3.【出題編】終わりと始まり①
翌日の午前中、11時きっかりにサー・ロバートはやってきた。
黒のフロックコートにグレーのズボン、仕立ての良いトップハットという儀礼上は文句のつけどころのない出で立ちだ。
彼は最近の流行に流されることなく伝統的な服装を堅持することが准男爵家の威信を高めることになると思っているのだ。
「サー・ロバート・カーライルがお着きです」
いつも通りグレンロス家の家政婦長兼料理人のミセス・ボウルが客人を客間に案内する。
そこで待っていたのはミセス・グレンロスだった。
彼女は先代男爵の喪に服している証である黒いモーニングドレスの裾を無意識に握りしめた。
「ミセス・グレンロス」
「サー・ロバート」
サー・ロバートはいつも通りを装って笑顔で挨拶し、ミセス・グレンロスもそれを笑顔で受ける。
ミス・アンソンが紅茶を運んでくると、ミセス・グレンロスはサー・ロバートと自分の紅茶を注いだ。
サー・ロバートはいつも通り何も味をつけない紅茶を一口飲むと世間話を始めた。
「昨日の〈クロニクル〉の朝刊をご覧になりましたかな?また〈静かなる猫〉が出たようですな」
「あの窃盗団ですわね。今度はセント・ジェームズの男爵邸から真珠のネックレスが盗まれたとか」
「実は私はその男爵家とは懇意にしていまして。新聞には出ていないが、男爵家の人々が窃盗に気づいたのは被害から数日後だったそうですよ」
「まあ、噂通り猫のような静かさですのね」
「それもありますが、男爵夫妻が領地に行かれる際に金庫の中身を銀行に移していなかった執事の怠慢と言わざるを得ませんな。そのネックレスは男爵の母上から男爵夫人への贈り物だったらしく、義母からの贈り物を粗末に扱っていたと思われた男爵夫人は大変気まずい思いをしていらっしゃるとか」
「あら、お気の毒に。でも、この前は銀行の金庫に預けていたティアラも盗まれたと聞きましたから、結果は同じだったかもしれませんわ」
「全くですね。どこにも安全な場所はないということだ」
ミセス・グレンロスはいつもより砂糖もミルクも多めに入れた紅茶を飲みながら無難に相槌を打つ。
しかし、内心では彼が本題を切り出すのを緊張しながら待っていた。
「ところで、ミセス・グレンロス、<ロンドン・ガゼット>を見ましたよ。
ミス・グレンロスの爵位継承、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
サー・ロバートはミセス・グレンロスの顔色を伺うようにティーカップを口に運びながら目線を向けた。
「あなたも安心なさったでしょう」
「安心?」
「ミスター・グレンロス亡き後、この規模のお屋敷をレディだけで維持していくのは大変だ。男爵領からの収入があれば心強い」
「そうかもしれませんわね」
ミセス・グレンロスはティーカップの取っ手を握りしめる。
「ところで、今日はお伝えしたいことがあってまいりました」
サー・ロバートはわざとらしく眉尻を下げた表情を作る。
まるでそうすることによって相手がこれから彼が話す内容を快く了解せざるを得なくなるとでも思っているようだ。
「いまやミス・グレンロスはメラヴェル男爵位を継承されて本物の貴族におなりだ」
「ええ、そういうことになりますわね」
ミセス・グレンロスはますますティーカップの取っ手を握る手に力を込める。
「そうなると、准男爵家でしかない当家の息子にはあまりに過ぎたレディということになる」
ミセス・グレンロスは表情は平静に保ったまま、先を促す意図で軽く頷く。
「つまり、あなたとミス・グレンロスには大変申し訳ないのですが、この婚約は破棄させていただきたい」
サー・ロバートはますます眉尻を下げる。
しかし、そんな表情をされたところで、ミセス・グレンロスの不快感は増していくばかりだ。
「あなたのお考えはわかりました。
しかし、ミスター・ジョナサン自身のお考えは?」
婚約者の父親にこう言われた以上、婚約は破棄するしかないだろう。
しかし、娘のためにもせめてジョナサン自身の考えを確認しておきたいとミセス・グレンロスは思う。
彼女の娘はまだジョナサンを愛していなかったにせよ、ジョナサンが彼女を好いてくれていたことについては嬉しく思っていたはずだ。
「息子の考えもなにも、これは息子から言い出したことです」
サー・ロバートは全く悪びれなく言う。
「息子も自分とミス・グレンロスは釣り合わないと申しておりました」
――そうでしょうとも。
ミセス・グレンロスはレディの分を超えない範囲で内心毒づく。
それを言うなら、最初からジョナサンは娘に釣り合わなかったのだ。
彼はアメリアが本当は彼よりもフランス語が流暢なのにできないふりをしていることにすらずっと気づいていないのだから。
「わかりました。そういうことなら、婚約はなかったことに」
「ご理解いただけて感謝いたします。ミス・グレンロスにもよろしく」
それだけ言うと、サー・ロバートはさっさと立ち上がる。
ミセス・グレンロスはこれが最後の彼の訪問になるだろうと思い、敢えて自ら彼を玄関まで見送ることにした。
サー・ロバートは軽く礼をして、ミセス・ボウルから受け取ったトップハットを被り玄関の外へ一歩踏み出すが、そこで振り返る。
「もし、ミス・グレンロスとあなたが本気でジョナサンとの結婚をお考えだったのなら、爵位を請求しないという選択肢もあったのでは?
適格な男子の継承者がいない爵位など休止状態にしておけば良かったんだ」
全くもって余計な一言だった。
ミセス・グレンロスは拳を強く握りしめ、控えていたミセス・ボウルですらも目を見開く。
「あなたにはご理解いただけないでしょうが、あの子は自分の責任は必ず果たす子です。
先代男爵から託された家や領地を放棄することはいたしません」
そこまで一気に言うと、ミセス・グレンロスは自分のレディらしくない言葉に少し驚くがここで止める気にはなれなかった。
「それから一つ言っておきますが、我が娘はもうメラヴェル女男爵です。
彼女のことは今後『ミス・アメリア・グレンロス』ではなく『レディ・メラヴェル』とお呼びください」
サー・ロバートは声にならない声を上げてミセス・グレンロスの鼻先で乱暴にドアを閉めて去っていった。
しばしの沈黙の後、ミセス・ボウルが小声でつぶやく。
「お見事でございます、奥様」
ミセス・グレンロスは弱々しく微笑んだ。
***
グレンロス家はロンドンの中上流階級の社交界で中心とまでは言わないにせよそれなりに存在感のある家だったが、その日、母子は珍しく客人のいない昼食をとった。
彼女たちが喪中ということもあるが、昨日<ロンドン・ガゼット>にアメリアの爵位継承の件が掲載されたばかりで、従来からの友人たちはまだ距離を測りかねているのかもしれない。
「――そういうわけで、婚約破棄に応じることにしたわ」
こういう話は食事など気のまぎれることをしながらした方が良いと判断したミセス・グレンロスはアメリアに婚約破棄の件を掻い摘んで話した。
もちろん、最後にサー・ロバートが「結婚したいなら爵位を継ぐべきではなかった」と言ったことには言及していない。
「そう……やっぱりね」
そう呟いてアメリアは取り乱すこともなく、ただ考え込むようにした。
アメリアはこの婚約を「適切な婚約」だと思っていた。
アメリアの父は既に亡くなっているものの、客観的に見て中上流階級の上層にある家庭同士の歳の近い男女が結婚することは、この上なく「適切」なことだと考えていた。
彼女自身は婚約者だったミスター・ジョナサン・カーライルを愛してはいなかったが、彼の方では自分を気に入ってくれているのはわかっていた。
結婚というのは家同士のビジネスではあるものの、アメリアは、そうした個人的な感情の存在もまた結婚には大切だと考えていた。
そして、いつの日か自分もジョナサンに対してそうした個人的感情を抱くことを期待していた。
しかし、母の話からすると、この婚約破棄は彼自身の望むところでもあったようだ。
実際、もし、婚約破棄がジョナサンの意思に反しているのであれば、少し向こう見ずなところがある彼は、父親に隠れて手紙の一つでもくれるだろう。
それなのに何の音沙汰もないということはそういうことなのだとアメリアは思った。
昼食が終わり午後用の喪服に着替えながら、アメリアは鏡の中の自分を見る。そこには服装こそ大きく違うものの、先代男爵が亡くなった夜と同じ女性が映っている。
やや暗い栗色のウェーブヘア、掴みどころがないヘーゼルの瞳、何か主張がありそうにも見える唇。
――私自身は何も変わっていないのに。
アメリアの頭に浮かぶのは果てしない疑問だった。彼女自身は先代男爵が亡くなる前のただのミス・アメリア・グレンロスから何一つ変わっていない。
しかし、肩書が変わっただけで、婚約者でさえも態度を変えるのが現実なのだ。
「お嬢様、午後にはエルデンハースト伯爵夫人がいらっしゃいますが、髪型はいかがいたしましょうか」
鏡の中のミス・アンソンが気づかわし気にアメリアを見ている。
「そうね。喪中だし、いつも通りでいいわ」
――今は気に病んでも仕方がない。
新しいメラヴェル女男爵として新しい世界で生き抜いていかなければならない。
まずは目下のエルデンハースト伯爵夫人の訪問をどう乗り切るかだ。




