ひとつの夜の中で
隣の部屋の音は、しばらくして止んだ。
何事もなかったみたいに。
静けさが戻ると、それが逆に重く感じる。
桜子は布団の上で横になったまま動かなかった。
眠気はあるのに、眠れない。
目を閉じると日記の文字が浮かぶ。
『帰りたいと思っていると思う』
その言葉だけがやけに残っている。
どれくらい経ったか分からない頃。
コンコン、と小さな音。
「……桜子」
椿希の声だった。
「起きてる?」
「起きてる」
すぐに襖が少し開く。
椿希だけじゃない。
後ろに朝佳と梅依もいる。
「無理に来た」
朝佳が言う。
「寝れないだけ」
「同じ」
梅依が短く続ける。
三人、勝手に部屋に入ってくる。
さっきまでの「一人時間」のルールはもう崩れていた。
誰も守る気がなかった。
桜子は少しだけ体を起こす。
「そっちも?」
「うん」
椿希が即答する。
沈黙。
でも気まずさじゃない。
空っぽに近い沈黙。
朝佳が天井を見る。
「さっきさ」
「うん」
「考えてたんだけど」
少し間を置く。
「日記書いた人、最後どうなったんだろ」
その言葉で空気が少し冷える。
梅依が布団の端を握る。
「分からない」
「でもさ」
朝佳は続ける。
「途中で終わってるってことは、何かあったってことでしょ」
誰も否定できない。
桜子は窓を見る。
桜はまだ揺れている。
同じ動き。
ずっと同じ。
「怖いって思っていいって書いてた」
椿希がぽつりと言う。
「うん」
「でもさ」
言葉が詰まる。
「それ言っても状況変わらないじゃん」
静かになる。
正しい。
どうにもならない。
言っても消えない。
怖さは残る。
朝佳が小さく笑う。
「ほんとそれ」
でも笑えていない。
梅依が視線を落とす。
「じゃあ、どうすればいいの」
誰も答えられない。
その問いだけが宙に残る。
桜子は少しだけ口を開く。
「分かんない」
正直な声だった。
「でも」
続ける。
「一人よりはマシ」
それだけ。
それだけしか言えなかった。
椿希が少しだけ頷く。
「それはそう」
朝佳も小さく頷く。
「じゃあここでいいか」
「何が」
梅依が聞く。
「眠れない会」
「名前ダサ」
少しだけ空気が緩む。
ほんの少し。
それでも十分だった。
その時。
廊下の向こうで足音がした。
規則的じゃない。
ゆっくりでもない。
止まりかけては進むような音。
全員が一瞬で黙る。
視線が襖に向く。
足音はそのまま通り過ぎる。
止まらない。
何も起きない。
でも。
誰も息を抜かなかった。
足音が遠ざかるまで。
ずっと。
それが消えたあと。
朝佳が小さく息を吐く。
「今の、誰」
誰も分からない。
サクヤヒメではない気がした。
でも確かめる勇気もない。
梅依が布団に潜る。
「もう寝る」
「急」
「怖いから寝る」
正しい判断だった。
椿希も同じように横になる。
桜子も布団に戻る。
天井を見る。
静か。
でもさっきより少しだけ違う静かさ。
誰かが近くにいる静かさ。
眠れない夜は続く。
それでも。
完全な一人じゃなくなっただけで。
ほんの少しだけ。
呼吸は楽だった。




