第3話:「最初の綻び」
3話目です
ちょっと当時を思い出してます
――ウー、ウー、ウー。
施設の裏手にある勝手口で、紡は使い捨てエプロン(防護服)の袖に腕を通しながら、遠くで鳴り響く救急車のサイレンを聞いていた。
冷たい風が、防護服の薄いビニールを揺らす。ついに、恐れていた事態が起きた。
『ひだまりの家』の入所者から、例の新型感染症の陽性者が確認されたのだ。
「主任! 3階のショートステイの利用者様、発熱です! 抗原検査、陽性出ました!」
「2階のユニットでも隔離スペース作らなきゃダメです、人手が足りません!」
インカムから飛び込んでくる怒号のような悲鳴に、紡は「落ち着いて!」と声を張り上げた。
若くしてフロア主任を任された責任が、今、紡の細い肩にズシリと乗しかかっている。フロアの全責任は私にある。私がパニックになったら、この場所は終わる。
しかし、本当の地獄は「ウイルスの恐怖」そのものではなく、そこから始まった「ドミノ倒し」のような現場の崩壊だった。
「主任、すいません……! 私の娘が発熱しちゃって、濃厚接触者になっちゃって。明日から出勤できません……!」
「紡さん、ごめんなさい、私もさっき熱を測ったら38度あって……」
一本、また一本と、スタッフの携帯から絶望的な連絡が入る。
元々ギリギリの人数で回していた現場だ。スタッフが数人抜けただけで、シフト表は一瞬でただの紙クズと化した。
利用者の食事、排泄、体位変換、そして館内の徹底的な消毒。それらを、残された僅かな人数でこなさなければならない。防護服、ゴーグル、二重のマスクを着用しての業務は、通常時の何倍もの体力を削っていく。エプロンと手袋の中はサウナのように暑く、汗が目に入って染みた。マスクの紐が耳に食い込んで、擦り切れた皮膚がズキズキと痛む。
「みんな、大丈夫だよ! 家族がいる人はそっちを優先して! ここは私と、動ける人でなんとか回すから!」
紡は笑顔を作った。けれど、彼女の脳内では、主任としての責任感とは別の、もっと切実で悲しい「計算」が始まっていた。
(今月はお姉ちゃんの施設利用料の値上げ分、……私の手取りは、フロア主任の手当がついたって20万そこそこ。夜勤の手当は1回4000円。……ここで私がシフトに穴をあけたら、今月の給料、足りるか?)
「夜勤の交代スタッフが来られない?……分かりました、私がそのまま残ります」
「明日の早番が足りない?……大丈夫です、私がそのままカバーします」
丸1日近くの勤務のあと、仮眠を3時間だけ取り、再び12時間勤務に入る。そんな生活が1週間続いた。
頭がぼーっとする。利用者の名前が一瞬、思い出せなくなる。深夜の廊下を歩いていると、眠気で視界がぐにゃりと歪んだ。
(だめ、しっかりして、私。車検の代金だってあるんだから。愛車の軽、あれがないとお姉ちゃんを施設に送っていけない……)
金曜日の夜。本来なら、結衣ちゃんをお迎えに行くはずの夜だった。
誰もいない休憩室で、紡は冷え切った100円の缶コーヒーを握りしめながら、スマホの画面を見つめた。
待ち受けは、先月、お迎えの「行き」の電車の中で撮った結衣ちゃんの笑顔。電車が大好きな結衣ちゃんは、ガタゴトと揺れる車内で、本当に幸せそうな顔をしていた。
(ごめんね、お姉ちゃん。今日は、大好きなガタゴトに乗せてあげられない……)
携帯が震えた。結衣ちゃんの施設からだった。
『つむぎー! つむぎー!』
画面の向こうから、何も知らない、無邪気な結衣ちゃんの声が響く。
「お姉ちゃん……ごめんね。今、お仕事がすっごく忙しくて、今週末はお迎えに行けないの……お姉ちゃん、施設で待ってられる?」
『つむぎ、いそがしい? がんばれー! おねえちゃん、たまごやき、れんしゅうして、まってるよ! つむぎ、だいすきー!』
「うん、来週は絶対にガタゴト(電車)でお迎えに行くから、、私も、大好きだよ」
『あい、まってるねー』
結衣ちゃんの純粋な応援が、今の紡にとっては、胸を締め付ける鋭いナイフのようだった。
お姉ちゃんは、私のために不格好な卵焼きを練習して待ってくれている。なのに、私はお迎えにすら行ってあげられない。
「……うん、ありがと、お姉ちゃん。」
通話を切った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、涙がポロポロと冷たい缶コーヒーの缶に落ちていった。
泣いている暇なんてないのに、涙が止まらない。
窓の外を見る。いつもなら、二人で楽しい時間を過ごしているはずの夜の街。
紡は袖で乱暴に涙を拭うと、パンパンに張った足を引きずりながら、再び防護服の袖に腕を通した。
彼女の限界のメーターは、すでにレッドゾーンを遥かに超え、終わりへと向かってカウントダウンを始めていた。
続く
次回:「終わらない夜勤」
時期的にそろそろ暑くなってきますね
普通に発熱する利用者(多分水分取ってない)、感染症対策の通知とかの時期ですかね




