#カイ5
病院という場所は、カイはあまり好きではなかった。消毒液の臭いがどうにも苦手だった。定期検査すら嫌がるのには、それだけの理由があれば充分だった。
とは言え、パイロットとしての職務を継続するためにも、検査をサボったことはない。毎回、なんだかんだアイカかマリナと一緒に行っている。どちらかがカイを強引に引っ張っていくのだ。
カイの病院に対する認識というのはそういうものなので、自分から曖昧な要件で足を運ぶのには内心驚いていた。ただの気まぐれにしては、場所が場所なのだ。
「で、カイ君はその幻聴のことがどうしても気になるんだね」
診察室でカイと向き合っているのは、シオ医官だった。
「うん、女の子の声なんだけどさ。シグルドに乗ってるとき、たまに聞こえてくるんだ。なんか意味不明なことを叫んでいる。と言うか、狼の雄叫びみたい」
無論、直接聞いたことはない。アーカイブを漁っているうちに偶然、地球時代の動物の動画データに行き着いただけだ。
「へえ、かわいい子?」
「声だけだからなあ。たぶん、かわいいと信じてるよ」
「じゃあ、かわいいんだろうね」
「たぶんね」
女の子はかわいいに越したことはない。信じるだけならタダだろうと、カイは確信していた。まあ、何を話しているのだろうと疑問に思わないでもなかったが、あえて不満を持つほどでもないのだ。
シオ医官は電子カルテを確認しながら、カイと会話を続けていた。カルテをじっと見つめていたと思うと、すぐに会話に戻った。
「定期検査にはなにも問題はないようだね。心身ともに健康そのものだ」
「健康だけは自慢なんだよなあ」
「それって、パイロットの間で流行ってるの?」
「いや、健康じゃないと続けられないからさ」
パイロットは心身の健康が第一だ。うっかりで戦死されては、エデンの技術の粋が無駄になる。一機のシグルドがどれだけのコストを掛けて作られているのか、技術班から口を酸っぱくして散々聞かされたことだ。
「もしかして、生霊ってやつかな? マリナが言っていたんだけどさ、地球時代の文献には男を恨んで化けて出てくるような女がいたんだって」
「マリナちゃんは変なことを知っているんだねえ。なら、カイ君には女の子に恨まれるような覚えがあるのかい?」
思い返してみるが一応、心当たりはなかった。
「ないはずだよ。俺は割り切った関係しか持たないんだ」
「きみの下半身の事情なんて、知りたくないんだけどなあ」
「仕事なんだから割り切ってよ」
「なるほど、そういう関係だと」
「どういう関係だよ」
誰にどう思われても構わないが、カイは男は好きではない。少なくとも体の関係は女の子としか持てる自信がなかった。シオ医官の異性関係には興味がないわけでもないが、同性関係は自分が狙われない限りはまったくどうでもよかった。
「うーん、相談してくれるのは嬉しいんだけど、きみは健康体そのものだからね。もちろん、心の問題がある可能性もある。でも聞いただけの話だと、しばらく様子を見ようとしか提案できないねえ」
「このヤブ医者め」
「医学というのは万能ではないんだよ、カイ君」
「さいですか」
とは言え、期待していた訳でもない。幻聴は悩むほどでもなかった。気のせいだと言われればそれまでの話ではある。
「でも、どうしても困ったら言ってくれていい。おそらく、カイ君のそれは大丈夫だろうけどね」
根拠は不明だが、カイはそれ以上は追求しなかった。はぐらかされるだけだと諦めていた。
「それはそうとさ、シオ医官。幻聴とは別の話なんだけどさ、」
「なに?」
「エデンって女の子はいるの?」
「よりどりみどりじゃないか」
誰を思い浮かべているのか、シオ医官は指折り数え始めた。カイもつられて、近頃セックスした女の子の人数を脳裏で数えた。
「いや、そうじゃなくて、幼女くらいの女の子っているのかなって」
「それはきみ、地球時代からの難病だよ」
「俺はロリコンじゃねーよ」
カイはアーカイブで見たことのある、幼い女の子の画像データには食指がまったく動かなかった。アイカよりはマリナのほうが好みだと言うくらいには、スタイルがいい女の子が好きなのである。
「いや、前に幼い女の子を見かけた気がするんだよ」
「幻聴の次は幻覚かあ」
言われてみれば確かに、幻聴に幻覚である。頭がおかしいと常日頃から指摘されるカイだが、ついに本当にイカれてしまったのだろうか。
「いや、俺は正常だ」
「信じることは大事だね」
「医者が変なこと言うなよ」
「冗談だよ」
からから笑うシオ医官だったが、目は笑っていなかった。どこまで本気なのか、カイにもわからなかったし、もう帰りたい気持ちになっていた。結局、雑談に終始した診察だった。
「もう帰るね。俺も暇じゃないんで」
明らかな嘘だったが、シオ医官と接しているとあまりに気疲れするので穏当に退散するつもりなのだ。
椅子から徐ろに立ち上がって、カイは診察室の出入り口に足を向けた。カイの背中越しにシオ医官が声を掛ける。
「カイ君、一つだけアドバイスだよ」
「なんすか?」
「幻聴のことはどうでも――よくないことはないけどね、幻覚のことは黙っていた方がいい。親しくない人には言っちゃ駄目だよ」
「医官にも言っちゃ駄目なの?」
「僕以外には、ね。エデンの住人とはすなわち、救世軍の兵士だ。幼い女の子なんているはずがない。本当にいたとすれば、重要な機密に関わるのかもしれないよ?」
ひらひらと手を振るシオ医官を無視して、カイは診察室を後にした。
まあ、最後に言われたことは気にしないでもなかった。後ろ髪を引かれつつも深入りしないでおいたのは賢明だったと、なんとなしに思っていた。




