務は回るし、辰己も新しい人と幸せになる。
虚しい、寂しい、誰にもどこにも私は必要とされていない。
うぅ、と俯いた瞬間。足が何かに引っ掛かり、次の足も絡まって滲む視線が回る。
こんなに落ち込んでいるのに間が悪く勢いよく転んでしまう。
ぎゃ!と変な声まで出てしまうし、小学生ぶりに膝はすりむくし、ふんだりけったりだ。
泣きそうになりながら、知らないビルの植え込みに腰を乗せる。
転んだところを見ていた人もいるだろうに、冷たい都会の住人は見なかったふりをしてさっさと歩いてどこかに行ってしまう。次の瞬間には私が転んだことを知っている人間はこの場にいなくなる。
「……辞めちゃおうかなぁ」
全部全部、捨てちゃって。それで。
実家に帰ってお見合いをするのもいいかもしれない。
それでまた誰かのために、現実から逃げて。
「また逃げるんだ」
すぐ逃げる選択肢しかない自分にうんざりする。
───『だから辰己に捨てられちゃうんだよ』
彩さんの言葉がリフレインする。だから私も捨てちゃうんだ。私が、私を。
───『良い子ちゃんぶるのも、被害者ヅラするのもやめてくれる?』
被害者ヅラ、してるかなぁ。でも今、少し消えたくなってる。消えればみんな満足なんでしょって。
───『今のしょぼくれた顔をしているだけであいつらは楽しい』
───『あいつらが今一番見たくないのはお前が成功してる姿だ』
───『悔しくないか』
だから
「悔しいに決まってるでしょーが!!! ばかやろー!!!」
思わず大声で叫んでしまった。
ハッと口を塞ぐが、一瞬通行人がこちらをギョッとした目で見ただけで足早に歩いていく。きっとやばい酔っ払いか何かだと思われたんだろう。通行人が遠巻きになった気がする。
でも、大声を出したらちょっと気分がスッキリしてきた。
膝は痛いが、しょうがない。だって生きてるんだ。そりゃ傷つけば痛い。
半壊したパンプスを脱いで立ち上がる。
───『言われっぱなしでいいのか? お前はどうしたい』
私も、強くなりたい。




