第8話:「不器用な再会」
第8話です
ちゃんと最終話迄書けるといいな
面会時間が終わりに近づいた、夕暮れ時の病室。
オレンジ色の西日が、白いカーテンを淡く染めている。
松永さんが「ちょっとお茶を買ってくるわね」と席を外してから、10分が経っていた。
点滴の袋は2本目に突入し、身体に水分が行き渡ったせいか、紡の頭痛はかなり和らいでいた。けれど、静寂が戻った部屋で一人になると、どうしても先のことを考えて不安が頭をもたげる。
(お姉ちゃん、今頃どうしてるかな。寂しがってないかな……)
そんなことを考えていた、その時だった。
トントン、と。
遠慮がちな、でもどこか硬いノックの音が静かな病室に響いた。
「はい……」
紡が声をかけると、ゆっくりとスライド式のドアが開く。
入ってきた人物の姿を見た瞬間、紡は息を呑み、そのまま全身の血が逆流するような衝撃に襲われた。
そこに立っていたのは、よく知っている、けれど2年間一度も見ることのなかった顔だった。
少し伸びた無骨な黒髪。日に焼けて、どこか煤けたような顔筋。着古した作業着の上着に、薄汚れたリュックを片肩にかけている。
2年前、「あとは頼む」とだけ書いたメモを残してアパートから消えた、長男の蓮だった。
『……紡』
掠れた声で、兄が自分の名前を呼んだ。
その瞬間、紡の心の中で、これまで必死に抑え込んできた『どす黒い感情』が一気に爆発した。
「……なんで」
低く、震える声が紡の口から漏れる。
「なんで、ここにいるの……?」
『松永さんから、連絡があって。お前が倒れたって――』
「あんたに関係ないじゃん!!!」
紡はベッドの柵を、点滴の針が刺さった手で激しく叩いた。パチンと鋭い音が響き、点滴の管が大きく揺れる。
「関係ないでしょ!? 、私とお姉ちゃんを捨てて勝手に東京に行ったのは誰よ!? お姉ちゃんが『おにーちゃんは?』って泣いてるとき、あんたどこで何してたのよ!?」
『紡、俺は――』
「言い訳すんなよ!!」
涙が、堰を切ったように紡の目から溢れ出た。それは悲しみではなく、純粋な『怒り』と『憎しみ』の涙だった。
「あんたが逃げたせいで、私がどれだけ苦しかったか分かる!? お姉ちゃんのために、夜勤を何回も入って、人が足りない中で防護服着て、息ができなくなって、それでも『私がやらなきゃお姉ちゃんが捨てられる』って……! 死にそうになりながら働いてたのに!!」
病室に、紡の悲痛な叫びが響き渡る。
蓮は、反論しなかった。言い訳もしなかった。ただ、紡の叫びを、刃物を突きつけられるような表情で、じっと直立不動のまま受け止めていた。
「今さらお兄ちゃん面して来ないでよ……! 帰ってよ! あんたなんか、もう私たちの家族じゃない……っ!」
枕に顔を押し当てて号泣する妹の前に、蓮はゆっくりと歩み寄った。
そして、ベッドの脇にリュックを置くと、ガサゴソと中から一冊の小さな『冊子』を取り出した。
それは、使い古されて端がボロボロになった、一冊の銀行通帳だった。
蓮はそれを、両手で大事そうに紡のベッドのシーツの上に置いた。
そして――そのまま床に両膝をつき、深く、深く頭を下げた。綺麗な土下座だった。
『……本当に、すまなかった』
床に擦りつけられた蓮の声は、激しく震えていた。
『俺は、最低の人間だ。おやじが死んで、母親が蒸発して、障害のある結衣と、まだ学生だったお前を置いて……毎日の介護と貧乏に耐えられなくなって、逃げ出した。それは、どんな理由があっても許されないことだ』
蓮の大きな手のひらが、悔しさで床をぎゅっと引っ掻く。
『東京の小さな内装会社に潜り込んで、朝から晩まで怒鳴られながら、泥水すするみたいに働いた。……逃げ出したくせに、お前たちのことが頭から離れなかった。でも、合わせる顔がなくて、仕送りを数万円だけ送るような勇気もなくて……。せめて、まとまった金を貯めて、いつか土下座して家に戻るんだって、それだけを目標に、キツい夜勤の現場も全部入って、金を貯めた』
紡は、涙で濡れた目を上げ、シーツの上の通帳を見た。
恐る恐る手を伸ばし、中を開く。
そこには、毎月、狂ったような頻度で刻まれた「残高」の数字があった。
端数の出ない、泥臭い労働の結晶。現在の残高は――230万円。
2年間、26歳の若者が大都会の片隅で、贅沢を一切断ち切って貯め続けたことが一目で分かる、執念の数字だった。
『これ、使ってくれ』
蓮は頭を下げたまま、必死に言葉を紡ぐ。
『結衣の施設代も、これからの生活費も、全部ここから出していい。……いや、足りない分はこれからは俺が全部稼ぐ。地元の内装屋に転職のあては作ってきた。だから……』
蓮が、ゆっくりと頭を上げた。その目からも、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
『だから紡……もう、一人で頑張らなくていい。お前を一人で主任にさせて、一人で戦わせて、本当にごめん。……俺に、もう一度、家族をやらせてくれか?』
「……おにぃ、ちゃん……っ」
2年ぶりに呼んだその響きに、紡の胸の奥の頑なな氷が、音を立てて崩壊していった。
怒りは消え去り、後に残ったのは、ただ「助かった」という、あまりにも巨大な安堵感だった。
西日が沈み、病室に静かな夜が訪れようとしていた。
けれど、二人の心の「終わらない夜勤」は、今、確かに終わりを迎えていた。
続く
第8話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
ついに、兄妹の再会となりました。
今まで紡ちゃんを一人で苦しめてきたお兄ちゃん(蓮)ですが、彼もまた、東京で地獄のような後悔と戦いながら、泥泥になって230万円という大金を貯めていました。
「逃げ出した」という罪は消えませんが、彼なりの不器用すぎる『家族への愛』の形が、通帳の数字というリアルな形で紡ちゃんに伝わった瞬間です。紡ちゃん、本当によくここまで一人で持ち堪えてくれました……っ!(作者も涙目です)
これでようやく、経済的な問題と、一人で背負う孤独の呪縛から紡ちゃんが解放されました。
次回、第9話は「繋がった手、二つの顔」。
お兄ちゃんが、ついに結衣ちゃんの待つ障害者施設へと向かいます。
物語がいよいよ救いへと向かう後半戦、「本当によかった……!」と思ってもらえる話になるといいです




