紀元前3世紀に入った
紀元前3世紀に入った
保倉川の左岸にあった小屋は相変わらず移動するグループのたまり場であった。
ここは、海の漁、山の小動物の狩り、果実や草木が充実していて、過ごし易い。
話題は、春日山の麓に生まれた弥生集落だった。
彼らの中では、《直江津王国》と呼ばれていた。
春日山の集落の王族が巫女や王子を生んで、支配は宰相達の管理者達が行ってる。
米作も順調で、豊かな集落として、有名だった。
移動するグループは、大きく南に移動するグループ。北に移動するグループ。そして、山側を渡り歩く、俺たちのグループの三つだ。
俺の祖先は、この保倉川に流れ着いた漂流者だったらしい。
俺は、頭として、親の代から譲り受けたナイフが目印だ。
そして山を移動するグループは、浅間山の婆様の言葉をこの縄文集落や巫女達に知らせるお役目があった。
「婆様は、時代の流れに逆らうなと言ってる」
「そうじゃろう、俺ら北のグループは、直江津王国の王子様に頼まれ、柏崎に米作の集落を作る事になった」
移動するグループの話は、隠し事が少ない。今の動きを的確に分かち合う。長岡の方でも米作の集落の話が進んでいるらしい。
平地で暮らす米作の集落は、縄文の者には、壁があった。
そこで移動するグループの声がかかりが必要だった。
平地に田んぼを開拓し、人を集め米を植える。
直江津王国では、米作の開拓が充分に進んだが、耕す土地がない。
人口は、安定して増えていた。
王族の子供たちは、管理の仕事は、任せてあり、仕事がない。
そこで、外の知識が沢山ある移動するグループは、よいお客であった。
宰相達も王族の子供たちには、文句が無かった。
そこで、王子のひとりが、米作や水利の管理が出来るものを引き抜き、あぶれた農民を連れて、柏崎に出ることになった。
案内するのは北に移動するグループだ。
柏崎は、海辺の縄文集落と山側の縄文集落があった。海辺に流れ込む川が山沿いに向かい田んぼを耕作できた。
そこに移動するグループが海辺や山に潜む縄文集落に声をかけ、田植えを手伝うように言って、行った。
長岡は、内陸に信濃川の扇状地が広がり、田んぼを作る場所も豊富であった。川の流れをよく見計らい、田んぼの耕作が進んだ。
ここでも海辺や山の縄文集落に声をかけ、田植えを手伝わせた。
縄文集落では、春日山の集落が大きく成長していることが理解されており、反発は少なかった。
また、米が収穫されると、その作業で冬越しの準備が出来なかったが、米が冬越しの食料を満たすことが理解すると、さらに平地の集落に人が集まってきた。
こうして、北陸の弥生化は、順調に進んでいった。




