トルエノの提案①
「トルエノ? なぜお前がここにいる」
トルエノの登場に驚いたであろうアベルは、凍るような視線で彼を睨みつけた。普通の学生ならこの眼光に怯んでしまいそうなものだが、トルエノは素知らぬ顔だ。
「そんなに睨まないでくださいよ。殿下のお姿が見えないので探していたのです。ジェルマンに尋ねたら、ここにいらっしゃるはずだと教えてくれたものですから」
「……ジェルマンは協力したいのか邪魔したいのか分からないな」
「お邪魔でしたか。申し訳ありません、僕もクラリス嬢がご一緒だとは思いもしなかったので」
「い、いえ……」
決して邪魔などではないけれど、驚いた。足音もなく近づき、背後で話を聞かれていたなんて思いもしなかったから。
「トルエノ様、声をかけてくだされば良かったのに」
「いえ、良い雰囲気でしたので、僕としましてもこのまま立ち去ろうかと思ったのですよ。でも、なにやらお困りのようでしたから」
「ええと……カルボの町のことですか?」
トルエノにはどこから聞かれていたのだろうか。
ハリオに襲われたあの時、アベルだけではなく彼も湖に居合わせた。事情は知られているし、聞かれてまずいことはないのだけれど。
「湖に行きたいけれど、カルボの町には立ち入れないとのこと……宿泊の場所に困っていらっしゃったのではありませんか? それならうちの別荘をご利用になればいかがでしょう」
「別荘……といいますと?」
トルエノはランカステル公爵家の嫡男である。我が国屈指の名門であるランカステル公爵家は、私有地も多く所有しているのだろう。けれどあのような田舎に、別荘なんて——
「……あっ! もしかしてカロリーナがいらっしゃるというお屋敷ですか?」
「そうです。我が家にはあの湖の近くに別荘がございます。カロリーナの静養のために用意したものなのですが」
トルエノの妹であるカロリーナは、胸の持病のために家族と離れて暮らしている。それがあの湖近くの別荘だった。
カロリーナと出会ったのも、釣りをしていたあの湖だった。幼い彼女がお付きの者と散策に訪れるくらい、近い場所にあるのだろう。
「カルボの町と我が家の別荘は、幸いなことに湖をはさんで反対側にあります。それなら住民達と鉢合わせる可能性も少ないでしょう」
「そ、そうでしょうか。でも……」
ランカステル公爵家の別荘を利用させてもらえるのなら、クラリスとしてはありがたい。それほど湖と近いのなら、夜に訪れることもできるだろう。
しかし、クラリスは覚えている。
カロリーナの、羨望の眼差しを。きらきらと輝く曇りなき眼を。
彼女はクラリスを女神だと信じていた。クラリスとしても女神を騙ることに罪悪感はあったものの、カロリーナをがっかりさせたくないというトルエノの兄心もあり、最後まで女神として演じきってしまったのだ。
「カロリーナは私のことを女神だと信じています。なのによろしいのでしょうか。私が屋敷に現れたら、彼女が驚いてしまうのではないですか?」
「そこはクラリスの演技力にかかっております」
「えっ!?」
トルエノはさも当たり前のように、クラリスへ驚きの要求をした。まさかのまさかだけれど——
「まさか、カロリーナの前では女神のままでいろと……?」
「その通りです、クラリス嬢。あなたが嘘をついていたと知れば、カロリーナが傷つくではありませんか」
「で、ですが! そんな演技バレてしまうと思います。女神なのに、湖を離れて食事をして、皆と共にベッドで寝るのですよ!? カロリーナだってさすがにおかしいと思うでしょう?」
出会った場所が湖だったからこそカロリーナも信じていたけれど、女神が別荘で人間同然の生活をしていては不審がられても仕方がない。
と、思うのだけれど……トルエノはカロリーナが可愛くて仕方がないらしく、どうしても別荘にクラリスを招きたいらしい。
「カロリーナは『また女神にお会いしたい』と、そのように手紙に書いておりました」
「は、はあ」
「今度はあなたがカロリーナに会いに行くのです、クラリス嬢。大丈夫です、カロリーナは純粋な子ですから、あなたが上手く演技して下されば疑ったりなどしませんよ」
これはもう、困っているクラリスたちに手を差し伸べたいというよりも、カロリーナの望みを叶えたいという兄としての気持ちに傾いている気がする。
クラリスとしてもカロリーナの気持ちに応えたいと思うけれど、そんなに上手くいくものだろうか。
「クラリス嬢、別に無理しなくてかまわない。元々、女神を名乗ることに罪悪感があったのだろう。無理矢理トルエノの話に乗る必要も無い」
「いえ、湖へ行くチャンスがあるのなら行って確かめてみたいとも思うのです。ただ、私にうまく演技ができるかどうか、なのですが……」
「良かったです、クラリス嬢は行きたいと仰ってくれるのですね! きっとカロリーナが喜びます、すぐに知らせを届けなくては」
「あっ、トルエノ様!?」
クラリスの言葉を前向きすぎるほど前向きに受け取ったトルエノは、足早に書庫から去ってしまった。さっそく、カロリーナに手紙で知らせるつもりなのだろう。
「行ってしまわれましたね……」
「すまない、あいつはああいう奴なんだ」
クラリスとアベルは思わず顔を見合わせる。
そして期待と不安に胸を膨らませたまま、再び二人きりで話を始めたのだった。




