第6話:「擦り切れた糸」
6話目です、半分です
《紡主任、302号室の山田様、酸素飽和度が89まで落ちてます!》
「すぐ、すぐに酸素濃縮器を回して! 救急車は!?」
《どこも受け入れ先が見つからないって、保健所に断られました……っ》
防護服の中に響く悲鳴のような声。
クラスター発生から3週間目が立とうとしていた。すでにフロアの半分以上の利用者が陽性となり、夜勤帯をワンオペ(一人)で回さざるを得ない日も出てきていた。
紡の意識は、すでに何日も前から半分泥に沈んでいる。
最後にまともな食事を摂ったのがいつかも思い出せない。喉がカラカラに渇いているのに、防護服を脱いで水分を補給する時間すら惜しかった。防護服の内側は自分の汗で蒸れ、サウナの中にいるように息苦しい。
(あと、3時間……あと3時間で、朝のスタッフが来る……)
それだけを呪文のように繰り返し、重い足を動かす。
その時、ポケットの中でスマホが短く震えた。
――通知:『おねえちゃん』
防護服越しでは画面の細かい文字は見えない。けれど、バイブレーションのパターンで結衣からの着信だと分かった。
(おねえちゃん……ごめんね、今、出られないの……)
胸が締め付けられる。
結衣は、紡から教わった「画面のつむぎの顔を押す」という操作を、今まさに障害者施設のロビーか、いつもの駅のベンチで一生懸命行っているのだろう。大好きな黄色い電車を眺めながら、妹の声を待っているお姉ちゃんの姿が目に浮かぶ。
その電話に出たい。声を聴きたい。「つむぎー!」という、あの頼りないけれど世界で一番優しい声を。
しかし、目の前では別の利用者が激しく咳き込み、ナースコールが狂ったように鳴り響いている。
「ごめん、お姉ちゃん……あとで、必ずかけるから……」
紡はスマホをポケットの奥に押し込み、再び戦場へと駆け出した。
――同じ頃。
深夜の冷たい雨が降る街の片隅。
松永からの着信を告げるスマホの画面を、一人の青年が見つめていた。
長男の蓮だ。
彼は2年前、家族の重圧から逃げ出すように東京へ行き、小さな内装会社で泥泥になりながら働いていた。
『蓮くん。あの子たちを、このまま殺す気?』
留守番電話に残された松永の、低く、怒りに震えた声。
蓮は、ボロボロになった自分の手のひらを見つめた。妹たちを捨てたという罪悪感は、1日たりとも消えたことはない。けれど、戻る勇気もなかった。
「……紡……結衣……」
蓮の心の中で、止まっていた歯車が、ギチギチと音を立てて回り始めようとしていた。
――午前5時45分。
『ひだまりの家』3階フロア。
夜明け前の静寂の中、紡は一人、汚物処理室でシーツを洗っていた。
塩素系消毒剤のツンとした臭いが、麻痺した鼻腔を刺す。
パチン、と。
頭の中で、何かが千切れる音がした。
急に、視界の端から色が失われていく。
あんなに暑かった防護服の中が、氷水を浴びせられたように冷たくなっていった。
「あ……れ……?」
自分の足の感覚がない。
床がぐにゃりと歪み、天井が激しく回転する。
止めようと思っても、身体が言うことを聞かない。
ガシャーーーン!!!
プラスチックのバケツが床に激しく衝突し、水が派手に飛び散る。
紡の身体は、糸の切れた人形のように、冷たいタイルの床へと崩れ落ちた。
仰向けに倒れた紡の視界に、蛍光灯の白い光がチカチカと明滅している。
指先一つ動かせない。呼吸の仕方がわからない。
その時、床に投げ出された防護服のポケットから、再びスマホが震える音が響いた。
ブー、ブー、ブー……。
結衣からの、2回目の着信だった。
画面には、結衣が大好きなたまご焼きのステッカーが貼られた、あの月1万円の大事なスマホが転がっている。
(お姉ちゃん……ごめん……わたし、もう……)
紡の大きなタレ目から、一筋の涙がこぼれ落ち、床の水たまりに混ざる。
やがて、蛍光灯の光は完全に消え去り、紡の意識は深い闇へと沈んでいった。
鳴り続けるバイブレーションの音だけが、無人の処理室に虚しく響いていた。
続く
次回「夜明けの病院」
休みなしで夜勤日勤と詰め込んでると、疲れとともに
まとな判断力がなくなり、片頭痛(頭のなかでいつも呼び出し電話が鳴ってる)と不眠症
そしてさらに悪いと運転中に意識が飛びかけるんですよね
良く生きてたな~と今更に思います




