女神の指輪②
『女神なんて、いないほうがいいのかもしれないわ。だからクラリス、あなたも夜の湖に行ってはだめよ』
寂しげな母の言葉を思い出したクラリスは、改めて絵本を読み返した。
【むかしむかし、深い森の奥に、月の光を映す静かな湖がありました。
その湖には、銀色の髪と星のように澄んだ瞳を持つ女神が住んでいました。】
「月の光を映す、静かな湖……」
数冊、挿絵を見比べてみる。どの絵本も、女神の登場シーンの挿絵には月の映った湖が描かれていた。
小さく波打つ湖面に、黄色い満月が揺れている。森は鬱蒼と暗く、それが湖の明るさを際立たせた。
女神が現れるのは夜。なぜ気付かなかったのだろう。
絵の中にはこんなにも、眩い月が浮かんでいるのに。
(お母様は、もっとなにかを知っていたのかもしれない。もし、夜の湖なら——)
「クラリス嬢、いるのか」
無心に絵本をめくり続けるクラリスの背後から、静かな声が響いた。
振り向いてみると、アベルがゆっくりとこちらに近づいてくるところだった。思わず、広げっぱなしだった絵本を片付ける。
「ア、アベル殿下……どうしてこちらに?」
「ジェルマンから聞いた。君がこちらに用があると言って、もう随分と経っていると」
「えっ」
クラリスは夢中になり過ぎて、時間を忘れていたようだ。書庫にかけられた柱時計に目をやると、時刻はもう正午を指そうとしている。
「本当だわ……つい没頭してしまっていて、時間に気付きませんでした。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いや、熱心に本を読み込んでいたのだな。どんな本を読んでいたのか聞いても?」
「えっ。それは、その」
クラリスは口ごもってしまった。
指輪について少しでも知りたくて、おとぎ話を調べに来たのだけれど……こんなことをアベルに話したら、呆れられるのではないだろうか。女神など所詮寓話の登場人物に過ぎないのに、皆に言われたことを真に受けてしまっている自分が少しだけ恥ずかしかった。
「……今朝、母の夢を見たのです」
「母君の……」
「夢では、母と指輪について話をしていました。そうしたら、色々と思い出すことがありまして、指輪のことをもっと知りたくなってしまって、それで……」
アベルからの真っ直ぐな視線に耐えきれず、クラリスは正直に打ち明けた。背中越しに隠した絵本の山を、仕方なく彼に見せる。
アベルはクラリスと絵本の山を交互に見たあと、金の指輪に目を落とした。
山積みにされた絵本を見て、どう思っただろうか。仕事もせずに、書庫で絵本を読んでいたクラリスに呆れてしまってはいないだろうか。
少し気恥ずかしく、クラリスは視線を彷徨わせる。しかしアベルからは予想だにしない言葉が返ってきた。
「母君と、指輪の話を……その指輪には、母君との思い出が詰まっているのだな」
静かに呟かれたアベルの声に、クラリスは思わず顔を上げた。
「夢に見るほど、母君が恋しいのだろう。君にその指輪があって本当に良かった」
「アベル殿下……」
いつもと変わらないその表情からは、アベルの心情が読み取れなかった。けれど彼の声には優しさがにじんでいる気がして、胸がじわりと熱くなる。
指輪に女神を期待されることはあっても、母の思い出と重ねてくれる人は初めてかもしれない。こんなことを言われたら……指輪がいっそう大切なものに感じられた。
「——そうか、君の母君はそのようなことを」
「はい。まるで女神についてなにか知っているようでした。でも、カルボの町に行くまでは湖と無縁の暮らしをしておりましたし、気にしたこともありませんでした。今朝、夢を見て不意に思い出したのです。母は不思議なことを言っていたなって」
クラリスはアベルを椅子へ促すと、机の上に絵本を広げた。女神の登場シーンである。
「夜の湖には、訪れたことがあるのか?」
「いいえ。釣りをするのはいつも昼間だけでしたし……」
カルボの町で暮らしていた頃、クラリスは毎日のように湖へ行っていた。生活のために、魚を釣っていたのだ。しかし夜に訪れる理由はなかった。
だからこそ、母が言う夜の湖になにがあるのか——知りたいと思ってしまう自分がいる。
「行きたいか?」
顔に出ていたのだろうか。クラリスの横顔を見ていたであろうアベルが、窺うように切り出した。
「え……?」
「母君が言っていた意味を、知りたいんじゃないのか」
母はなにかを知っていると思った。絵本を見る悲しげな瞳にも、女神を庇うような言葉にも、クラリスが知らない理由がある気がした。
そんな母が、夜の湖には行ってはいけないと言っていた。それは行ってはいけない理由があるからだ。ただ危険だというだけで、あんなふうに言うとは思えない。
「知りたい、とは思います。でも私は行けません」
「……しかし」
「カルボの町にはもう二度と行くことはないでしょう。きっと私は、あの町にとって招かれざる者でしょうから」
湖でハリオに襲われかけたあと、クラリス達は逃げるようにカルボの町を後にした。
ハリオも、すぐその場で捕らえられたらしい。あそこにはアベルの護衛も多く控えていたようで、暴行罪の現行犯として問答無用で連れ去られたそうだ。
あんなことをしでかしたハリオが罰を受けるのは当然のことだ。クラリスはそう思う。
ただしハリオは町長の息子だった。表の顔は穏やかで人当たりもよく、町を背負って立つ人物として、住人からは期待されていた。実際に町の住人達は圧倒的にハリオ一家の味方だった。クラリスの気持ちなんて無視できるくらいに。
ハリオを失ったカルボの町は、大きな痛手を負っただろう。よそ者であるクラリスのせいで。
「そうだな……君にとっては辛い場所だ」
「ええ。残念ながら」
あの湖へ行くには、どんなに急いでも宿泊が必要になる。となると、一番近いカルボの町を頼りたくなるけれど……あのような町だ。たとえハリオが悪かったとしても、もうクラリスを受け入れることは無いだろう。
湖を訪れることは諦め、クラリスは小さく息をついた。が、そこで思いがけない声がかかった。
「だったら、うちの別荘にいらっしゃいますか?」
二人きりだと思っていた書庫で、突然話しかけられる。クラリスとアベルが揃って後ろを振り向くと、すぐそこにトルエノがいるではないか。
「トルエノ様、いらっしゃったのですか……?」
「ごめんね。話が聞こえてしまったのですよ」
どうやら音もなく忍び寄り、クラリス達の会話に聞き耳を立てていたようだ。
アベルの幼馴染であるトルエノは悪びれることもなくニッコリと微笑んだ。




