第6話 もう一つの日常
翌朝。
芳乃が目を覚ますと、小さな芳乃はすでに起きていた。
芳乃食堂のテーブルの上。
昨日現れたアルバムを開いて、何やら熱心に眺めている。
「おはよう」
「あ、おはよう、芳乃ちゃん」
芳乃は向かいの椅子に座った。
アルバムには、二人でゲームをしたこと。
一緒にカツ丼を作ったこと。
向かい合って「いただきます」と言ったこと。
そして、その先には――。
まだ何も描かれていない白いページが、何枚も続いている。
「……まだいっぱいあるね」
「うん」
小さな芳乃がページをめくる。
「だから、増やしてみようよ」
「どうやって?」
「何かすれば増えるんじゃない?」
ずいぶん大ざっぱだった。
芳乃は少し笑った。
「じゃあ、どこかに行く?」
「行く!」
即答だった。
「芳乃ちゃんのいたところ、見てみたい」
「私のいたところ?」
「うん。昨日は私の知ってるものを芳乃ちゃんに見せたでしょう?」
小さな芳乃は笑った。
「今日は芳乃ちゃんが、私に見せてよ」
芳乃は少し考えた。
そして、一つの場所を思い出す。
「……じゃあ、市場に行ってみる?」
「市場?」
「うん」
そこは、よく知っている場所だった。
アルベールと何度も歩いた場所。
時間を戻してからは、一度も行っていない。
思い出すと、少しだけ胸が苦しくなる。
けれど――。
「行こう」
今度は芳乃が先に立ち上がった。
市場に近づくにつれて、人の声が大きくなった。
野菜や果物を並べる店。
焼きたてのパンの匂い。
荷物を運ぶ人たちの声。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、自分の方だった。
小さな芳乃は、物珍しそうに辺りを見回している。
「すごいね。こういう市場、久しぶり」
「前にもあったの?」
「私が人間だった頃にもね。でも、ここは全然違う」
「そうなんだ」
二人は店を覗きながら歩く。
そのとき、芳乃の足が止まった。
焼き菓子が並んでいる。
見覚えのある店だった。
「……ここ」
「どうしたの?」
「昔、よく来たの」
「誰と?」
芳乃は一瞬だけ黙った。
「……お兄ちゃんと」
小さな芳乃はそれ以上聞かなかった。
ただ、店先へ近づく。
「どれがおいしいの?」
「それなら――」
芳乃は反射的に、一つの焼き菓子を指さした。
「こっち」
「芳乃ちゃん、それが好きなの?」
「違うよ。お兄ちゃんが好きだったの」
言ってから、少しだけ寂しくなった。
こんなことまで覚えている。
どの店に立ち寄ったのか。
何を選んだのか。
何が好きだったのか。
芳乃だけが覚えている。
「じゃあ、それにしよう」
「え?」
「私も食べてみたい」
小さな芳乃が焼き菓子を見る。
「芳乃ちゃんの大切な人が好きだったもの」
芳乃は小さな芳乃を見る。
「……うん」
二人で一つ買った。
店を離れて、小さな芳乃が一口かじる。
「どう?」
「おいしい!」
「よかった」
「芳乃ちゃんも食べようよ」
「私はいいよ」
「だめ」
「どうして?」
「二人で来たんだから、半分ずつ」
「半分ずつ?」
「それなら公平でしょう?」
芳乃は少し笑った。
「変なの」
「なんで?」
「一つしか買ってないのに」
「だから半分ずつなんだよ」
小さな芳乃も笑った。
焼き菓子を半分にして、二人で食べた。
しばらく市場を歩いていると、今度は果物屋の前で芳乃が立ち止まった。
色とりどりの果物が並んでいる。
その中に、昔から好きだったものがあった。
「あ」
「今度は何?」
「これ、好きなの」
「芳乃ちゃんが?」
「うん」
小さな芳乃は果物と芳乃を交互に見る。
「じゃあ、買おう」
「え?」
「好きなんでしょう?」
「でも、一人で食べるには――」
「大丈夫」
小さな芳乃が得意そうに言った。
「これも半分ずつ」
「また?」
「それなら公平でしょう?」
「それ、気に入ったの?」
「うん」
芳乃は笑った。
「じゃあ、半分ずつね」
市場を出る頃には、二人の手に小さな袋が一つずつ増えていた。
帰り道。
芳乃は一度だけ振り返った。
何度も歩いた市場。
アルベールと一緒に歩いた場所。
時間が戻る前。
そこには確かに、二人の時間があった。
けれど、その時間を覚えているのはもう自分だけだ。
「芳乃ちゃん?」
「うん?」
「今日はありがとう」
「どうして?」
「私、芳乃ちゃんがいたところを見てみたかったから」
小さな芳乃は袋を抱え直した。
「楽しかった」
何気ない一言だった。
けれど芳乃は、すぐには返事ができなかった。
かつて何度も、アルベールと一緒に歩いた市場。
もう、あの頃と同じ時間には戻れない。
それでも今日。
同じ場所を、もう一人の芳乃と歩いた。
昔の思い出が消えたわけではない。
新しい思い出が、その隣に増えただけだった。
「……私も楽しかった」
小さな芳乃が笑う。
「また来ようね」
今度は迷わなかった。
「うん。また来よう」
芳乃食堂へ戻ると、二人はすぐにアルバムを開いた。
白かったページに、一枚の写真が増えている。
市場の中。
焼き菓子を半分ずつ持って笑っている、二人の芳乃。
「増えた!」
小さな芳乃が嬉しそうに声を上げる。
芳乃は写真を見つめた。
失った昨日は戻らない。
アルベールと過ごした時間も、なくならない。
けれど、新しい時間は作ることができる。
今日――。
もう一つ、新しい一日が増えた。




