豪族の世界の変化
豪族の世界の変化
翌朝、馬を3頭選んで、佐久平へ向かうことになった。
馬飼いと蹄鉄師を引き連れ、四人と馬が3頭、歩いて向かった。
まずは、春日井に向かう。
そして、恵那に辿り着いた。
さらに険しい道が続き、阿智村に至る。
それから伊那を抜けて、諏訪まで来た。
湖畔でゆっくりした後、松本から安曇野へ向かう。
その後は、まだ道になり切れてない険しい道が続いて、千曲で川を渡り、上田盆地、小諸を過ぎると、佐久平の御影新田に到着した。
美和や長、管理者に合わせ、田んぼの先の茅の土地に太い柱を建てた小屋を幾つか作った。
馬飼いは、佐久平の草原を見て、良しと言って、馬を放した。
蹄鉄師は、御影新田の農民を使い、湯川で砂鉄を採らせた。
そして、松の木を切って、窯を作り、炭を作った。
石を組み合わせて、作った炭を燃やして、砂鉄を火に焚べた。
黒い塊が出来ると、蹄鉄師が、それを叩いて鉄にした。
自然の厳しい佐久平に紀元600年を過ぎると馬が駆け、キンコンカンという鉄を叩く音が響く、豪族の地になっていた。
佐久平を甦させた海彦と美和を祀った古墳を真似して、多くの古墳が生まれていた。
近畿圏の勢力は、九州勢力とつながり、ヤマト政権として動き始めていた。
佐久平は、遠く僻地の土地であったが、交通の流れが整備されてくると注目が高まった。
御影新田の豪族の集落は、美和を中心とした。神の司るヤマト政権の代官となった。
東山道の整備が始まり、政権とのつながりが見えてきた。
長野盆地は、既に豪族になって、古墳づくりをしていたが、東山道は、上田盆地へ抜けて、佐久平の重要性が高まっていた。
さらに碓氷峠は、まだまだ整備しきれてなかったが、上野への流通も動き始め、佐久平は、諏訪、山梨、上野からの交差点として注目された。
浅間山という活火山を抱えていたが、森の民と米作の集落という、見えない連携で乗り切ってきた。佐久平の集落。
米作の他にも馬の飼育による、草原の広がりに新たな価値を見いだしていた。
日本の歴史は縄文の歴史から、渡来人による弥生文化の侵入により、食料事情の改善や平地の暮らしで、大きく人口を増やしたが、弥生時代から古墳時代に至るまで、大きな縄文の知恵が大きく影響してきたように感じる。
その後の歴史において、この縄文の知恵の理は無視できない存在だと感じている。
日本海を漂流してきた青年が、保倉川の縄文小屋で助けられ、新たな血を引き継ぎながら、弥生集落を動かし、近畿圏への影響も確かにあったかも知れないと思っている。




