第7話 新しい一日
翌朝。
芳乃食堂の窓から差し込む光が、テーブルの上を明るく照らしていた。
その真ん中には、昨日と同じアルバムが置かれている。
未来から来た芳乃は、椅子に座ったまま、開かれたページをじっと見つめていた。
二人でゲームをしたこと。
一緒にカツ丼を作ったこと。
向かい合って「いただきます」と言ったこと。
覚えのないはずの写真が、そこには確かに残されている。
そして、その先には――。
何も描かれていない白いページが、まだ何枚も続いていた。
「……ねえ」
芳乃が顔を上げる。
向かいでは、小さな芳乃が湯飲みを両手で抱えていた。
「この白いところ、本当に増えるのかな」
「うーん」
小さな芳乃は湯飲みを置くと、アルバムの上までふわりと飛んできた。
「昨日は増えたんだから、今日も何かすれば増えるんじゃない?」
「何かって?」
「何かは何かだよ」
「決めてないの?」
「決めてない」
あっさり言われて、芳乃は少し笑った。
「じゃあ、何をする?」
小さな芳乃は白いページを見下ろした。
それから、ぱっと顔を上げる。
「外に行こう!」
「外?」
「うん。昨日はゲームをしたでしょう? 今日は芳乃ちゃんが見たことのないものを探しに行こうよ」
「私が見たことのないもの……」
芳乃は窓の外を見る。
この時代へ来てから、知らないものには何度も出会った。
見たことのない建物。
聞いたことのない言葉。
触れたことのない道具。
それでも、不思議と怖くはなかった。
隣に、自分と同じ名前の少女がいるからかもしれない。
「分かった。行こう」
「決まり!」
小さな芳乃が嬉しそうに飛び上がった。
二人は芳乃食堂を出た。
朝の町には、人々の声と車の音が行き交っている。
芳乃にとっては、まだ何もかもが珍しい。
店の前に並ぶ色鮮やかな看板。
道を走る車。
誰もが当たり前のように手にしている、小さな板のようなもの。
「ねえ、あれは?」
芳乃が通りすがりの人を指さした。
「スマートフォン」
「すまーと……?」
「電話したり、写真を撮ったり、いろんなことができるの」
「昨日言っていた『撮る』って、あれで?」
「そうそう」
芳乃は感心したように頷いた。
「ずいぶん小さいのね」
「昔はもっと大きかったんだけどね」
「知ってるの?」
「そりゃあ知ってるよ。私、長く生きたから」
小さな芳乃が少し得意そうに胸を張る。
芳乃は、その姿を見て笑った。
やがて二人は、小さな店の前で足を止めた。
甘い香りが漂ってくる。
「これは?」
「クレープ」
「くれーぷ」
また知らない言葉だった。
小さな芳乃は慣れた様子で店先を眺めている。
「食べてみる?」
「甘いもの?」
「甘いもの」
芳乃は少し考えてから頷いた。
「食べてみたい」
一つのクレープを買い、二人で近くのベンチに座った。
苺とクリームの入ったクレープ。
芳乃は恐る恐る一口食べる。
「……甘い」
「どう?」
もう一口。
「おいしい」
「よかった」
「でも、食べにくい」
「あっ、そこ気をつけて。下から出てくるから」
「え?」
次の瞬間、クリームが少しだけ包み紙の横からはみ出した。
「……出た」
「だから言ったのに」
「言うのが遅いよ」
二人の笑い声が重なる。
そのときだった。
ふわり、と風が吹いた。
街路樹の葉が揺れ、小さな芳乃の髪が風になびく。
彼女は不意に笑うのをやめた。
そして――隣に座る芳乃を見つめた。
「……?」
「どうしたの?」
未来の芳乃が首を傾げる。
小さな芳乃は、ほんの少しだけ目を細めた。
遠い昔の何かを見ているように。
けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「……ううん。なんでもない」
「そう?」
「うん」
それ以上、小さな芳乃は何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ吹いた風の中で、隣にいる少女を見つめていた。
夕方。
二人は芳乃食堂へ戻った。
「今日はいっぱい歩いたね」
「この時代は知らないものばかり」
「これから覚えればいいよ」
芳乃は少し考える。
「全部?」
「全部じゃなくてもいいんじゃない?」
小さな芳乃は笑った。
「芳乃ちゃんが知りたいものから、一つずつ」
その言葉に、芳乃は小さく頷いた。
そしてテーブルの上に置かれたアルバムを開く。
昨日まで何もなかった白いページ。
そこに――。
「あ……」
一枚の写真が増えていた。
ベンチに並んで座り、二人でクレープを食べている。
ちょうど笑い合っていた瞬間だった。
「増えた!」
小さな芳乃が嬉しそうに声を上げる。
芳乃も写真を見つめる。
「今日のこと……」
「うん」
「大樹が覚えてくれたのかな」
「たぶんね」
芳乃はページをそっと撫でた。
昨日まで、この時間はどこにも存在していなかった。
時間を戻す前にも。
時間を戻したあとにも。
これは失った記憶ではない。
取り戻した時間でもない。
今日、初めて生まれた時間だ。
芳乃は次のページをめくった。
そこは、まだ白い。
「……まだあるね」
「いっぱいあるよ」
「明日は何をする?」
小さな芳乃が目を丸くする。
そして、すぐに笑った。
「明日のことは、明日決めようよ」
「また決めてないの?」
「だって――」
小さな芳乃は、白いページを指さした。
「何が増えるか分からない方が、楽しみでしょう?」
芳乃は白いページを見る。
何もない。
だからこそ、これから何でも描ける。
「……そうかも」
窓の外で、大樹の葉が揺れた。
風が一つ、芳乃食堂を通り過ぎていく。
白いページは、まだたくさん残っている。
二人の新しい時間も――まだ、始まったばかりだった。




