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第5話 時間を戻す前のこと

食堂の片付けが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。

私は椅子に座り、窓の外を眺めていた。

今日もいろいろなことがあった。

初めてゲームをして。

初めてカツ丼を作って。

知らないことばかりだったけれど、不思議と嫌ではなかった。

むしろ――。

明日は何をするのだろう。

そんなことを考えている自分が、少しだけ不思議だった。


「芳乃ちゃん」


声に振り向く。

小さな芳乃が、テーブルの向こうから私を見ていた。


「なあに?」


「聞いてもいい?」


「うん」


少しだけ間があった。


「アルベールって、昔はどんな人だったの?」


私は答えられなかった。

アルベール。

その名前を聞いただけで、胸の奥にいくつもの景色が浮かんでくる。

大樹の下。

並んで歩いた道。

笑っている顔。

そして――。

私を知らないと言った、あの日の顔。


「……優しい人だったよ」


ようやく、それだけ答えた。


「優しい人?」


「うん」


私は少し考えてから続けた。


「小さい頃から、ずっと一緒だったの」


「小さい頃から?」


「そう。いつからだったかな。私はずっと、アルベールのことを『お兄ちゃん』って呼んでた」


「お兄ちゃん?」


「本当のお兄ちゃんじゃないよ。でも、ずっとそう呼んでたの」


芳乃は小さくうなずいた。

私は目を閉じる。

すると、ずっと昔の景色が浮かんできた。

大樹の根元を走る二人の子供。

転んで膝を擦りむいたアルベール。

その前にしゃがみ込んでいる、幼い私。

――泣かないで、お兄ちゃん。


「大樹の下で、よく遊んだの」


「この大樹?」


「うん。あの人も、ここが好きだった」


あの頃は、これからもずっと同じ時間が続くと思っていた。

どちらかが忘れていることを、もう一人が覚えている。

そんなふうにして、二人の思い出は増えていった。


「アルベールはね、この大樹のことを『僕たちの場所』って言ってた」


「僕たちの場所……」


芳乃が窓の向こうへ目を向ける。

私も、その視線を追った。

静かな大樹。

今では、私ともう一人の芳乃をつないでいる木。

けれど、あの頃は。

私とアルベールをつないでいた場所でもあった。


「だから……時間を戻したの?」


芳乃が尋ねた。

私はすぐには答えなかった。


「それだけじゃないの」


「……?」


「ある日、村の北側で地面が崩れ始めたの」


あの日の空を覚えている。

低く垂れこめた雲。

村を行き交う人たち。

何度も鳴った警戒の笛。

北側から避難してくる人たち。

そして。

いつもよりずっと真剣な顔をしたアルベール。


『約束して。危なくなったら、自分のことを一番に考えるって』


私は約束した。

けれど。


「アルベールは、逃げ遅れた人たちの避難を手伝いに行ったの」


「危ないところに?」


「危険区域の中には入らないって言ってた。でも……」


私は膝の上で、そっと手を握った。


「大きな崩落が起きた」


あの音は、今でも覚えている。

地面が揺れて。

北側から土煙が上がって。

アルベールは戻ってこなかった。


「探しに行こうとした。でも、行けなかった」


「どうして?」


「アルベールに言われてたから」


――僕を待ったり、探しに来たりするなよ。


「危なくなったら、自分のことを一番に考えろって」


「……そっか」


「でも、待っていることもできなかった」


どうすればいいのか分からなかった。

助けに行けば、自分まで危険になる。

待っていれば、もう二度と会えないかもしれない。

そんなとき。

大樹が私の名前を呼んだ。

――よしの。


「大樹が?」


「うん」


私は大樹を見上げた。


「触れたら、昔の景色が見えたの」


アルベールと一緒にいた時間。

大樹の下で笑った日。

もっと幼かった頃。

時間が、どんどん逆向きに流れていった。

そして私は気づいた。

この大樹なら。

時間を戻せるのではないかと。


「だから、お願いしたの」


「なんて?」


私は少しだけ目を伏せた。

あの日の自分の声が、今でも耳に残っている。


「『お兄ちゃんが無事だった時間まで戻して』って」


芳乃は何も言わなかった。

大丈夫とも。

間違っていたとも。

言わなかった。

ただ、私の話を聞いていた。


「それで……戻ったんだ」


「うん」


「アルベールは?」


「無事だったよ」


あの日。

何事もなかったような村の中で。

アルベールの姿を見つけた。

生きていた。

怪我もしていなかった。

それだけでいいと思った。

時間を戻してよかったと。

そう思った。


「でも……私のことを覚えてなかった」


小さな芳乃が、私を見る。


「私だけじゃない。みんな、私のことを忘れてた」


「……芳乃ちゃん」


「だから、最初は取り戻したかった」


前と同じ時間を。

前と同じ関係を。

アルベールが私を「芳乃」と呼んでくれた日々を。


「でも、戻らなかった」


静かな食堂に、時計の音だけが響いている。

しばらくして、芳乃が口を開いた。


「後悔してる?」


「え?」


「時間を戻したこと」


私は考えた。

もし、時間を戻さなければ。

私は今も、元の場所にいたのだろうか。

私を知っている人たちもいたのだろうか。

アルベールとの思い出も、そのままだったのだろうか。

でも。

その代わりに、アルベールがどうなっていたのかは分からない。

私は首を振った。


「……してない」


自分でも驚くほど、すぐに答えられた。


「もう私を覚えてなくても、生きていてくれたから」


それだけは、変わらない。


「そっか」


芳乃は笑った。


「じゃあ、よかった」


「よかった?」


「うん。芳乃ちゃんが後悔してないなら」


私は少しだけ笑った。


「それにね」


芳乃が続ける。


「時間を戻したから、私ともまた会えたのかもしれないでしょう?」


「……そうだね」


「芳乃ちゃんが時間を戻して、いろんなものが変わってしまっても」


小さな芳乃は笑った。


「私は、もう一度芳乃ちゃんを見つけたよ」


私は何も言えなかった。

――もう一度、私を見つけてくれますか。

ずっと、心のどこかで願っていたのかもしれない。

もう一度。

私の名前を呼んでほしい。

私を見つけてほしい。

その願いを向けていた相手は、きっとアルベールだった。

けれど。

時間を越えて。

私の名前を覚えていて。

もう一度、私を見つけてくれた人は――。

目の前にいた。


「……見つけてくれたね」


「うん」


芳乃は当たり前のことのように答えた。


「だって、約束したから」


――また、会おう。

遠い昔。

大樹の下で交わした言葉。

あの約束は、消えていなかった。

世界が私を忘れても。

時間がどれだけ流れても。

大樹と、この子だけは覚えていてくれた。


「ありがとう」


気づけば、そんな言葉が出ていた。


「どうしたの?」


「ううん」


私は笑った。


「言いたくなっただけ」


芳乃も笑った。


「それなら、どういたしまして」


そのときだった。


「……あれ?」


芳乃がテーブルの上を見た。


「どうしたの?」


「これ、さっきからあった?」


そこには、一冊のアルバムが置かれていた。


「……なかったと思う」


私たちは顔を見合わせた。

芳乃が表紙に触れる。

ゆっくりと開くと――。


「えっ?」


最初の頁に、一枚の絵があった。

二人で並んでゲームをしている。

次の頁には、食堂で一緒にカツ丼を作っている私たち。

さらにめくると。

二人で「いただきます」と手を合わせている。


「これ……今日のこと?」


「うん。でも、誰も撮ってないよね?」


「撮る?」


「あ、そっか。芳乃ちゃんは写真も知らないんだ」


芳乃は少し考えてから、アルバムを指さした。


「こうやって、そのときの景色を残しておくものだよ」


「でも、誰が残したの?」


「それは……」


二人で窓の外を見る。

大樹の葉が、夜風に揺れていた。


「大樹?」


私が呟く。

芳乃はしばらく大樹を見てから、笑った。


「大樹が覚えてくれたのかも」


「私たちのことを?」


「うん」


私はもう一度アルバムを見る。

ゲームをして。

料理をして。

一緒に食べて。

どれも、今日初めて作った思い出だった。

失った時間ではない。

これから作っていく時間。

その一つ一つを。

大樹が覚えてくれている。


「……増えるのかな」


「え?」


「これからも、一緒にいろんなことをしたら」


芳乃が笑った。


「増やしてみようよ」


「うん」


私はアルバムの最後の頁を開いた。

そこには、まだ何もない。

真っ白な頁が、何枚も続いていた。


「いっぱいあるね」


「うん」


「じゃあ、これからは新しい思い出を増やそうよ」


「新しい思い出?」


「ゲームもあるでしょ。食堂もあるでしょ。それから、おいしいものもいっぱい作って――」


「全部、芳乃ちゃんの好きなものじゃない?」


「いいじゃん」


思わず笑ってしまった。


「じゃあ、次は?」


「次?」


「次は何を教えてくれるの?」


そう尋ねると、芳乃は少し考えた。

そして、にっこり笑った。


「いっぱいあるよ」


「そんなに?」


「うん。私、長く生きたから」


その言葉に、私は少しだけ驚いて。

それから笑った。

そうだった。

目の前にいるのは、あの日出会った小さな女の子。

でも。

私が知らない長い時間を生きてきた芳乃でもある。

私にも、話したいことがある。

芳乃にも、きっとたくさんある。

急ぐ必要はない。

これから少しずつ聞いていけばいい。

アルバムには、まだたくさんの白い頁が残っている。

失った時間を取り戻すのではなく。

二人で、新しい時間を作っていけばいいのだから。

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