【東勝寺跡①(恁麼=いんも)《如何是勇士恁麼ノ事》】
宝戒寺の山門を出たところで、ジャンヌと俺は、
振返って一礼し、参道から、八幡様方面を指しながら、
「そこから八幡様の前の路を、横大路っていうんだ」
寺の入口で左を指し、
「この通りを、小町大路っていうんだ」
左に進むと、すぐジャンヌが上を見て、
「見てオズ、『美鈴』さんよ!
浄妙寺で頂いたお菓子の……」
電信柱の上の方に、美鈴の看板と、矢印が書いてある。
「あ、ほんとだ。宝戒寺のすぐ近くじゃん」
細い路地の先にあるみたいだ。
「どんな店だか覗いてみっか?」
「ええ」
少し入ると、右側に細い通路の先にあった。
左右塀に囲まれて、右側の塀は、
屋根瓦が乗った白壁だ。
地面に砂利が敷き詰められ、飛び石が置かれており、
両サイドに植え込みがあり、人一人通るのがやっとだ。
古風な佇まいに、高校生の俺は、
正直ちょっと引いてしまう。
だけどジャンヌの手前、弱気な所は見せられない。
「何かお菓子あったら買ってやるよ」
「え? でもオズぅ、高そうよ」
二人で奥の暖簾を見つめ、
ジャンヌもビビってるみたいだ。
「いいって、どうせオカアの金だから」
内心恐る恐る、敷石の上を進んで行く。
玄関先の左側に、筧と蹲が置かれており、
茶室へ行くみたいだ。
入口には、30センチ程に切った木の、
切り株の台の上に、花が活けてある。
暖簾も看板も古風で、中は少し暗めで、
店舗というより、狭い玄関っていう感じだ。
中に入ると、なるほど予約の店らしく、
お菓子のショーウィンドウもない。
「ごめん下さい」
すぐに奥から、年配の男性が現れ、
続いて女性が出て来られた。
何かお菓子はないか尋ねたら、
六個入りの和菓子が、ちょうど一箱残っていた。
既に包装してあるので中は判らない。
代金は1560円とのこと。
「中は? さっき浄妙寺で食べたんですけど、
同じですか?」
すると、近くの重箱の蓋を開け、
現物の見本を見せてくれた。
「わーぁ、綺麗ですね。美味しそぉー」
一個づつ違う、華麗なお菓子の数々に、
思わずジャンヌは感嘆した。
ジャンヌの表情を見た俺は、すかさず、
「じゃあ、これお願いします」
美鈴さんでは、毎日六個入りの箱を、
いくつか置いてあるとのこと。
予約なら、二個入りから可能で、
夏は水菓子になると言っていた。
代金を払い、お菓子を受け取ると、
『甘葛会(=あまかずらかい)』入会案内
の申込書をもらった。
玄関を出て、路地まで戻ると、
「オズありがとう。
今日おみやげ一杯ね。
お父さんお母さん、とっても喜ぶわ。
オズぅ、いっぱいお金使って、
お母様にしかられないかなぁ、大丈夫?」
「そんなわけないじゃん!
オカア、ジャンヌの大ファンなんだから。
ジャンヌが喜んだって言ったら、オカア大満足だから」
俺は、甘葛会の案内をジャンヌに渡し、
リュックにお菓子を仕舞いながら、
「お菓子、俺のリュックに入れとくな」
ジャンヌは、案内書を見ながら、
「一年間、毎月季節のお菓子が届けられ、
会費は2600円で、
配達時にお菓子と引き換えになるんですって。
頒布地域は鎌倉市内と、辻堂・藤沢・逗子・葉山で、
地方発送は、別途送料と書いてあるわね。
私今度、西片町の、おばあちゃんの家にいったら、
これ教えてあげるから。
おばあちゃん、知っているかも」
「じゃあ行こっか」
再び小町大路へ出て、少し歩くと右側に、
『土佐坊昌俊邸跡』の石碑が。
「ジャンヌ土佐坊昌俊(=とさのぼうしょうしゅん)って、
頼朝から、京都の義経を暗殺するよう命じられた人だよ」
「返り討ちに遭われたのよね」
「ああそうだぁ。
ここに、下野の国に、老母と嬰児等がいるから、
頼朝に、後を宜しくお願いしますって書かれてるな。
だけどジャンヌな、この人、出家前は、
金王丸(=こんのうまる)っていって、義朝の側近で、
義朝が、長田邸の風呂場で殺された時、
ぴったり寄り添って、背中を流すんだけど、
着替えを取りに行った空きに、殺されてしまうんだ。
金王丸は、たちどころに長田の朗党を斬り伏せて、
それから逃れ、義朝の菩提を弔うために出家して、
後に頼朝に仕えるんだ。
渋谷に、金王八幡宮ってあるんだけど、
金王丸の実家でな、父の代に堀河天皇から渋谷姓を賜り、
渋谷の発祥地となるんだ」
「それなら、金王八幡宮に、
神様として祀られているのね」
「ああ、金王八幡宮は、
元々渋谷八幡宮とか呼ばれていたけど、金王丸の名声により、
金王八幡宮と呼ばれるようになったんだって。
金王丸は、17歳で義朝に従って出陣する際、
母の為に自分の木像を作ってな、
その木像が金王丸御影堂として、境内に祀られているそうだ」
「そうなんだ。
今日オズがお話ししてくれた、
いろんな人たちと繋がっているのね」
「ああ、じゃあ行こうか」
すぐに『北条高時腹切りやぐら』と
『東勝寺跡』と書かれた案内板が見えてきた。
その下に『祇園山ハイキングコース』とある。
「オズぅ、いよいよ北条氏終焉の地ね。
ここから300メートルなのね」
「ああ、途中の手前に、東勝寺橋ってあってさ、
滑川に架かってるんだけど、その辺り、
オトウが言ってたけど、太宰治の、
小説の舞台となった所なんだって。
『新釈諸国噺』の中の、『裸川』っていう短編でな、
井原西鶴の物語を、独自の世界で描き直したんだって」
「『裸川』? 聞いたことないわね。
どんなお話しなの?」
「なんでも、北条時頼の時代の時の話で、
青砥左衛門尉藤綱という、実直な役人がいて、
帰宅途中で、銭をこの先の、滑川に落としてしまい、
『川に落ちた銭は、ただいたずらに朽ちるばかり、
人の手から手に渡った金は、いつまでも生き続ける』といって、
11文落とした銭を、3両の手間賃を使って捜させるんだ」
「なるほどねぇ、実直な人が考えそうな、
もっともらしい理屈ね」
「ああ、ある時、牛が川で小便しているのを見て、
なぜ畑でして肥料にしないのかと、
牛を大声でしかり飛ばしたそうで、
青砥は、質素倹約の人であったから、
時頼も、母の松下禅尼の影響で、
酒の肴は味噌だけという倹約家だから、
気に入られていたんだ」
「面白そうなお話しね。
短編なら、今度読んでみたいわね」
「俺もぉ、ジャンヌ読んだら回してよ」
「ええ、今度図書館で借りて来るわね」
「太宰はな、西鶴のことを、
世界で一番偉い作家であるって、云ってるんだって」
「そうなの。
太宰治は、井原西鶴に心酔していたのね」
話しているうちに、橋の手前、
左側に例の鎌倉青年会の石碑が建っている。
「ここにもさっきの話し、書いてあるだろう」
ジャンヌと読んでみる。
「ねえオズぅ、太平記によればって、
元のお話しは、太平記なのね。
藤綱は、北条時宗、貞時の二代に仕えたって、
時代背景は違うわね」
「ほんとだ。
でも物語はこの辺だって書かれてるな」
橋を渡ると、緩やかな上り坂になっている。
「東勝寺跡といわれていた辺りに、鎌倉市が、
福祉関係の施設を建設しようとしてな、
そしたら建設反対の声が一斉に上がって、
昭和50年に、発掘調査を行ったんだ。
そしたら、この先の、東勝寺に続く、
石畳の坂道が発掘され、石垣も現れて、
お寺の敷地跡を掘り下げていったら、
30センチ位の、炭と灰の層が発掘されたんだ。
そこで東勝寺が実在したことが証明されてな、
今まで、太平記とか、書物とか伝承では、
北条一族が、東勝寺で自決し、
寺が焼失したことになっていたけど、
それも判ったんだ。
その後鎌倉市は、東勝寺跡を永久保存することに決め、
国の指定史跡にもなったんだ」
「あやうく建物が建つ所だったのね」
奥の坂を上がって行くと、左側の石垣の上が、
広い敷地となっている。
発掘調査の後、埋め戻しており、
草が生い茂っている。
東勝寺跡は、金網で囲まれており、案内板がある。
『国指定史跡 東勝寺跡
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府、
第三代執権の北条泰時により、
得宗(北条氏嫡流)家の氏寺として創建されました。
様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、
周辺の地形と一体となった防御のための、
城郭的な機能も持っていたと考えられます。
元弘3年(1333年)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、
幕府の最高権力者であった北条高時は、
東勝寺で一族郎党とともに自害し、
鎌倉幕府は滅亡しました。
平成8・9年(1996・1997)
に行われた発掘調査では、
幕府滅亡時に焼失されたと考えられる建物の跡と、
それを覆う10数センチの炭の層が発見されました。
焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、
室町時代には関東十刹に列せられましたが、
16世紀後半ごろには途絶えたと考えられます』
「大船の常楽寺も、泰時公の創建だったわね」
「ああ、妻の母の菩提を弔うために建てたんだ」
「やはり泰時公は、思いやりがあって、
慈悲深い方だったのね。
得宗家の皆様には、徳を積まれた方もいらしたのに、
最後は悲惨な結末になったのね」
「おう、それなあ、初代の時政が、
江ノ島の弁財天に、21日間籠もって、
一族の繫栄を祈願したんだけど、
最終日に、弁財天が現れて、
『汝の前世に積まれし徳により、
家運隆盛、天下を支配し、
7代までは繫栄するであろう』ってな。
そう告げると弁財天は、大きな龍神となって、
海中に消えたそうだ。
その時、鱗が三枚残されて、
家紋の三つ鱗としたんだ」
「そうなんだぁ。
七代目って、時宗公だったわよね。
五代目の最明寺入道殿も、建長寺を建てて、
鎌倉に禅宗を広められたのにね」
「ああ、時政の時代から、源家を三代で葬って、
有力な御家人を、次々滅亡させてきたからな。
それに、元寇もあって、時宗の代で、
時政が前世で積んだ、得宗家の徳は、
無くなってしまったんだろうな。
八代目の貞時の時代は、
最後の有力御家人の、安達泰盛一族を滅ぼして、
北条一族の独裁体制が確立したんだし、
それに、内管領の平頼綱が圧政を敷き、
日蓮宗を弾圧したりして、不徳を重ねていったから」
「それなら、絶頂を極めて滅んだ、
平家と同じ道を辿ったのね」
「おう、そうだぁ。
だから、太平記の世界では、平家の北条氏を、
源氏の足利氏と新田氏が滅ぼしたことになっていて、
源平合戦の再来のように捉えているんだ。
でもなジャンヌ、滅びの規模やスケールは、
平家物語の比じゃないくらい大きかったんだ。
北条家は、有力御家人を、次々滅ぼし、
権力を北条一族が独占したっていうことは、
全国の、有力な守護などを独占したから、
滅ぼされる一族の数も、桁違いに多かったんだ。
実際、源氏だけでなく、
沢山の御家人から反発を受けていたから、
地方の守護とか、検非違使などの役職にあれば、
周囲からの討伐の流れに、押しつぶされたんだろうに」
「地方の御家人も、一斉に蜂起したのね」
「ああ、太平記でも、鎌倉幕府が滅び、
その後の、地方の悲劇も伝えているんだ。
新田軍は、六十万七千余騎に膨れ上がった軍勢を、
三手に分けて攻めてくるんだ。
極楽寺の切通しへは十万余騎、巨福呂坂へも十万余騎、
義貞は本隊五十万七千余騎で化粧坂へ攻めるんだ。
迎え撃つ北条軍も、三手に分け、
極楽寺の切通しへ五万余騎、
化粧坂には三万余騎で守りを固め、
最後の執権、赤橋守時が大将となって、
六万余騎で巨福呂坂を進み、洲崎へ進軍し、
鎌倉の外で迎え撃つんだ。
守時の妹が、足利高氏の正室になっていて、
上方での謀反討伐のため、高氏が上洛の命を受けるんだけど、
既に、倒幕の意思は固めていたから、
妻子も一緒に上洛しようとしたら、謀反を疑われ、
妻子を人質として、鎌倉に留め置かれていたんだ。
高氏謀反の知らせが、鎌倉にもたらせられる前に、
妻子が姿をくらませてしまい、守時は、
高時の怒りを買って、謹慎させられていたんだ。
そんな中で、5月18日、幕府軍を率いて出陣し、
洲崎まで進出して戦うんだ。
赤橋軍は強かったけど、その日だけで、
65回も戦ってついに敗れ、
三百余騎までに減ってしまうんだ。
守時は、義弟との関係を疑われていたから、
逃げ帰るのを拒み、退かないで自害するんだ。
それを見届けた腹心の武将が、
主君が自害した上は、誰のため命を惜しむべきものかと、
さあお伴しましょうと、追い腹を切ると、
続いて家来たちも、北枕に伏せた守時の遺体の上に、
次から次と重なり自害し、その数九十余人と。
日暮れまでに、洲崎の合戦は敗れ、
新田軍は、山ノ内まで進出したとあるんだ」
「鎌倉武士って、平家も源氏も関係なく、潔いのね。
ところで洲崎って、どこら辺なの?」
「あ、そうだ、ジャンヌが毎日通う、湘南モノレールの、
町屋から、山崎、深沢あたりなんだ」
「え! ほんと?
それなら私、毎日その上通っているわね。
ねえオズ、近くにお墓とか、供養塔とかないの?」
「どうだろう、俺知らねえけど、今度調べておくよ。
ジャンヌ供養したいよなぁ」
「ええ、是非お願いね。
鎌倉って、いたる所に戦の跡があるのね」
「そういえばジャンヌ、鎌倉街道から、俺んち行く、
高野台のバス通り上がると、左側に、
供養塔あるの知らねえか?」
「え? 供養塔?
なにか、それらしいのがあったような……」
「各地の戦場で亡くなった、武士を供養している供養塔でな、
家の菩提寺の、多聞院さんで供養してるんだって。
供養塔の左手の脇に、ほら報国寺の供養塔にあったような、
石塔がいくつも置かれているんだ。
あの辺も、鎌倉への入口だから、激戦地だったんだろうな。
ジャンヌお参りするとこ、多くて困っちゃうだろ」
「ええ、オズぅー……」
ジャンヌは、すまなそうな顔で俺を見るから、
「いいよ! 連れてってやるよ。
俺も鎌倉時代の亡くなった人たち、
ジャンヌに祈ってもらいたいからさ」
「ありがとうオズ、宜しくお願いします」
「それから新田義貞が、潮が引いた稲村ケ崎から、
一挙に由比ヶ浜に攻め込んだから、市内は大混乱に陥って、
北条軍があわてふためくんだ。
いたる所で攻めたてられ、射伏せ、切り伏せられたり、
生け捕り、分捕りされたり様々で、
しかも、火をかけたから、浜風に煽られて、
火と煙に巻かれて女子供達は逃げ惑い、
倒れていく阿鼻叫喚の世界は、
地獄で鬼に追い立てられているようで、
『語るに言葉も更になく、聞くに哀れを催して、
皆涙にぞ咽びける』ってな」
「わーぁ可哀そう!
女性や子供達も、沢山犠牲になったのね」
「ああ、太平記では、名だたる武将の最期を伝え、
最後に、長崎内管領の息子の、
長崎高重の奮闘を伝えているんだ。
高重は、新田義貞が旗揚げすると、
当初の武蔵野の戦いから参戦し、最後の日まで、
80数回、常に自ら、先陣を切って敵中に分け入り、
奮闘してきたんだ。
家来や、若武者たちも、次々討取られ、
百五十騎まで減ってしまって、高重は、
それらの手勢を引き連れて、
既に高時以下、得宗館は火が迫り、
千人余りが東勝寺に移り、立て篭もっていたので、
最後の別れに訪れるんだ。
そこで高重は、高時に、数代に渡る奉公を謝し、
今生においては、最後の別れとなり、
既に敵の兵が充満しており、
くれぐれも敵の手に懸かることのないよう、
自害の覚悟を述べ、但し、今一度敵の中で奮戦し、
冥土にお伴する、土産話を持って帰るから、
自害はそれまで待って頂きたいと」
「わーぁ、頼りになる、勇敢な武将ね。
それだけ戦っても、討取られないなんて、
甲斐姫様みたいに、無敵というか、
戦の神様が付いていらしたのね」
「そうかもなぁ。
高時は、去って行く後姿を見て、
これが最後と、涙ぐんで見送ったと。
それから高重も、これが最後と、
当時材木座の東に、高時が建立した、
崇寿寺(=そうじゅじ)って在ったんだけど、
そこの南山和尚を訪ねるんだ。
南山和尚は、威儀を正して出迎えると、
高重は、甲冑を帯びているので、庭に立ったままで、
周囲の人に会釈し、南山和尚へ、
『如何是勇士恁麼ノ事(=いかなるこれ勇士いんものじ)』
って問うと、和尚答えて曰く、
『吹毛急用不如前(すいもう急に用ひてすすまんにはしかじ』
って答えるんだ。
勇士として、如何にあるべきかってな。
恁麼って禅語でな、どのようにとか、
いかなるとかゆう意味なんだって。
高重も、この期に及んで、迷いが生じたんだろうに。
既に勝敗が決している戦いに、勇士としては、
このまま突撃するか、それとも、無駄な殺生は止め、
引き返して、潔く自決するかっていうとこなんだろう。
心の中に生じた疑問に、師事していた南山和尚に、
教えを乞いたかったんだろうに。
南山和尚が言った吹毛って、同じく禅語で、
剣に吹きかけた毛が、切れてしまうくらいの名剣って意味で、
武士としての使命は、
名剣を振りかざして突撃のみ! ってな」
「最後の戦いの前に、禅問答したの?
高重公凄い精神力ね。
それに応えた南山和尚様も、名僧だったのね。
死闘を前にして、嵐の前の静けさというか、
歴史に残る名場面ね」
「だろう、俺もこの場面、好きなんだ」
「ねえオズぅ、『いんも』って、ひょっとして、
いんものいんって、辞任するとかの任が上で、
下が心で、もは、麻みたいな字ぃ書くの?」
「え? そうそう、ジャンヌなんで知ってるの?」
「やっぱり。
私ね、良寛さんが『恁麼』って書いた書を、
観たことがあるの」
「へーえ、さすがジャンヌだな」
「私ね、お父さんと、川端康成のコレクション展へ、
観に行って、そこで観たの。
良寛さんの書って、細字の芸術っていうか、
女性的な字を書かれるでしょ。
それが『恁麼』って、しっかりとした筆使いで、
調和のとれた、まるで名画を鑑賞しているみたいで、
感激したんだけど、
え? これ良寛さんの書? って感じてしまったの。
そしたらお父さんがね、ほら見てご覧、
作者に伝良寛って、前に伝が付いているだろうって。
良寛さんの書か、真贋論争があるんですって」
「それならジャンヌ、その恁麼、
偽物って思ったのか?」
「いいえ、そういう訳じゃないの、
良寛さんの、細字のイメージと違っていたから。
良寛さんの書って、結構偽物が出回っていて、
良寛さんは、長生きされたから、
既に生前から、偽物作者が三人もいてね、
住んでいる地名から、柏崎良寛とか、
巻良寛とか呼ばれていたんですって。
でもね、川端康成が収集されたから、
本物だろうって、お父さんが。
そのコレクション展ではね、
国宝の日本画が何点かあって、いずれも川端康成が、
購入してから、国宝指定になったんですって。
だから、川端康成の審美眼は凄いんだぞって」
「そんなら本物じゃん。
良寛さんなら、書こうと思えば、
行書だろうが楷書だろうが、なんでもいけそうじゃん」
「そうよね、それに川端康成は、良寛さんを評価していて、
ノーベル賞の受賞後、ストックホルムで『美しい日本の私』
という題で受賞記念講演を行って、
そこで良寛さんを紹介しているんですって。
それから思い出したけどオズぅ、
川端康成は、小さい頃に両親が亡くなって、
祖父に育てられたけど、家に家系図があって、
祖父は、先祖が北条泰時に繋がることを、
自慢していたんですって」
「へぇーえ、凄いじゃん。健さんみたいだな」
「あ、オズぅ、話しが脱線してごめんなさい。
高重公と南山和尚との、禅問答のお話し、
それから高重公、どうなさったの?」
「おう、和尚が答えた句で意を決し、
和尚に合掌低頭して、戦場に去って行くんだ」
「武将は武将らしく戦えなんて、禅僧らしいわね。
南山和尚様も、これが、三浦泰村公だったら、
死すべき定めを、従容と受けとめて、
静かに自害することを説かれたでしょうけど、
弟の光村公だったならば、
高重公と同じ答えになったのでしょうに」
「俺もそう思う。
名僧は、人を見て説かれるだろうからな」
「高重公は、禅宗に帰依して、参禅などで修行を積んだ、
典型的な鎌倉の武将だったような気がするわ。
ねえオズぅ、鎌倉武士には、禅宗がぴったしお似合いね。
『武家の古都鎌倉』っていうけど、
禅宗と武家とは、強い絆で繋がっていたのね」




