サクヤヒメ
誰も動かなかった。
蔵の空気が、妙に重い。
湿った木の匂いも、外の祭りの音も、全部遠くなった気がした。
女は静かに立っている。
長い髪。薄い色の着物。花びらみたいに揺れる袖。
なのに、不思議と“人”には見えなかった。
桜子が最初に口を開く。
「……え、誰?」
声が少し掠れていた。
女はすぐには答えなかった。
ただ花組を順番に見ていく。
確かめるみたいに。
「数百年ぶりですね」
静かな声だった。
怒っているわけでも、笑っているわけでもない。
感情が薄い。
「ようやく、ひとつの場所に集まりましたか」
「いやだから誰」
椿希が半笑いで言う。
「怖い怖い怖い。何これ。ドッキリ?」
「桜子ん家こんなのあったの?」
「知らないって…」
桜子もさすがに引いていた。
女は少しだけ首を傾ける。
「私の名は、サクヤヒメ」
その名前が落ちた瞬間。
蔵の空気がさらに冷えた気がした。
雪羽が小声で呟く。
「……なんか聞いたことある」
「花の神様みたいなやつじゃなかった?」
柳羽も言う。
紫陽がはっとした顔をする。
「え、待って。祭りのやつ?」
町の昔話。
花祭り。
蔵の巻物。
年寄りがたまに話す、“サクヤヒメ様”。
でも、それはただの伝承だったはずだ。
「は?」
丹奈が乾いた笑いを漏らす。
「いやいや、神様ってこと?」
「その認識で問題ありません」
さらっと返された。
空気が止まる。
「いや問題あるけど」
朝佳が真顔で言った。
「めちゃくちゃあるけど」
サクヤヒメは気にした様子もない。
そのまま絵巻へ視線を落とす。
すると、巻物の絵が動いた。
黒い何か。
墨みたいなものが、絵の中で蠢いている。
「うわっ」
梅依が後ろへ下がる。
朝佳も黙ったまま桜子の服を掴んだ。
「現在、“亡き色”の侵食が進んでいます」
サクヤヒメが言った。
「亡き色?」
紫陽が聞き返す。
「色を喪ったものです」
さらりと言う。
まるで天気の話でもしているみたいに。
「人の願い。祈り。忘れられた感情。それらが澱み、形を持った」
巻物の中で、黒い影が花を飲み込む。
色が消える。
花が灰色になる。
「放置すれば、世界から色が消えます」
沈黙。
数秒遅れて、
「いや待って待って待って」
丹奈が手を上げた。
「急に話デカすぎる」
「世界とか言われてもさぁ」
「ていうか何? RPG?」
椿希はちょっと笑っていた。
怖がっているというより、まだ現実感がない。
花火のあとの、変なテンションをそのまま引きずってる感じ。
雪羽が巻物を覗き込む。
「じゃあ、これ倒せばいいの?」
「はい」
サクヤヒメは頷いた。
あまりにも自然に。
「あなたたちなら可能です」
「なんで?」
菊音が聞く。
サクヤヒメは少しだけ目を細めた。
「花だからです」
意味が分からない。
でも、不思議とその場の誰も“完全には否定できなかった”。
蔵の空気のせいか。
目の前の存在のせいか。
現実感が、少しずつ壊れていく。
「え、ちょっと待って」
梅依がまだ戸惑っている。
「倒すって、どうやって」
その瞬間だった。
ぱき、と音がした。
蔵の奥。
暗闇の中。
何かが動く。
全員の視線がそっちへ向く。
黒い。
真っ黒な、人みたいな形。
でも顔がない。
輪郭が滲んでいる。
「……は?」
桜子が呟く。
それは、ゆっくりと立ち上がった。
床に黒い染みを広げながら。
ぞわ、と空気が冷える。
「初期個体ですね」
サクヤヒメは振り返りもしない。
「ちょうど良いでしょう」
「ちょうど良くないけど?!」
丹奈が叫ぶ。
その瞬間、黒い影が動いた。
速い。
一瞬で距離を詰めてくる。
「っ!」
椿希がとっさに前へ出た。
次の瞬間。
ガンッ!! と鈍い音が響く。
黒い影が、見えない何かに弾かれていた。
花びらだった。
淡い色の花びらが、空中に舞っている。
全員が固まる。
サクヤヒメが静かに言った。
「力は既に開花しています」
その言葉と同時に。
花組の足元に、光が広がった。




