第5話:「すれ違う正義」
5話目です、折り返し近い
クラスター発生から2週間。
『ひだまりの家』の3階フロアは、もはや福祉施設ではなく、防護服を着た人間が行き交う「戦場」そのものだった。
「ごめんね、主任……本当に、ごめんなさい……っ」
休憩室の片隅で、パートスタッフの佐藤さんが頭を下げて泣いていた。彼女には保育園に通う幼い息子がいる。
「保育園から、お母さんがクラスターの出た施設で働いているなら、登園を自粛してくれって言われちゃって……。旦那からも、これ以上続けるなら実家に帰れって怒鳴られて。私、もう、シフトに入れません……」
佐藤さんが悪いわけではない。家族を守るための、当然の正義だ。
「いいんですよ、佐藤さん。気にしないで、お子さんのそばにいてあげてください」
紡は精一杯の笑顔で送り出した。
けれど、佐藤さんが去った後のドアを見つめながら、紡の心の中に、どす黒い感情がポツリと湧き上がるのを止められなかった。
(なんで……なんでみんな、そんなに簡単に諦めて逃げちゃうの?)
どうして私だけが残されているんだろう。私にだって、守るべきお姉ちゃんがいるのに。
そんな醜い思考を抱いてしまう自分自身に吐き気がした。けれど、限界を超えた脳は、もう他人の事情を思いやれるほどの余裕を失っていた。
スタッフが減った分の穴は、すべてフロア主任である紡のシフトに上乗せされる。
手首には、何度もアルコール消毒を繰り返したせいで真っ赤にひび割れた皮膚。鏡を見るまでもなく、目の下には消えない隈が泥のようにこびりついているのが分かった。
――その日の夕方。
誰もいない面会室に、一人の女性が訪ねてきた。
結衣が利用している障害者施設の担当ケアマネジャー、松永だった。長年、姉妹の不遇な家庭環境を知り、陰ながら支えてくれているベテランの相談員だ。
『紡ちゃん、これ、預かっていた結衣ちゃんの着替え。それと……はい、ビタミン剤』
「あ、松永さん……わざわざすいません」
防護服を脱ぎ、疲れ果てた私服姿で現れた紡を見て、松永は息を呑んだ。
頬はげっそりとコケ、大きなタレ目は光を失ってうつろに濁っている。声はガラガラに掠れていた。
『紡ちゃん、あなた最後に家に帰ったのはいつ?』
「えっと……4日前、かな。あはは、ちょっと記憶が怪しくて」
『笑い事じゃないわ!』
松永が、珍しく強い口調で紡の手を握った。その手があまりにも冷たく、小さく震えていることに松永は気づく。
『結衣ちゃんの施設のスタッフから聞いたわよ。紡ちゃんが全然お迎えに来られないって。あなたの施設の惨状も、噂で入ってきているわ。フロア主任だからって、こんなの完全に異常よ。労働基準法だって完全に無視されている』
「でも、私が残らないとフロアが回らなくて……」
『回さなくていいの! それは経営陣や行政が考えること。あなたが命を削ってまで背負うものじゃないわ。……紡ちゃん、私からあなたの施設の上司に連絡する。福祉の窓口にも掛け合って、あなたを『強制休職』にしてもらうよう手続きを取るから。今すぐ、お姉ちゃんのところへ行きなさい』
「大人の正義」だった。松永は、紡の命を守るために正しいことを言っている。
しかし、その言葉は、紡の心の一番触れられたくない場所に、鋭く突き刺さった。
「嫌です……」
『紡ちゃん!』
「休めません!!」
紡は、松永の手をパチンと振り払った。面会室に、悲痛な叫びが響き渡る。
「休んだら……今月の夜勤手当が全部消えちゃうんです!そしたら、、お姉ちゃんの施設代も足りなくなるんですよ!?」
『お金のことなら、減免制度や貸付を――』
「そんなの、手続きに何ヶ月かかるんですか! 時間なんてないのに!」
紡の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出た。感情のダムが決壊していた。
「それだけじゃない……っ。これ以上給料が減ったら、お姉ちゃんのスマホを解約しなきゃいけなくなる……。お兄ちゃんが勝手に契約して、そのまま置いていったやつ……」
『スマホくらい、格安のプランに変えれば――』
「ダメなんです!!」
紡は、自分の胸をあせるように強く掻きむしった。
「お姉ちゃん、機械の使い方がわからないから、あのスマホの画面にある『つむぎの顔』をタッチすることしかできないんです! 新しいスマホに変えて、操作がわからなくなったら、お姉ちゃん、私に電話できなくなっちゃう!……お姉ちゃんから、私に繋がる唯一の道具なんです……っ!」
ゼーゼーと荒い息を吐きながら、紡は嗚咽した。
「周りの人から……『障害者のお姉ちゃんを持って可哀想』って思われるのは、私だけでいい。お姉ちゃんにだけは、みすぼらしい思いをさせたくない……。最新のスマホを持って、可愛い服を着て、大好きな電車に乗せてあげたい。それが、私がフロア主任として、死に物狂いで働いてる唯一のプライドなんです……! だから、お願いだから、私の邪魔をしないで……っ!!」
『……紡ちゃん……』
松永は、言葉を失った。
24歳の女の子が、どれほど歪で、どれほど純粋な「愛とプライド」のために自分を痛めつけているのか。その重みに、胸が潰されそうになった。
「……ごめんなさい、取り乱しました。仕事があるので、戻ります」
紡は袖で乱暴に涙を拭うと、ペコりと頭を下げて、足早に面会室を去っていった。
その後ろ姿は、今にも折れてしまいそうなほど細かった。
残された松永は、しばらく拳を握りしめて震えていたが、やがて決意したようにスマホを取り出した。
連絡先にある、一人の男の名前を見つめる。
2年前、「あいつのこと頼みます」と言い残してこの街を去った、姉妹の長男・蓮の番号だった。
『……蓮くん。あの子たちを、このまま殺す気?』
誰もいない部屋で、松永の低い呟きだけが響いていた。
一方、紡は再び防護服の袖に腕を通していた。
涙のせいでゴーグルが曇る。けれど、もう拭う元気すら残っていなかった。
限界の糸は、今、限界まで引き絞られ、パチンと弾けるその瞬間を待っていた。
続く
兄が動き出しますかね、、、どうかな?




