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第10話:「焦げ目のついた約束」

前話では、お兄ちゃんの機転によって、結衣ちゃんのスマホ問題が最も優しい形で解決しました。お兄ちゃんの成長ぶりに、温かい応援をいただき本当に嬉しいです。


そして迎える第12話中の第10話。

ついに、本作のタイトルである『焦げ目のついた、きみの卵焼き』の意味が完全に明かされる【タイトル回収回】となります!


退院して我が家に帰ってきた紡ちゃんを待っていた、不器用で、温かくて、少し焦げた奇跡の味。

ハンカチをご用意の上、彼らの一歩をお見逃しなくどうぞ!

カチリ、と静かなアパートの廊下に鍵の開く音が響いた。


「ただいま……」


一週間ぶりに我が家の玄関をくぐった紡の体調は、すっかり回復していた。

まだ少し身体は軽かったが、点滴のおかげで肌のガサガサは消え、目の下の泥のような隈も綺麗に引いている。何より、心の中にあった言いようのない焦燥感が、嘘のように消え去っていた。


靴を脱ぎ、リビングのドアを開けた瞬間、紡は「え?」と足を止めた。


いつもなら、自分が帰宅すると静まり返っているはずの部屋から、ひどく賑やかな音が聞こえてきたからだ。


「あーっ! 結衣、そっちじゃない、火が強い!弱火、弱火!」

「よわび! ぽん、する?」

「そうそう、そのボタンを左に回すんだ。よし、じゃあ次は溶き卵を流すぞ。ゆっくりな?」

「ゆっくりー!」


キッチンから聞こえるのは、低くて不器用な兄の声と、それに楽しそうに応える姉の声。

恐る恐るキッチンを覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。


頭にタオルを巻いた蓮が、結衣の背中から包み込むようにして立ち、結衣の小さな手を自分の大きな手で包み込んでいる。二人は一緒にフライパンの取っ手を握り、真剣な表情でコンロに向かっていた。


知的障害のある結衣は、一人では危険なため、これまで絶対に介助なしで火を使わせることはなかった。包丁も火も、紡がすべて先回りして遠ざけていた。

けれど今、お兄ちゃんという強固な「盾」と「支え」を得たことで、結衣は生まれて初めて、温かいコンロの前に立っていた。


「あ! つむぎ!!」


紡の視線に気づいた結衣が、顔を輝かせてフライパンを持ったまま振り返ろうとする。


「危ねえ! 前向け前向け!」

蓮があたふたしながらフライパンを支え、コンロの火を消した。蓮の額には、内装の現場仕事の時よりも大量の汗が滲んでいる。


「紡。……退院、おめでとう」

蓮が照れくさそうにタオルで汗を拭う。


「お留守番、できたよ! おにーちゃんと、作ったの!」

結衣は自慢げに胸を張り、キッチンのカウンターを指差した。


そこには、白いお皿の上に、一切れのお皿に盛られた『卵焼き』が乗っていた。

お世辞にも綺麗とは言えない。形は不揃いで、斜めに傾いていて、ところどころに、黒くて不器用な「焦げ目」が点々とついている。


「結衣がな、お前が帰ってきたら、どうしてもこれを食わせたいって聞かなくて。俺が横で手を添えて、なんとか形にしたんだが……ちょっと焦げちまった」


蓮がバツが悪そうに頭を掻く。

紡は引き寄せられるように食卓の椅子に座り、お箸を持った。


(あ……)


その焦げ目のついた卵焼きを見た瞬間、紡の脳裏に、遠い昔の記憶が鮮烈に蘇った。


まだ父親が生きていて、母親が優しかった頃。

日曜日、家族4人でコタツを囲んで食べた、ちょっと甘すぎる卵焼き。いつも母親が、白身と黄身が混ざりきっていない、少し焦げたやつをフライパンからお皿にポンと移してくれた。

あの頃、私たちは間違いなく「普通の家族」だった。


お箸で小さく切り分け、口に運ぶ。

じゅわりと、不器用な甘みと、少し苦い焦げの香りが口いっぱいに広がった。


「甘い……。ちょっと、焦げてる……」


「あ、やっぱり苦いか? すまん、火加減が――」


「ううん」


紡は首を振った。

目から、一滴の涙がポロリとこぼれ、お皿の淵に落ちた。

それは、防護服の中で流した孤独の涙でも、面会室で叫んだ絶望の涙でもなかった。

胸の奥がじんわりと熱くなるような、温かい、嬉し涙だった。


「美味しい。……すっごく、美味しいよ、結衣ちゃん。お兄ちゃん」


「本当!? やったぁー!」

結衣は子供のようにパチパチと手を叩いて大喜びし、蓮の腰に抱きついた。蓮もまた、本当に安心したように、優しく目元を緩めていた。


2年前、お兄ちゃんが消えたあの日、この家から「家族の味」が消えた。

紡は生きるために、お姉ちゃんを守るために、「完璧な介護者」にならなければいけないと自分を追い込み、料理の味なんて感じる余裕もないまま、栄養を摂るためだけに白米を口に詰め込んできた。


けれど、いま食べているのは、ただの栄養じゃない。

誰かが自分のために、一生懸命に手を火傷させながら作ってくれた、世界で一番贅沢な贈り物だ。


「紡、これからは毎日、この味だ」

蓮が、紡の目を見つめて静かに言った。


「俺が飯を作る。お前が遅い日は、俺が結衣と一緒に待ってる。もう、一人で冷たいコンビニ弁当を食べるな」


「……うん。……うん、お兄ちゃん……っ」


紡は何度も頷き、焦げ目のついた卵焼きを、愛おしそうに最後の一口まで大切に噛み締めた。


カーテンの隙間から差し込む夕日は、3人の影を優しく、一つの大きな影へと繋ぎ合わせていた。


続く

次回、第11話は「それぞれの選択」。

『ひだまりの家』のクラスターがようやく終息へと向かう中、退院した紡ちゃんに、お兄ちゃんから「ある重大な報告」があります。さらに、これまで「フロア主任」の重圧に縛られていた紡ちゃんが、初めて自分の人生について考え始める、前向きな自立の回となります。


あと二回、いい感じに終わればいいな

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