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御幸がぽつり呟いた言葉に、日比谷は「知っている?」と眉をひそめて彼を見た。
「前に神奈さんに言ったことがあるんです。退魔師である貴女の婚約者になるのなら、いずれ今日みたいに僕か、帝都の人々かを選ぶ場面があると思う、と」
そう言って視線を落とした御幸。
『ほら立て、まだ稽古は終わってないぞ』
あれは、桜の花が咲く春のことだった。六歳だった御幸は、父に連れられ訪れた屋敷の中庭が見える縁側を歩いている時、思わず足を留めた。白の上衣に黒の袴を身に纏った自分と同じくらいの年頃の少女が、地面に尻もちをついていた。
『はい、おとうさまっ……!』
そう言って立ち上がった彼女の手には竹刀が握られており、きっと表情を引き締めた少女は、自分よりも一回りも二回りも体格の大きな父に立ち向かっていた。
桜の花びらが、ひらひらと舞い散る中、一心に竹刀を振っていた少女。強く、凛としたその横顔に、御幸はしばらく見惚れていた。
『父上、あの女の子は誰ですか』
御幸が尋ねると、父は「ああ」と呟いて御幸の頭をぽんと撫でた。
『あの子は桐生院神奈嬢。このお屋敷に暮らす、桐生院家のご令嬢だよ』
『きりゅういん、かんなちゃん……』
御幸はもう一度、少女の方に視線を戻して彼女の姿を目に焼き付けるかのように、じっと見つめた。子どもの頃、体が弱かった御幸は家で療養していることが多く、その日はたまたま体調がよかったため外出することが叶った日だったのだ。
きっと、あの日彼女と出会えたことは運命なのだと、御幸は思う。
頭の高い位置で結われた長い黒髪を振り乱しながら、けれど懸命に努力するその姿に、心を奪われたことを思い出す。
(あの日からずっと、僕は神奈さんだけを見つめてきた)
「僕は彼女の……神奈さんの足かせになど、なりたくない。自分がそういう窮地に晒される時が来たら、その時は僕のことなど気にせずに、帝都の人々を守ることを最優先に動いてくださいと伝えています」
御幸のそんな発言を日比谷は「ハッ!」と鼻で笑う。
「それが愛だと愚かなことを言うつもりか?! 笑わせてくれる! つまりお前は最愛の婚約者にいざという時、見捨てられるということじゃないか!」
日比谷はおかしそうに腹を抱えて笑い出すと、御幸の顎を掴んで無理やり自分と目を合わせさせる。
「愛に溺れた、哀れな男だな。芦屋御幸」
嘲笑を浮かべながらそう言い放った日比谷。だが、御幸はこんな状況にも関わらず、不敵な笑みを浮かべて「いいえ、違います」と継いだ。麗しく微笑むその姿からは、やはり不安も恐怖の色も一切ない。
「愛の尊さを知る、幸せ者ですよ」
そんな余裕ぶった態度が気に入らなかったのか、日比谷はぎりと奥歯を噛みしめ、腹立たし気に御幸の勢いよく突き飛ばした。
「そうやって涼しい顔をしていられるのも今の内だ! せいぜい、そこで地に伏して、お前の愛しい婚約者諸共、帝都の街が滅びゆく様を見ているがいい! 深い絶望を噛みしめながらな!」
地面に倒れた御幸が体を起こし、「それはどうでしょうか」と顔を上げた。
「……実は、さっきの話には続きがあって。自分のことを見捨ててくださいと言った僕に、彼女はこう言ったんです。『そんな時が来たら、私は帝都の人々も貴方も救ってみせます』って」
どこまでも余裕の笑みを崩さない御幸に日比谷の怒りがさらに増し、胸倉を掴まれそうになった。だが、次の瞬間――。
「ギャァァァァァ!」
日比谷の背後から聞こえてきた、魔鬼の咆哮。慌てて日比谷が振り向いた先には、黒の隊服に黒マント、そして調伏刀を持つ一人の退魔師、桐生院神奈がそこにいた。




