ため息の理由
「はぁ……」
私室に戻ったアベルが、制服の上着を脱ぎながら小さなため息をついている。
その側で控える侍従のジェルマンは、いつものようにその上着を受けとった。
「アベル殿下、いかがされましたか?」
「いや……何でもない」
「そうでございますか。でしたら良いのですが……」
その曇り顔について、詮索はしないけれど。
何でもないはずはないのだ。日頃は眉ひとつ動かさないアベルが、このところ毎日のようにため息をついているのだから。
ここ数日のため息がジェルマンは心配でならない。予想はついている。おおかた、あの娘が原因であるのだろう。
お仕着せを身につけた、フロレンシオ子爵家の娘。一週間ほど前に、アベルが突然連れ帰ってきた少女だ。現在、彼女は弟達と共に離れへ身を置いている。
アベルと学園で知り合ったという彼女は、訳あって王都を離れ、カルボという田舎町で暮らしていたらしい。しかしそこで散々な目に遭ったようで、たまたま居合わせたアベルが直々に保護すると申し出たのだそうだ。
事の経緯を聞いたその日、ジェルマンは耳を疑った。
子供の頃から誰とも馴れ合おうとせず、『氷の王子』と称されるほどのアベルが、自ら誰かを特別扱いするなど初めてのことだったからだ。
しかも城に連れ帰ってくるほど、気にかける少女。アベル本人から明言は無いものの、これはただ事ではないと肌で感じた。
さっそく、ジェルマンは城内で働く者達に『クラリス嬢については丁重に扱うように』と通達を出した。
いずれアベルの寵愛を受けることになるかもしれない重要人物だ。とてもじゃないが、仕事などさせる訳にはいかない。なんならお仕着せを着ることも控えて欲しいくらいである。あれは使用人の制服であって、王子のお相手ともあろう者が身につけて良いものではない。
けれどクラリスは、ジェルマンたちの目を掻い潜って次々と仕事を見つけてしまう。
たいていの仕事は阻止に成功していたのだが、裏口の掃き掃除は盲点だった。あんな場所まで赴いて、肉体労働を買って出るとは思いもしなかったのだ。しかも、あっという間に門兵と仲良くなってしまっているし……
「クラリス殿は、今どちらに? またお仕事をされているのではありませんか?」
「まあ……彼女は彼女なりに考えているようだ。あまり邪魔しないでやって欲しい」
「いや、しかし」
邪魔、せずにはいられない。アベルそっちのけで、他の者に愛嬌を振りまく彼女を見ているとヒヤヒヤするのだ。
クラリスが意図してやっていることではないと分かっているし、美しい彼女に門兵達が惹かれてしまうのも無理はない。
しかし、その影でアベルのため息は増える一方なのだ。ジェルマンとしては見過ごせなかった。
「お妃候補であるならば、軽率な行動は控えていただきませんと」
「……ジェルマンが勘違いをしていることには薄々気付いていたが、クラリス嬢は妃候補などではない」
「何をおっしゃいますか。わざわざ連れて帰ってくるということは、アベル殿下にとって特別な女性であることに違いありません。お妃候補でないのであれば一体何でございましょう? 女神だから連れ帰った、とでもおっしゃるのですか?」
カルボの町近くにある湖に現れるという女神。
王都で噂されていた女神の正体は彼女だった。
絹糸のごとく輝く銀髪に、透けそうなほど白い肌。そして何より、たおやかで美しいその容姿。確かに、静謐な湖であのような娘に出逢えば、女神と信じてしまうかもしれない。
実際に、彼女は幼い少女の願い事を叶えたともいう。その事実も、女神としての存在を強く刻み込んでしまったのだろう。いまだに彼女のことを『女神様』と呼ぶ者も少なくない。
「——クラリス殿は、まさか本当に不思議な力をお持ちなのではありませんか?」
「いや、それは彼女自身が否定している。クラリス嬢の見た目や指輪はおとぎ話に登場する女神と酷似しているが、本人に特別な力は無いそうだ」
「そうでございますか……」
もしクラリスが女神のごとく不思議な力を持っていたなら、申し分ないお妃候補であったのに……とジェルマンは内心口惜しく思っていた。
彼女はワケありの子爵令嬢。優秀な娘だそうだが、地位的にはかなり弱い。アベルが自ら選んだ、というだけでは納得しない貴族も出てくるだろう。
そんな時に『女神』としての圧倒的な存在感を示せたなら、周りを黙らせることもできるのに。
どうしたらよいものか……ジェルマンが一人で頭を抱えていたその時、ちょうどドアがノックされた。
噂をすれば、クラリスである。
「クラリスです。お邪魔してもよろしいですか」
「あ、ああ」
アベルはクラリスの声を聞いた途端、ソファから突然立ち上がり、一瞬なにかを考え込んだあと——再び座った。
わざわざ立ち上がって出迎えるのはおかしいとでも思ったのだろうか、それとも心を落ち着かせるためにソファに座ることを決めたのか。いずれにせよ、彼らしからぬ無駄な動きである。明らかに挙動がおかしい。
そのわずかな一部始終を見ただけでも、ジェルマンは改めて思った。これは一肌脱がねばなるまいと。
「失礼します。ジェルマン様もいらっしゃったのですね」
「こんにちは、クラリス殿。今日もアベル殿下を放ったらかしで、一体どちらにいらっしゃったのです?」
「あっ……申し訳ありません。ずっとここにいてもお邪魔かと思いまして、外回りの掃き掃除をしておりました」
ジェルマンの口からは、つい嫌味が漏れてしまう。それを受けて、クラリスはバツが悪そうに眉を下げた。
「ジェルマン、余計なことを言うな。クラリス、君はちゃんと仕事をしていたのだから謝る必要は無い」
「ですがしかし……」
申し訳なさげに胸の前で組まれた彼女の手には、金の指輪が輝いている。若い娘がつけるには随分と古めかしいデザインで、やはりおとぎ話で見る女神の指輪に似ていた。
「……クラリス嬢。その指輪は、本物でございますか?」
「本物……? なんのことですか? これは、母から受け継いだものですけれど」
ジェルマンは指輪をまじまじと見つめた。ツタが絡まり合うように滑らかな曲線を描く金のリングは、彼女の指にしっくりと馴染んでいる。まるでクラリスの指に吸い付いているかのように。
これまで五十年間、夜会や式典、宝物庫などで数多のジュエリーを目にしてきたジェルマンであったが、このような指輪に出会ったのは初めてだった。控えめな意匠であるのに、言いようのない存在感があり——
「見れば見るほど、不思議な力を感じる指輪ですな」
「そうでしょうか……? 私にとっては大切な母の形見ですが、この指輪には何の力もありません。女神のように、願いを叶えてくれたりということも——あっ、でも」
クラリスは何かを思い出したかのように、隣のアベルをパッと見上げた。
「『助けて』と強く願った時に、アベル殿下が助けてくださいました。あれは指輪のおかげなのでしょうか」
不意にクラリスから屈託のない笑顔を向けられ、アベルの動きがピタリと止まる。
「——って、そんなはずないですよね。本当に、あの時はありがとうございました。私が無事ここにいられるのも、殿下のおかげです。何度でもお礼を言いたいです」
「い、いや、君からはもう充分な礼を受け取った」
「いいえ。結局、なんのお役にも立てていませんし」
「俺は、君が無事ならそれで……」
至近距離でクラリスの笑顔を浴びてしまったアベルは、しどろもどろに返答するのがやっとだ。その顔は耳まで赤く、傍目から見れば狼狽えているのが容易に分かる。
こんなにも分かりやすいのに……
(お労しやアベル殿下……クラリス殿にはこれっぽっちも伝わっていらっしゃらないようですぞ)
ジェルマンは思わず目尻を拭った。




