女神の指輪①
◇◇◇
『お母さま、その指輪きれいね』
母の指で柔らかな曲線を描くのは、どこか懐かしいような雰囲気の漂う指輪。
クラリスの記憶にある母は、いつも指に金の指輪をはめていた。母は指輪を大切にしていて、クラリスがそれにそっと触れると、決まって嬉しそうに微笑んだ。
『きれいでしょう。これは私の宝物なの』
『宝物? 一番の宝物なの?』
『いいえ、一番はクラリスとローランよ! いつかこの指輪も、一番大切なあなたにあげる。私も、お母さまからいただいたの。どうか大切にしてね』
『うん! 嬉しい!』
憧れの指輪がいつか貰えるなんて思ってもみなくて、あの時はとっても嬉しかった。
まさか、こんなに早くに指輪がクラリスの手へ移るとは思っていなかったけれど——
「……お母様」
シンと静かな室内は、まだ明かりもなく薄暗い。
城の離れに用意された客間は居心地がよく、このところぐっすりと眠れている。
夢を見ていたようだ。久しぶりに母の夢を見た。
夢の中の母は記憶と変わらず美しかった。そして、指にはめられた指輪を愛おしそうに見つめていた。
自身の手にはめられた母の指輪を、母と同じように眺めてみる。窓越しに月明かりを受けた金色は、一際美しく輝いた。
皆を惹きつける、不思議な指輪だ。
母のこと、湖で出会ったカロリーナやカルボの町のハリオ、そしてアベルの侍従であるジェルマン……皆のことを思い返す。
(みんなこの指輪に何かを期待しているのよね)
母の形見として大切にしてきたけれど、なにも特別な力があるだなんて考えたことはなかった。
けれど、カロリーナはこの指輪を見てクラリスを女神だと信じ込んでしまって。ハリオはこの指輪で願いを叶えろと詰め寄ってきたし、ジェルマンさえもこの指輪に不思議な存在感があると興味を持っていた。
どうして、皆これほどまで指輪に惹かれてしまうのだろう。
母が残してくれたこの指輪。母の母も、そのまた母も——この指輪を大切に受け継いできた。そのことに、なにか意味があるのだろうか。
翌朝、クラリスはジェルマンに頼み、エルデリア城の書庫へ向かった。
城の書庫には、壁一面がすべて本で埋まるほど立派な書架があるという。さっそく書庫の扉を開けると、そこはもはや異空間だった。そこには、一般的な本から専門的な本まで、目が眩むほどの蔵書がずらりと並んでいる。
(素晴らしい規模だわ……! 学園の図書室の何倍になるのかしら)
以前通っていたエルデリア王立学園にも充分な蔵書数の図書室があったが、ここは桁違いだ。そのスケールに圧倒されつつ、クラリスは目当ての本を探しながら歩いた。
(あったわ。女神の絵本。こうして見ると……何冊もあるのね)
クラリスは数冊、おとぎ話の絵本を手に取った。古いものから新しいものまで、女神の絵本は何度も刊行されている。
(すごい……こんなに古いものまで。古語を習得しなければ完璧には読めないわ)
クラリスは、その古い絵本をパラパラとめくった。挿絵に描かれた女神の指には、やはり金の指輪がはめられている。
この本だけではない。新しい本に至るまで、ずっと女神の風貌は同じだ。銀髪に真っ白な肌、独特な曲線を描く金の指輪。どの挿絵にも同じようなデザインで描かれていることに、クラリスは困惑した。
(これじゃあ、みんながこの指輪と私を見て『女神』を連想してもおかしくはないわね……だって女神のお話は、この国の者なら誰だって触れるお話だもの)
クラリスだって、女神のおとぎ話は幼い頃から何度も読んだ。エルデリア国民にとっては、当たり前に語られるような馴染み深い物語なのだ。
【むかしむかし、深い森の奥に、月の光を映す静かな湖がありました。
その湖には、銀色の髪と星のように輝く瞳を持つ女神が住んでいました。】
【あるとき、森で道に迷った幼い子どもが、湖のほとりで女神に祈りました。
『どうかおうちへ帰してください』
すると女神が微笑んだ次の瞬間、子どもは見慣れた家の前に立っていました。】
【またあるとき、長い雨不足に苦しんでいた村人が、湖のほとりで女神に祈りました。
『どうか、村に水を与えてください』
その翌朝、乾ききっていた井戸から水が湧き、枯れかけていた畑にも再び緑が戻りました。】
【さらにあるとき、貧しさにあえぐ村人が湖のほとりで女神に祈りました。
『どうか村に富をお恵みください』
その翌日、村には金貨の山が築かれ、消えつつあった村は再び活気を取り戻しました。】
【それからというもの、村人たちは働きもせず、何度も湖で祈りました。
金貨を、銀貨を、財宝を。
しかし女神は現れません。】
【やがて人々は働くことを忘れ、村は次第に荒れ果てていきました。いつしか村は、地上から姿を消しました。】
この国に数あるおとぎ話の中でも、湖の女神のおとぎ話は教訓めいたものだった。
本によって多少の違いはあるものの、大筋は人間の愚かさを戒めるストーリーとなっており、村が滅びて終わる。バッドエンドだ。
幼い頃、母から読み聞かせられた時、クラリスはこの物語がとても怖かった。幼心に、女神はなんて冷たいのだろうと思ったのを覚えている。
けれど母は違った。
『女神は、悲しかったのじゃないかしら。私なんかいない方が良かったと、そう思って現れなくなったんじゃないかしら』
まるで女神の気持ちが分かるかのように、母はそう呟いたのだ。そして少し寂しげな瞳をした母は、クラリスの頭を撫でながらこう続けた。
『女神なんて、いないほうがいいのかもしれないわ。だからクラリス、あなたも夜の湖に行ってはだめよ』
(え……あれ? なぜ、お母様はあのようなことを言っていたのかしら……)




