第8話 二人の芳乃と、まだ見ぬ花
芳乃食堂の午後。
窓から差し込む柔らかな日差しの中、二人の芳乃はテーブルを囲んでいた。
テーブルの上には、一冊のアルバム。
昨日、街へ出かけたときの写真が新しく増えていた。
二人でクレープを食べている写真だ。
「これ、おいしかったね」
小さな芳乃が嬉しそうに言った。
「うん。でも、食べるのが難しかった」
「芳乃ちゃん、クリームを落としそうになってたもんね」
「芳乃だって、笑ってばかりだったでしょう?」
「だって、面白かったんだもん」
二人は顔を見合わせて笑った。
アルバムをめくる。
市場で焼き菓子を分け合った写真。
ゲームを遊んだ写真。
一緒にカツ丼を作った写真。
そして、その先には――。
まだ何も描かれていない白いページが続いていた。
「次は何をしようか」
未来の芳乃が尋ねる。
「そうだねえ……」
小さな芳乃は少し考えた。
「そういえば、芳乃ちゃん。お花は好き?」
「花?」
「うん」
「好きだよ。大樹のそばにも、季節になるといろんな花が咲いていたから」
「そっか」
小さな芳乃は嬉しそうに笑った。
「私ね、昔から一度やってみたいことがあったんだ」
「どんなこと?」
「大切な人と一緒に、特別な花を探しに行くこと」
「……特別な花?」
「うん」
小さな芳乃は、懐かしそうに目を細めた。
「ずっと昔にね、『天使の詩』っていうゲームを遊んだことがあるの」
「天使の詩?」
「そう。私が人間だった頃に遊んだ、古いゲームなんだ」
「どんなお話なの?」
「大切な人と一緒に、特別な花を摘みに行くところから始まるの」
小さな芳乃は、両手を膝の上に置いた。
「エウリカの花っていうんだよ。その花を摘みに行くことには、二人にとって特別な意味があるんだ」
「素敵だね」
「うん。私もそう思った」
小さな芳乃は笑った。
「いつか私も、大切な人と一緒に、そんな花を探しに行けたらいいなって」
「行かなかったの?」
「……うん」
「どうして?」
「どうしてだろうね」
小さな芳乃は窓の外を見た。
「そのうち行こうって思っているうちに、ずいぶん時間が経っちゃった」
未来の芳乃は、黙って話を聞いていた。
「でもね、そのゲーム、最初のお話だけだと悲しい終わり方をするんだ」
「悲しい終わり方?」
「うん。大切な人と結ばれたのに、世界を守るために、離れ離れになっちゃうの」
「……そうなんだ」
「世界は救われたんだよ。だけど、二人は一緒にいられなくなった」
小さな芳乃は、少しだけ声を落とした。
「私だったら……嫌だな」
「嫌?」
「うん。たとえ世界を守るためでも、大切な人とあんなふうに別れたくない」
その言葉に、未来の芳乃は目を伏せた。
大切な人と別れる。
その人を救うために、自分との時間を失う。
アルベールを救うために時間を戻した、あの日のことを思い出していた。
「……私、少し分かるかもしれない」
「芳乃ちゃん?」
「大切な人が無事なら、それでいいって思ってた。でも、その人と過ごした時間を覚えているのが自分だけって、
やっぱり寂しいんだね」
小さな芳乃は何も言わなかった。
未来の芳乃も、それ以上は続けなかった。
しばらく、窓の外から聞こえる鳥の声だけが二人の間を流れた。
やがて、小さな芳乃が口を開いた。
「……でも」
「どうしたの?」
「もし、その世界に何よりも大切な人がいたら……」
小さな芳乃は、隣にいる芳乃を見つめた。
「その人が生きている世界を守るために、それしか方法がないんだったら……私も、同じことをするかもしれない」
「……芳乃」
「離れたくないよ。ずっと一緒にいたい。でも、その人がいなくなっちゃうくらいなら……」
小さな芳乃は、少しだけ笑った。
「自分がそばにいられなくても、その人には生きていてほしいから」
未来の芳乃は、すぐには答えられなかった。
あの日、自分も同じことを願った。
アルベールが生きていてくれるなら。
たとえ、自分のことを忘れてしまっても。
「……私も、そう思ったことがあるよ」
「うん」
小さな芳乃は、それ以上聞かなかった。
ただ、もう一度だけ芳乃を見つめた。
「でもね、芳乃ちゃん」
「なに?」
「今、こうして一緒にいられることは……大切にしたいな」
未来の芳乃は頷いた。
「……うん。私も」
小さな芳乃は、ようやくいつもの笑顔に戻った。
「なんだか、難しい話になっちゃったね」
「そうだね」
「せっかく花の話をしてたのに」
「……ねえ、芳乃」
「うん?」
「その花、探しに行こうよ」
小さな芳乃は目を丸くした。
「……え?」
「大切な人と一緒に、特別な花を探したかったんでしょう?」
「うん。でも、あれはゲームの中のお花だから……」
「じゃあ、別の花でもいいんじゃない?」
「別の花?」
「うん。私たちが見つけた花を、私たちにとっての特別な花にすればいいと思う」
小さな芳乃は、しばらく何も言えなかった。
「……一緒に探してくれるの?」
「もちろん」
未来の芳乃は笑った。
「二人で探した方が、きっと楽しいでしょう?」
「……うん」
小さな芳乃は俯いた。
そして、顔を上げた。
「ありがとう、芳乃ちゃん」
「どういたしまして」
「じゃあ、約束だよ」
「うん。約束」
二人は笑い合った。
けれど、どんな花を探すのかは、まだ決まっていなかった。
どこに咲いているのかも分からない。
それでも、未来の芳乃は不思議と楽しみだった。
「どんな花がいいかな」
「そうだねえ……」
小さな芳乃は考え込む。
「白い花もいいし、赤い花もいいし……」
「全部探してみる?」
「全部?」
「うん。いろんな花を見てから決めればいいよ」
「それじゃあ、すごく時間がかかっちゃうよ?」
「いいんじゃない?」
未来の芳乃はアルバムを開いた。
まだ白いページが何枚も残っている。
「時間なら、これから増やしていけばいいんだから」
小さな芳乃は、そのページを見つめた。
「……そうだね」
そして、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いっぱい探そうね」
「うん」
窓の外で、風が吹いた。
小さな芳乃は、ふと顔を上げた。
遠い昔。
まだ人間だった頃。
風が吹くたびに、思い出すことがあった。
もう会えないと思っていた、ある人のことを。
けれど今、その人は目の前にいる。
「……芳乃?」
未来の芳乃が尋ねる。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
小さな芳乃は笑った。
「どんな花が見つかるか、楽しみだね」
「うん」
二人はもう一度、アルバムを覗き込んだ。
市場の写真。
クレープの写真。
二人で笑っている写真。
そして、その先には――。
まだ何も描かれていない白いページ。
いつか、そこに花の写真が増えるのだろうか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ、決まったことがある。
いつか二人で、花を探しに行く。
それだけの小さな約束が、また一つ増えた。
※「作中にはゲーム『天使の詩』第1作の結末に関する言及があります」




