第7話:「夜明けの病院」
第7話です
つむぎちゃん、ちょっと休もう?
当人は倒れるまでわからないんだよね、周りがそうなる前に気が付いてほしい
でも、聞いたところで「大丈夫ですよ」って返してくるんだけど
チカチカと点滅する白い光が、次第に一定の輪郭を持ち始める。
塩素の臭いは消えていた。代わりに鼻腔をくすぐるのは、どこか冷たい、消毒液と清潔なリネンの匂い。
《……つ、むぎちゃん? 紡ちゃん、分かる?》
耳元で、聞き慣れた、でもひどく遠くから響くような声がした。
ゆっくりと瞬きを繰り返すと、視界を覆っていた靄が晴れていく。
白く無機質な天井。左手の甲に刺さった、透明なチューブ。かすかに聞こえる、点滴の規則正しい「ポタ、ポタ」という音。
「……まつ、なが……さん……?」
掠れた声で呟くと、ベッドの脇にパイプ椅子を寄せて座っていた松永が、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
《よかった……っ。気がついたのね。今ね、先生呼んでくるから、動いちゃダメよ》」
パタパタと足音が遠ざかる。
紡は重い頭を動かし、自分の置かれた状況を把握しようとした。
ここは病院だ。私は確か、汚物処理室でシーツを洗っていて――。
(あ……シフト、朝の申し送り……利用者の山田さんの酸素……っ!)
ガタ、とベッドが大きな音を立てた。
点滴の針が突っ張るのも構わず、紡は掛け布団を跳ね除けようとした。起き上がらなければ。自分がいないと、あの3階フロアは本当に崩壊してしまう。今日だって誰も交代がいないはずだ。
「おい、大人しくしてなさい!」
病室に入ってきた初老の医師が、鋭い声で紡を制した。後ろには、目を真っ赤にした松永と、施設の施設長が立っている。
「重度の脱水症状、栄養失調、それに極度の疲労による迷走神経反射性の失神だ。心電図にも異常が出ている。君、自分の年齢を分かっているのか? 24歳の身体が発していい悲鳴のラインを、とっくに何線も超えているんだぞ」
「でも……行かなきゃ……私が、主任だから……」
「行かせん」
医師はカルテをバチンと叩いた。
「最低2週間の入院、および絶対安静。これは医師としての命令だ。君の施設長にも、たった今『ドクターストップ』の診断書を叩きつけたところだ。これ以上の勤務は、君の命に関わる」
紡は弾かれたように施設長を見た。施設長は、申し訳なさそうに視線を落とす。
「ごめんね、紡主任……。本当に、無理をさせすぎた。君が倒れた後、本部から応援のスタッフが3人入ることが決まったんだ。行政の介入も入る。だから……もういいんだ。3階のことは忘れて、休んでくれ」
頭の中が真っ白になった。
応援が来る。行政が動く。それは、自分が死に物狂いで守ろうとしていた「現場」が、自分なしでも回り始めるということだった。
安堵よりも先に、猛烈な恐怖が紡を襲った。
「嫌です……休めません……っ。2週間も入院したら、夜勤手当が……。お姉ちゃんの施設代が……! 今月、が払えなくなっちゃうのに……っ!」
ベッドの上で、紡は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
手首の真っ赤にひび割れた皮膚が、涙で濡れる。
どれだけ命の危機を脅かされても、紡を縛る「お金とプライドの枷」は、あまりにも強固だった。
《紡ちゃん、もういいの。もう泣かないで》
松永が優しく、けれど断固とした力で紡の肩を抱きしめた。
《お金のことは、私が全部手続きを進めてる。今回の休職は『労災(労働災害)』として申請するわ。認められれば、休業補償として給料の約8割が支給される。それから、結衣ちゃんの施設の減免申請も、私がケアマネの権限で特例の書類を作って行政に提出したから。だから……お金のことは、もう心配いらないのよ》
「え……?」
《あなたが命を懸けて回さなくても、お姉ちゃんは守れるの。日本の福祉制度は、そんなに薄情じゃない。あなたが頼ろうとしなかっただけ。……だから、もう、背負うのをやめなさい》
松永の言葉が、紡の乾ききった心に染み渡っていく。
自分が握りしめていた「私がやらなきゃ」という意地は、ただの独りよがりだったのだろうか。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
紡は松永の胸に顔を埋め、声を押し殺して、ただひたすらに涙を流し続けた。
――その頃。
東京、新宿駅のホーム。
けたたましい発車メロディが鳴り響く中、一人の青年が自動券売機の前で立ち尽くしていた。
長男の、蓮だ。
彼の右手には、小さなリュック。
そして左手には、数年ぶりに購入した、地元へ向かう電車の特急券が握りしめられていた。
スマホの画面には、松永から送られてきた短いメッセージが表示されている。
『紡が倒れた。今、病院の集中治療室(※実際は一般病棟だが、緊迫感を伝えるための松永の表現)にいる。これ以上逃げるなら、私はあなたを一生許さない』
蓮は、拳を血がにじむほど強く握りしめた。
自分のせいで、妹が壊れた。
2年前、自分が投げ出した「家族」という重荷を、まだ24歳の妹がたった一人で支え、そして力尽きたのだ。
「ちくしょう……待ってろよ、紡。結衣」
蓮は振り返ることなく、動き出した電車のドアへと足を踏み入れた。
その目に宿る光は、かつて現実から逃げ出した「意気地なしの兄」のものではなくなっていた。
夜が明けていく。
姉妹の、そして家族の止まっていた時間が、ついに激しく動き出そうとしていた。
続く
第7話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
倒れてしまった紡ちゃんですが、松永さんや医師、施設長といった「ちゃんとした大人たち」の手によって、ようやくその重すぎる荷物を下ろすことができました。
「日本の福祉制度は、そんなに薄情じゃない。あなたが頼ろうとしなかっただけ」という松永さんのセリフは、執筆しながら私自身も胸に深く刺さるものがありました。一人で抱え込みすぎてしまう健気な紡ちゃんだからこそ、この強制的なストップが必要だったのかもしれません。
そしてラスト、ついにあの男が動き出しました。
2年前に妹たちを置いて逃げ出した長男・蓮。松永さんの怒りのメッセージを受け取り、彼は特急券を握りしめました。
次回、第8話は「不器用な再会」です。
ついに病室のドアが開き、2年ぶりに兄と妹が対峙します。これまでずっと一人で耐えてきた紡ちゃんが、お兄ちゃんの顔を見た瞬間にどんな感情を爆発させるのか……。物語の大きな転換点となりますので、ぜひ見守っていただけると嬉しいです。
「紡ちゃん、ひとまず休めてよかった……!」「お兄ちゃん、早く行ってあげて!」と思ってくださった方は、共感してくださるだけでありがたいです
次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




