第4話:「終わらない夜勤」
4話目です
書いてて思う、他人事じゃないな~~って
(あれからまた1週間)
・・・
・・
――ピピピピ、ピピピピ。
アラームの電子音が、頭蓋骨の奥に直接突き刺さるような不快感とともに響く。
紡は、休憩室の薄いソファから、バネが弾けたように上半身を跳ね上げた。
「……あ、いま、何時……?」
スマホの画面を見る。午前6時。
寝た。確かに寝たはずだ。けれど、感覚としては目を閉じて10秒後に起こされたような絶望的な疲労感が全身を支配している。時計が示していたのは、たった「2時間」の仮眠の終わりだった。
「リーダー、起きました!? すいません、2階のショートステイの隔離エリア、完全に人手が足りてません! 夜勤の山田さんが、明けのまま昼勤も残ってくれるって言ってますけど、もう限界です!」
PHSから飛び込んでくる同僚の悲鳴。
「分かった、今すぐ行く!」
紡は重い鉛のような両足を叩き、100円の缶コーヒーを一気飲みのようの喉に流し込んだ。
ついに、施設内でクラスター(集団感染)が発生したのだ。
その日を境に、シフト表という概念は消滅した。
『夜勤からそのまま昼勤へ』。それが、今の紡たち残されたスタッフの「日常」だった。
ガサガサと音を立てるビニール製の防護服。ゴーグルを装着し、N95マスクを二重に重ねる。それだけで、酸素が薄くなるような錯覚に陥る。
一歩、隔離エリアのフロアに足を踏み入れれば、そこは完全な戦場だった。
「お姉ちゃん、お熱測らせてね……。あ、ちょっと高いな。冷たいお水持ってきますからね」
「佐藤さん、ダメです! マスク外さないで!……お願い、外さないで……っ!」
認知症を患う利用者たちは、なぜ自分がこんなビニールだらけの部屋に隔離され、宇宙人のような格好をしたスタッフに囲まれているのか理解できない。パニックになり、防護服を引き裂こうとする手を、紡は必死で抑え込む。
防護服の中は、自分の汗で水浸しだった。
息をするたびにマスクが口元に張り付き、ゴーグルの中は涙と汗で曇って前が見えなくなる。
それでも、紡は絶対にフロアから逃げなかった。
(私が……私がリーダーなんだから。ここで私が休んだら、このおじいちゃんたち、本当に死んじゃう)
そして頭の片隅には、いつだってあの不格好な「数字」があった。
(お姉ちゃんの施設代が値上げで足りなくなる。ここで私がシフトを1回でも外れたら、、、、今の私の連続勤務は……あと何回残れば、余裕ができる??)
もう、自分の体力が限界なのは分かっていた。
階段を上るだけで心臓が破裂しそうに脈打ち、指先は常に小さく震えている。
けれど、紡の心を支えていたのは、先週の金曜日に結衣と交わした「約束」だった。
『ごめんね、お姉ちゃん。来週は、絶対に大好きなガタゴト(電車)でお迎えに行くから。だから、卵焼き、そのとき一緒に食べようね』
その約束だけが、濁流のような過酷な日々の中で、紡を繋ぎ止める唯一の命綱だった。
――金曜日の午後2時。
本来なら、数時間後には仕事が終わって、駅へ結衣を迎えに向かっているはずの時間。
隔離エリアの事務所内で、紡がフラフラになりながら日報を入力していると、ポケットの中のスマホが震えた。
液晶に表示されたのは、『結衣ちゃん施設』の文字。
紡は、震える手で防護服の手袋を脱ぎ、スマホを耳に当てた。
「……もしもし、お姉ちゃん?」
『つむぎぃ! つむぎぃ!』
受話器の向こうから、一瞬でこちらの世界の汚れを洗い流すような、あまりにも純粋な結衣の声が響く。それだけで、紡の目から熱いものが溢れそうになった。
『つむぎ、いまどこ? おねえちゃん、まってるよ。ガタゴト、のる?』
「お姉ちゃん……あのね……」
紡は、声が震えそうになるのを必死で堪えた。
喉の奥がカラカラに渇いて、言葉がうまく出てこない。
『つむぎ、おねえちゃんね、たまごやき、つくったの! つむぎに、あげるの!』
「……卵焼き、作ったの?」
『うん! ちょっと、くろい(焦げてる)けど! おいしいよ! つむぎ、早くきてー!』
結衣は、紡との約束をずっと信じて、今日のために、不器用な手で卵焼きを作って待っていたのだ。
今すぐ行って抱きしめてあげたい。大好きな電車に乗せて、一緒に「おいしいね」って笑い合いたい。
けれど、ガラス窓の向こうを見れば、防護服を着た同僚が、今にも泣き出しそうな顔で利用者の対応に追われている。
今の紡に、この戦場を捨てる選択肢なんて、どこにもなかった。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
紡は、マスクの下で溢れ出る涙をボロボロと流しながら、精一杯の優しい声を絞り出した。
「お姉ちゃん、本当にごめんね。お仕事が……まだ終わらないの。今日もお迎え、行けなくなっちゃった……」
『……え? ガタゴト、のらないの? つむぎ、こない?』
電話の向こうで、結衣のトーンが目に見えて落ちていく。寂しそうな、今にも泣き出しそうな子供の声。
「ごめんね、本当にごめんね……っ。でも、お仕事が終わったら、絶対に、絶対にすぐ行くから。だからお姉ちゃん、施設の人のお話を聞いて、待っててね?」
『……うん。つむぎ、お仕事、がんばってね。おねえちゃん、待ってる……』
プチッ、と通話が切れた。
紡はスマホを握りしめたまま、ナースステーションのデスクに突っ伏した。
防護服の袖が、涙で濡れて重くなっていく。
「ごめん……ごめんね、お姉ちゃん……っ!」
悪人なんて、一人もいない。
お姉ちゃんはただ、私に卵焼きを食べさせたくて待っていただけ。
私はただ、お姉ちゃんの生活を守りたくて、利用者の命を守りたくて、ここで働いているだけ。
なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「リーダー……交代の時間ですけど、次の早番の木村さん、やっぱり体調崩して来られないみたいで……」
同僚の消え入りそうな声が響く。
紡は、ぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
心も体も、すでに、限界という名の薄い氷の上を歩いているようだった。
「分かった。……私、そのまま次のシフトも残るから」
その選択が、自分をさらに深い底へと引きずり込んでいくとも知らずに、紡は再びゴーグルを厳重に締め直した。
続く
第4話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
執筆しながら、私自身も防護服の中の紡ちゃんの涙や、結衣ちゃんの切ない声に胸が締め付けられる思いでした……。悪人が誰もいないのに、状況のせいですれ違ってしまう二人が本当に愛おしく、そして切ないです。
ここでようやく、本作のタイトルである『焦げ目のついた、きみの卵焼き』のフレーズが登場しました。結衣ちゃんが不器用な手で一生懸命作った卵焼き、いつか二人で一緒に食べてほしいと願うばかりです。
第5話は「すれ違う正義」。限界を迎えた現場で、ある「大人の味方」が紡ちゃんに手を差し伸べますが、そこで紡ちゃんが頑なに隠していた「あるプライド」が爆発します。
紡ちゃんと結衣ちゃんの旅路を最後まで見守っていただける方は、ぜひ画面下部にある【ブックマーク登録】や、評価の【ポイント(★★★★★)】をいただけますと、執筆の大きな励みになります!
次回の更新もよろしくお願いいたします。




